初陣(1)
金朝の尚書右丞相・完顔襄の使者が中都を出たのは、明昌六年(1195年)晩夏のことであった。高原の東部を支配するケレイト部族長トオリルに対し、来年春に行われる、タタル部族の征討に参加するよう命じるためである。
女真族の金朝は北方に広がる草原の統治に苦慮してきた。中央アジアを本拠とする契丹族の西遼が、モンゴル部族、メルキト部族、ナイマン部族など草原の民の大部分を支配していたからである。しかしながら金朝は、タタル部族にモンゴル部族を攻撃させ、また元来、西遼の旗下にあったケレイト部族も寝返らせ、草原東部における支配権を着実に広げていた。
明昌六年春、夾谷清臣率いる軍を北進させ、タタル部族とともに、ホロンバイル草原にいる西遼派勢力を討った。ところが、タタル部族長セチュが戦利品を勝手に分けたことを、清臣が叱責したため、セチュは逆に、界濠という、中華と草原を区切るために金朝が築いた長城の拠点を襲うようになった。
皇帝・章宗に対して、完顔襄は、
「臣に北へ征けとお命じください」
と上奏した。
これに対して章宗は言った。
「公は皇族の中でも雄なる者である。公が向わねばならぬほど、タタル部の界濠侵犯は重大事とは思えんが」
すると、完顔襄は顔色を変え、
「臣の憂うるところは、タタル部が西遼に寝返り、かつ界濠一帯の契丹族が呼応して蜂起する点にあります。すばやく動けば、少数の騎兵を出すだけで事足ります」
と、自身が率いる兵数が多くなくていい点を強調した。
そこで章宗は
「よろしい」
と答えた。
章宗は大定29年(1189年)に祖父・世宗の崩御により皇位を継承した。中国文化に傾倒したことで著名であるが、自らの地位を脅かす皇族を幾人も謀反の罪で処刑していったことでも知られている。
完顔襄は、北伐を名目に軍権を握って反旗を翻すのではないかと疑われたことに、気付いたのだった。
正式に清臣が解任され、完顔襄が総大将となったのは同年11月だったが、完顔襄は随分前から動いていた。前線基地となる臨潢府に屯する兵数は少なく、ケレイト部族を用いることが必要だったため、早めにトオリルに向けて使者を出しておかねばならなかった。
遊牧民にとって、秋冬は翌年の戦闘のための武具、革製防具、携帯食糧を生産する時期だったからである。