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生きる

作者: 野宮

織田作之助「競馬」を読んでいたらエモさが頂点に達したのでばんえいで一発書くことにしました

 空港から競馬場まではリムジンバスでおよそ一時間弱だった。空は晴れて雲ひとつなく、冬にもかかわらず車内が暑いくらいなのは暖房のせいだけではなさそうだった。君は財布の中を確認する。一万円札が二枚、五千円札が一枚、そして千円札が四枚。それが現状における君の全財産だ。


 君は堅実な男であったから、二つ持っている預金通帳のいずれにも数百万から一千万円ほどの積立があった。金を使う事は少なく、時々趣味のレコード蒐集に使うくらいだった。堅物ではあったが人は好く、上司や同僚に誘われれば宴席にも厭うことなく顔を出して酒を飲み、すすめられれば莨ものんだ。しかし自分から進んで酒や莨に手は出さず、女に言い寄られてもやんわりかわした。仕事を欠勤したのは父親の葬式のときとあと一度のみで、それ以外は毎日きっかり同じ電車で出勤しては仕事をこなし、ときどき残業をして帰った。物静かで勤勉、身持ちの堅い男という印象を周りに与えていた。

 しかしそんな堅実なはずの君がなぜ二万九千円しか持っていないのかというと、君は堅実であることを止めようと思ったのだ。君はまず会社を辞めた。マンションを引き払い、わずかな荷物を隣の県の実家に置いた。一人暮らしの母はたいそう驚いたが、君は何か言われてしまう前にさっさと家を出た。

 行きの航空券は事前に買ってあった。君は、Suicaと三万円だけ入れた財布をポケットに捩じ込むと空港へ行き、北海道へ飛んだ。最初に減った千円は、空港から市内へ移動するためのリムジンバスの運賃だった。


 競馬場前というバス停で降りると、顔に触れる空気のおそろしく冷たいことに君はびくりと身をこわばらせた。しかし黙って立っていれば身を包む日差しはじんわりと暖かい。やわらかな暖かさとおそろしい冷たさの共存に困惑しながら君は競馬場に入場した。入場に、百円かかった。二万八千九百円。

 スタンドに向かって歩く君とすれ違うように、コース脇の通路を馬たちが歩いてスタート地点へ向かっていた。大きいな、と君は思った。君はほかに馬など見たことがないのだから大きさの基準などわからないはずだ。しかしそれでも大きい、と思った。

 スタンドの中にはいくつも暖房が設置されていたがやはり寒かった。高い天井と打ちっぱなしのコンクリートの床のせいではないかと思いながら、君はヒーターに手を差し出した。

 体を少し温めたところで君は馬券を買おうと思ったが、上手くマークシートを埋めることができず、券売機がエラーを吐いた。あたふたしていると券売機の横から中年女がぬっと顔を出して様子を伺ってきたので、君は内心驚いて一旦引き返した。マークシートは性に合わん、と君は苦い顔をする。君はセンター試験もマークミスのせいでずいぶん低い点数を取っていたのだった。

 そこで目に付いたのが口頭購入窓口だった。

「一レース、単勝、3番の馬を」

 君がそう言うと窓口の女は無感情に君の顔を見て金額を尋ねた。君は黙って千円札を差し出した。千円? はい、はいこれ馬券。そうして君は生まれて初めて馬券を買った。残金は、二万七千九百円。

 場内のモニターにはオッズが表示されていた。3番の馬の単勝オッズは四十五倍。人気順で言えば八頭立てのうちの六番人気だった。これが勝てば四万五千円が返ってくるのか、と思うと君は不思議な心持ちになった。間も無く締切時間がきて、周囲にいた客がみな外に流れていったが、君は外に出なかった。先ほどの外の寒さに懲りていたのだ。それでも問題はない。場内のモニターでレースは観られるのだから。


 君は競馬を知らない。知らないが、ここで行われている競馬が普通でないことはなんとなくわかった。君が辞めた職場近くの駅に貼ってあった中央競馬のポスターとは印象が違いすぎたからだ。騎手は馬に乗っておらず、ではどこにいるのかといえば馬の後ろにいる。馬は橇をかけられており、その橇の上に騎手が乗っているのだ。短い直線のコースには山がふたつあり、これを越えていくのかと君がぼんやり想像している間にファンファーレが鳴り、ゲートが開いた。

 しゃんしゃんと鈴のような音を響かせながら馬が走る音が場内のスピーカーからも流れ出た。案外遅いな、と眺めていたら、ひとつめの小さな山を越え、二つめの大きな山との間くらいのところで馬が一頭また一頭と動きを止めたので、おやと思って君は立ち上がってモニターに近寄った。3番の馬はどちらかといえば後方にいた。真っ黒い馬だった。

「第二障害に向けて各馬刻んでいきます」

 と実況が言うので、馬が止まるのは普通のことであるらしい、と君は理解した。彼らは数歩歩いては止まり、また数歩歩いては止まり、を繰り返して第二障害とよばれた大きな山の手前まで進んだ。

 最初に第二障害に登りかけたのは5番の馬で、それから6番、1番。しかしいずれの馬も登りきる前にまた止まってしまった。最初に登りきったのは1番で、それが断然人気の馬であるらしかった。1番が一気に第二障害を駆け下りていったとき、3番はようやく障害を登ろうと動き始めたところだった。ああもうだめだと君は思ったが、折角なので最後まで見届けてやろうとモニターからは離れなかった。

 3番の馬は、最後から数えて二番めに第二障害に足をかけたが、その頃には先に降りていた馬たちが遅い歩みながら熾烈な先頭争いをしており、カメラがそちらばかり映すので3番の馬はモニターにすら映らなくなった。コースの外側では客たちが一緒に歩きながら声援を送っているのがスタンドの中まで響いてくる。君はいつだかに観たコメディホラー映画を思い出した。老人ホームに現れたゾンビと歩行器を使わなければ歩けない老人の低速デッドヒート。

 君はもうすっかり諦めてモニターを眺めていたが、実況が徐に3番の馬の名前を言うので目を瞠った。後方からぐんぐんと早歩きで差を詰めてきたその馬が、先頭争いを映すモニターに割り込んでくる。これはと思って君は思わず手を握りしめた。ゴールまでは数メートル。先頭を歩く1番と6番はいまにも止まりそうで、実況にも熱が入っていた。

 先にゴールラインに鼻先を突き出したのは6番だった。しかし、実況がまだ勝負のついたふうの言い方をしないので、ゴールを決めるのは鼻先ではないらしいと君は理解した。止まってしまった6番をかわして、先に尻が入線したのは1番だったが、そこで止まると実況が「おっとここで止まってしまった」などと言うのでここもゴールではないらしい。まだ勢いのある3番がそこで二頭を交わそうとしたが、そこで再度1番が動き出す。二頭ほとんど横並びで橇まで丸ごと入線したところで、「粘った1番か、強襲した3番か」という実況があった。ゴールは橇の後端か、と君はどこか冷静に考えた。後続馬があらかた入線してくるのと同時にどやどやと外から観客が戻ってきて、君の立っている周辺に集まってきた。リプレイ映像を確認するためだ。しかし、わからない。判定は写真判定に持ち込まれた。君は周囲を見渡した。案外に若者が多い。子連れのものもいる。学生らしきものたちは1番がしのぎ切っただろうと話し合っていた。まもなくモニターに映された電光掲示板、一着の欄に示された数字は3だった。

 本当にその馬は人気がなかったらしく、君が買った時よりもオッズは上がって五十六倍。払戻機に馬券を入れると紙幣と百円玉がぱらぱらと出てきた。少々驚きながらも、君は金を財布に収めた。残金は八万四千七百円に増えた。

 君はこのようなことで喜びはしても浮かれたり調子に乗るような男ではなかった。しかし、俺は堅実であることをやめるのだ、調子に乗って大金を狙うのだ、と心の中でひとりごちると、一万円札を手に口頭購入窓口に並んだ。


「大丈夫なの、パドックも見ずに」

 声が掛かったのは次のレースの馬券、3番の単勝馬券一万円分を手にベンチに戻るときだった。声の主は髪の短い女だった。君のことを見ていたらしいその女は、鷹揚に笑ってひらりと自分の馬券を振った。3番の単勝、千円分だった。

「競馬のことはよく知らないので」

「ああ、知らないからそんな無茶な買いかたができるのね」

 自分でも同じ馬券を買っておきながら無茶な賭け方などと言うよくわからない態度に、君は少しだけ関心を向けた。失礼にならない程度に女の全身を眺め回す。前のレースは外で観戦していたのだろう、白皙の頬を赤く染めた女の横顔は美しく、君は自分と同じくらいの年齢だろうかと考えたが、しかし老成した表情と洋服の着こなしの野暮ったさが彼女を老けて見せていた。

「無茶ですか」

「無茶だね。この馬、ここ四走ずっと大差負けしてる。三着圏内だって難しいわよ」

「ではなぜ買ったんですか」

「3番、だからね」

 君はどきりとして横に座ってきたその女を見た。女は、あなたもそうでしょう、と見透かすような目で君を見ていた。



 君には恋人はなかったが、そう解釈されても仕方ないと思うような相手はいた。つまり、生活費を折半し、一緒に食事を摂り、時々どちらかの寝室に縺れ込むような。それは大抵レコード鑑賞のために防音壁を設置してある君の部屋であることが多く、君と彼はしばしばバッハやビル・エヴァンス、ドアーズなんかを背景に汗を滲ませた。

 そして一ヶ月前にころりと自死したその相手こそ、君を「三」で縛り付けている男であり、彼は名を三省といった。母親同士が友人で、勤務地が近いと知って勧められるがままに始まったルームシェアはまもなく四年目というところだった。

 君が彼のことを恋人と呼ばない理由は、別に性別の問題によるものではなかった。

 三省は賢く奔放な男だった。上背こそあったが線は細く、容姿は女性と見紛うほど繊細で美しかった。しかしそれに見合わず性格は豪気で皮肉屋で、気さえ向けば女とも男とも寝る奔放さを持っていたが、どの相手とも一度きりだった。君を除いては。実入りの良い仕事に就いており、収入は君よりも多かったが、貯金は君より少なかった。きちんとしたテーラーで仕立てた小洒落たスーツを何着か持っていて、死んだ時もそれを着ていた。君が持っている一番高級なスーツは、クリスマスでも誕生日でもない何もないある日唐突に三省にテーラーに連れていかれ、仕立てを依頼されたものだった。


 部屋の荷物をきちんと整理し、マンションの売りでもあったカウンターキッチンの足元に備え付けられた大きなガスオーブンで肩から上をこんがり焼いて死んでいた(直接の死因は窒息だが)彼は状況的に明らかに自殺だったが、遺書の類は残されていなかった。

心当たりはあるかと何度も警察や彼の親に尋ねられたが、君にもとんと見当はつかなかった。しいて言うなら前日の情事の際にかかってていたデヴィッド・ボウイがあげられるかもしれないが、ふざけていると思われたくはなかったので黙っていた。なにしろ気分屋な男だったのだ。前夜のセックスの終わりに流れていた曲が「ロックンロールの自殺者」だったからという、それだけの理由で思い立ってロックな死に方を試してみたのだったとしても、君にはさして不思議には思えなかった。むしろ、仕事か何かで心を病んだ末の自死というよりその方がよほど自然だと君は思っている。あの曲の歌詞が自殺を示唆するような内容ではまったくないことをわかっていても、なお。

 君も大概無頓着な男であったから、君は三省が死んだあとも普通に台所に立って米を研いだしカレーを煮たし、三省が焼けていたのと同じオーブンで冷凍ピザを焼きさえしたが、半月たったある夜、君は突然無頓着でいられなくなった。

 その日、君が仕事帰りにポストを覗くと、三省宛の郵便物が入っていた。馬の絵が描かれたポストカード。差出人の名前はなく、代わりにメッセージが書いてあった。


「競馬場でお待ちしています」


 これを読んだ瞬間、君は自分の肺の容積が急に半分くらいになってしまったように感じた。背筋が粟立ち、奥歯がぎりと軋む音を立てた。

 線の細い流麗な字はどちらかというと女性的で、三省の字とも少し似ていた。差出人の名前を書かなくても分かるだろうという自信、一言の走り書きで十分だろうという不遜さから、君は私的な付き合い、それもかなり親密なものを連想した。

ふと、骨の浮いた細い男の背中に赤いマニキュアを塗った爪が食い込む図が脳裏をよぎり、君はぶるりと身を震わせた。君は怒っていた。どんな相手とも寝るのは一度きりだったのではないのか。何度も体を許したのは、俺だけだと言っていたのは嘘か。

 三省がいたら、ポストカード一枚でそこまで想像して勝手に怒るなんて滑稽ですねとか、そもそも僕等の間には義理も約束も存在しませんよとか、薄笑いで吐き捨てただろう。しかし、ここにそうやって君を落ち着かせられるものはいなかった。三省が死んでから、君は軽率になりやすかった。

 俺が行く、と君は思った。ポストカードは市販品で、よく見るとリュックを背負った二足歩行の馬の足元にはイラストレーターのものと思しき名前が書いてある。インターネットで検索するとすぐに同じ商品が見つかった。帯広競馬場の売店の通販サイト。相手は北海道か、と認識したところでようやく君も頭が冷めてきた。しかしそれで帯広競馬場のホームページと航空券の予約サイトにアクセスして旅行の算段を立て始めるのだから、冷めてきたとしてもまだ冷えてはいなかった。

 パソコンから一旦離れてコーヒーを飲むと君はようやく冷静になり、はて自分はこんな軽率な人間であったかと思案した。しかし、もう、軽率でいいとも思った。自棄になっているのかもしれなかった。

何のために生きているのかわからない、わからなくても漠然と進むものが人生で、たぶん生きる意味などというものは本来誰にも存在しないのだ。それを知っていたからこそ三省は蟻を踏み潰すような気軽さで死んだのではないか。そう思うと、君は自分のこれまでの生き方が馬鹿らしくなった。堅実に生きることが一体何をもたらすというのか。安定。約束された明日。そんなものを大切にしていたのかと自嘲の笑みさえ漏れた。最も大切にしていたはずのそれらは、いまや君にとって最も不要なものだった。君は漸く自覚した。君はずっと、羨ましかったのだ。放埓な蝶のような男の生き方が。死に方さえも。

 彼がオーブンに頭を突っ込んだように、あの男に頭を突っ込んでみようと君は考えた。それで生き残れば生きればいいし、死ぬならそれまでだ。三省にポストカードを寄越した人間のことはもう君の頭からほとんど消え失せていた。

 それから二週間かけて君はこれまでの人生を捨てた。会社に辞表を出した。気に入りのレコードを何枚かとプレーヤー、それから数日分の洋服以外のものをすべて捨ててマンションを引き払った。そして、荷物を実家に置いて外に出た。君はもうほとんど死ぬつもりだった。三省に殺されたかった。



 第二レース、3番の馬は何の見せ場もなく負けた。だから言ったじゃないと呑気に笑う女を尻目に、君は再び窓口に立った。今度は五千円札を突き出す。残金は六万九千七百円。

「次もあんまり見込みはないよ」

「そうですか」

 見込みはない、と言いつつ、女の手には君のものと同じ馬券が挟まれている。君は彼女に不気味さを感じ始めていた。

「次は複勝にしたらいいんじゃない?」

「複勝では、儲からないのではないですか」

「単勝では外れるでしょう」

「外れたら、外れたでいいでしょう」

 君がそう言うと女は楽しそうに笑った。

「そうね。いいな」

 第三レースの3番は人気の割に健闘して三着だった。三が並んで縁起が良いじゃんと女はまた笑ったが、馬券は外れだ。

 第四レースの3番は、不人気に応えて七着。第五レースの3番は一番人気の通りに圧勝したが、人気のせいでオッズが低く、儲けというほどの儲けにはならなかった。六万六千八百円。

「あなた、今日は一日こうしているの」

「そのつもりです」

「その後は」

「わかりません。残金によって決めます」

「そう。それは面白いね」

「面白いですか」

「ええ。見ない顔だけど、旅行かなにか?」

「ええ」

 女が本当に愉快そうだったので、君は何故だかげんなりした。彼女はげんなりする君の様子すら楽しんでいるようだった。これ以上何か言われるのは癪に障る、と考えた君は、彼女に逆に質問することでそれを回避しようとした。

「あなたはいつもここに来ているのですか」

「そうね。開催のある日はいつもここにいる」

「それで、いつも同じ馬券を?」

「まあ、そうね。気になる?」

「ええ、……まあ」

「ふふ、じゃあ教えてあげましょう。このレースが終わったらね。そうだ、マークシートの書き方も教えてあげる」

 次のレース、第六レースの3番は第二障害を先頭で越えたものの後続の馬に抜かされて四着だった。自動券売機で馬券が買えるようにマークシートの埋め方を君に教えてやったあと、女は約束通り話を始めた。

「私、目の中に三日月があるの」

 何を言っているんだと君が顔を上げて女の顔を見ると、彼女は右目の下に指を当てて皮膚を押し下げた。戸惑いながらも覗き込むと、確かに黒い虹彩の下の方の色が抜けていて、白い三日月模様に見えなくもない。あるでしょ? と微笑むと、女はそのまま話を続けた。

「この目がどうも良くないらしいって言われてね。なんでも、この目のせいで男が狂うとかなんとか。普通に私の顔が良いからだって言えばいいのにね、妬ましかったのかしら。目の三日月のせいで男が狂う、魔性の女だと噂が立てられた。中学生のときからよ、信じられる?」

 確かに彼女は美しい顔立ちをしていたが、当たり前のように自分の容姿を褒める女に君はぎょっとした。三省もよく同じような言動をしていたからだ。しかし彼女の話を止める気にはなれず、君は黙って話を続けさせた。

「高校入るころになるとそういうお誘いがどんどん露骨になって、で、私も頭悪いし、上手いこと口説かれたらいい気になっちゃうじゃない。乞われるがままに男と寝たりしてたら、妊娠しちゃって。で、私、苗字は三条って言うんだけど、関西では所謂名家? まあ、ちょっと知られた家の出身で。その家のお陰でかなりのお嬢様学校にいたから、もちろん退学になったし、しかもそれで怒った両親に勘当された。」

「は、はあ」

「子供できたって言ったら男にも逃げられちゃって、仕方ないから堕ろした。それから一人で生きてきたんだけど、まあ苦労したわあ」

「それは……そう、でしょうね」

「履歴書を出せば苗字に目をつけられる、学歴は高校中退、顔を見せれば男が盛る。とりあえず知人の家に居候してなんとか日銭を稼ぎはしたけど、やっぱり名が知られているところにいるのはやはり良くないなと思って。なんとか十万円貯めて東京に出た。東京は働き口が山ほどあったし、あちこちに風呂屋も洗濯屋もあったから家が無くてもリュックと寝袋一つでなんとかなった。知ってる? 交番の裏で野宿するとおまわりさんが夜ときどき見張りに来てくれるから案外安全なの。で、お金に余裕のあるときはインターネットカフェに泊まったりして。生活が安定してきたのは二十歳を過ぎてからね。キャバクラで働いたら、まあ面白いくらいに儲かって。アパートを借りて、同僚と三人で暮らした。しばらくそれでいい暮らしをしてたんだけど、雇い主が実家の事情で店を閉めることになってしまって。別の店に勤めることになったんだけど、待遇があまりよくなかった。その上客と揉めちゃって。前の店ではママがかなり守ってくれてたんだなってそのとき気付いた。で、その店からは首を切られた」

「はあ……」

「水商売はもう御免だけど、お陰で貯金はだいぶあったし、折角だと思って北海道に来た。一度来てみたかったのよね」

「それで、ここに?」

「ううん、最初は札幌にいた。前の店で知り合った人が仕事を工面してくれたの。小さい料亭の裏方で、最初は皿洗いとか片付けの手伝いをしていたんだけど、そのうち少しずつ料理も仕込まれて、それで調理師免許も取った。でね、初めての夏に女将が競馬に連れて行ってくれたの。店、札幌競馬場の近くで」

「それで、競馬に」

「そう。何も分からないから、とりあえず単勝で、3番の馬を百円だけ買った。三条の名と三日月に振り回されてここまで来たんだし、競馬でも三に振り回されてやろうと思って。そしたら、それが最低人気からの逆転勝ち。百円が一瞬で四万円に化けた。それからは病みつきよ」

「それから、ずっと三番を?」

「うん。テレビや新聞ではこの馬が強いとかこの騎手が上手いとか言うけど、まあ見ちゃうけど、でも運を試しにきているのに予想なんて興醒めでしょう?」

「はあ。そんなものですか」

「そんなもんよ。でもね、札幌競馬は夏しかやってないの。中央競馬は全国持ち回りで開催しているから。秋が来て、冬になると、競馬がないのが寂しくてたまらなくなった。でも、調べてみれば一年中競馬を開催している土地があった。それがここだったってわけ」

「では……競馬のために、移住されたんですか」

「うん。そろそろ一年になるかな」

 女の烈しい半生と「三」の理由を聞いて、君はそれだけで体力を吸い取られたように疲れてしまった。彼女はそれに気付いてか気付かずか、次のレースは外で見ないかと君を誘った。まもなく発売締切時刻だった。

 女について歩きながら、君は少しだけ安心していた。最初に声をかけられた時、三省宛のポストカードが脳裏をよぎったのだ。馬券を見せられて、この女の拘っている三は三省の三ではないかと疑ってしまっていた。三省に振り回されるのは、自分一人でありたかった。君は、そのことを自覚しているかは別として、三省を他の何者とも共有したくないという思いを抱いていた。


 寒さに身を震わせながらコース脇に立った第七レース、3番の馬は抜群のスタートを切った。しゃんしゃんと大きな音を響かせ、砂を蹴り上げて飛ぶように第一障害を走り抜ける。これが競馬か、と君は寒さを忘れて柵に駆け寄った。間もなく第二障害前で騎手が手綱を引いて馬を止めると、他の馬も続々と障害前に到着して蒸気機関みたいに白い息を何度も吐き出した。周りの観客が馬の名前や番号や騎手の名前をめいめいに叫んでいる。熱気につられて君も叫んだ。

「3番!」

 その瞬間だった。3番の馬が坂を駆け上がるのと同時に、騎手がわずかにこちらを見た。ゴーグルとネックウォーマーで顔は隠れてよく見えないが、ともかく、長谷部の方をちらりと見ると騎手はすぐに向き直ってレースに集中した。足をガンガンと踏み鳴らし、長い手綱で橇を叩いて威嚇するように馬を追い立てて先頭で障害を降りる。

「行くよ」

 いつのまにか背後に来ていた女に腕を掴まれて引きずられるようにしながらも、君はゴールに向かう3番を追いかけた。

 馬は障害を降りたばかりのときこそ勢いがあったが、二十メートルも走るとどんどん勢いは衰えてついに足を止めてしまった。その間にも、後ろから他の馬がどんどん差を詰めてくる。

「3番! 3番!」

 逃げ切ってほしい一心で君はまた叫んでいた。騎手は一拍おいて一度手綱をぐっと引くと、馬が体を窮屈そうに縮めたところでぱっと腕を伸ばした。すると、また馬が歩き出す。ふっと馬体に力が入るのが見てわかった。しかし実況は迫り来る8番の存在を知らせてくる。君のポケットの中では馬券がぐしゃりと握り締められている……


 結局、3番は二着に敗れていた。しかし、君の心のうちには不思議な充足感があった。先程まで彼の袖を握っていた女は、「行けると思ったんだけどなあ」と残念そうに呟いていたが、初めて間近で見る競馬にぽやんとしてしまった長谷部を見ると嬉しそうに話しかけた。

「どうよ、なかなか面白いでしょう? 競馬というのは」

「……ええ、まあ」

 長谷部が頷くと、女は満足げにうんうんと三日月の宿る目を細めた。で、と、笑顔を引っ込める。

「あなたを縛る『三』は、何?」


 話したくはなかったが、それまでに聞いてしまった女の話が君の首を絞めた。私には話させておいてあなたは教えてくれないのねと肩を落とされたら、黙っているわけにはいかないのが君だった。君は、大して面白い話ではないがと前置き、話したくない部分は伏せつつここに至るまでの経緯を語った。合間に次のレースの馬券を買うことも忘れなかった。残金、四万六千八百円。


「なるほどね。お友だちを亡くして旅に出た、か」

「……そんなところです」

「なんで帯広だったの?」

「三省が死んだあと、彼宛の絵葉書が届いて……差出人の名は無かったが、調べたらその絵葉書はここのグッズとして売られているものでした」

「ここに来れば差出人に会えると思った?」

「まあ、……そうですね」

「心当たりは無いの?」

「共通の知人は少なかったので」

「親類は」

「母親しか知りません。彼は婚外子で、父親はとうに死んでいて、腹違いの兄弟がいるとは聞いていますが、名前も居住地も、交流があったのかもわかりません」

 君は淡々と述べ、女はそっかと言って黙り込んだ。

「正直なところ、もう殆ど見つけ出せるとは思っていません。見つけて、会ったところで話すことも何もありません。ただ、俺が、あいつに振り回されてみたかっただけなんです」

「なるほど。ちゃんと振り回されてる?」

 ちゃんと振り回される、という言い回しが少しだけ面白くて、君は口元をわずかに緩めた。

「ええ、それなりには」



 その日はもう、3の数字が着順掲示板の一着の枠に入ることはなかった。途中買ったコーヒー代を含めて、収支三万千七百円。


「長谷部くん、だっけ。これからどうするの」

 女は結局最終レースまで君と共にいた。出口に向かって歩きながら尋ねられて、君はさあ、と言葉を濁した。下心やついてこようとする気は感じられない。純粋な興味だろう。だから今まで邪険に扱えなかったのだ。

「適当に宿を探して、食事をして。明日になったら、またここに来ます」

 女は、うんと頷くと駅前までの無料送迎バスがあることを君に教えてくれた。君は小さく礼を述べ、競馬場の出口で女と別れた。日が落ちているせいで、来たときよりもうんと寒くなっていた。

 それから君は教えられたバスで駅前まで行き、目に付いたビジネスホテルに入った。外を歩いている間、ただひたすらに冷たい空気が痛い程に君の肌を刺した。その痛みは暖かい室内に入ってもまだ続き、宿帳に記帳する手はうまく動かなかった。駅の温度計は氷点下二十一度を示していて、それは君にとって初めて体感する気温だった。野垂れ死ぬタイミングが早くなるとしてもこの寒さから逃れたいと、本心から思った。


 宿泊代は一泊七千五百円だった。それから君は宿の目の前にあるコンビニで夕食と翌日の朝食を調達した。コンビニで済ませたのも、外食する金を節約するためなどではなく、この寒さの中を必要以上に歩きたくないというそれだけの思いからだった。残金、二万三千円。

 備え付けのポットを使って茶を沸かし、暖房を最大にして二十分ほどでようやく君は寒さを感じなくなった。こんなつもりじゃなかった、と思う。金を節約するつもりなんてなかったし、翌日の競馬に一万円残しておくとしても残りの一万ちょっとで街に飲みに出てもよかった。なんなら全ての金を使い切って駅前広場のベンチに寝転んで凍死してもよかったのだ。しかしやはり無理か、と君は自嘲の笑みを浮かべた。放埓と軽率の違いに気付くのが遅かった。君は蝶のようには生きられない。無様だ、と君はひとりごちる。顔についた薄い脂肪を溶け落とし、ぱりぱりに焼けてひび割れた皮膚の中から頭蓋骨を覗かせた悍ましい死体、よりもベンチに転がる凍死体、のほうが見た目は美しいだろうが、死に様としてはこちらのほうが余程無様だ。くそ、君は呟いた。クソ。


 熱いシャワーを浴び、コンビニで手に入れた弁当を食べると、ラムネをつまみに安ワインを飲みながら君は部屋に備え付けられている本に手を伸ばした。この系列のホテルに置いてあるのは聖書ではなく社長の自叙伝である。以前三省が出張か何かで泊まってきた時に、見上げた商売根性だと皮肉ではなく感想を述べていたのを思い出したのだったが、君はこれといった感慨を抱けないまま読了した。周囲に対して無感動になっているきらいがあるかもしれない、と君は冷静に考えながらワインを飲み干した。酒の強さは、君が三省に勝てた数少ない項目のうちのひとつだった。




 天気が良いことだけが冬の帯広の取り柄であるらしく、翌日も雲ひとつない晴天だった。君は早い時間に目を覚ますと、今日で決めようと思った。つまり、生きるのか、死ぬのかを。有り金の全てを使って馬券を買い、十分な配当金が得られれば実家に帰ってまた人生をやり直す。中途半端に少しだけ足りなければ、やはりキャッシングか何かで調達して帰ればいい。そしてほとんど配当金が得られなければ、そのときは人通りの少ない公園でも探して凍え死ぬ。あと十時間も経てばこのうちのどれかの道を辿っているのだろうと思うとその無様さに笑ってしまいたくもなるが、君は自分がこれ以上のことをできない男であるということを嫌というほど知っていた。自分の命運を他力に任せることしかできない、こんな俺を見たらあいつはどう思うだろうか、馬鹿だと笑うだろうか、いや、と、そこまで考えたところで君はぽとりと顔から表情を落とした。三省は笑わない。馬鹿だと言いはしても、それは彼にしか出せない柔らかい声音で、そして君が命懸けで足掻く姿を見て笑うことは絶対にしない、そういう男だったのだ。悔しい、と君ははっきり声に出して呟いていた。


 気温は相変わらず低いが、日差しがあって風もなかったため、君はフロントで地図を貰って徒歩で競馬場へ向かうことにした。思っていたより雪は少なく、歩きやすい路面だったこともあり目的地へは二十分と経たずに着いた。

 君はまず先にこの日の全レース分の馬券を買うためマークシートを手に取った。手持ちは二万三千円、十一レースで割って一レースにつき二千円とする。余る千円は昼食代ということにすればいいだろう。券売機に札を四枚とマークシートを十一枚送り込むと、がしゃんがしゃんと小気味好い音を立てて馬券が次々印字されていった。見てるか三省、今俺の人生は十一枚の紙切れになっているところだ。そんなふうに考えて、君は少しだけ高揚していた。


「やあ、やっぱり来たね」

 馬券を先に買ってしまったことで暇になった君が場内をふらふら歩き回っていると、階段で昨日の女と出くわした。人懐こい笑顔で手を振られたら、無視するわけにはいかない。

「昨日はどうも。……ええと」

「三条」

「三条さん」

「もう馬券は買ったの?」

「ええ。一日分」

「あらら。早いな」

 女――三条は、方向転換して君の後ろについてきた。面倒だなと思いつつ、やはり君はそれを邪険にできない。

「じゃあもう暇でしょう。どう、少し見て回らない。私が案内してあげる」

 だから、その申し出も断れなかった。


 三条は競馬場をあちこち、二階の馬券売り場や二階裏の中央競馬のコーナー、併設された購買店舗やスタンド裏のふれあい広場などに君を連れて行った。その合間に第一レース出走馬が出揃うパドックにも。君は嫌々付いて行きつつ、この女は完全な善意のみで俺を連れ回しているんだなあなどと考えていた。女の態度からは、彼女がよほどこの場所を気に入っているのだろうということが伺えた。

 この日、君は食事のために食堂のモニターで見守った第二レース以外全てのレースについてパドックを見に行き、コース脇を一緒に歩いたり走ったりして観戦した。そして、3番の馬はなかなか勝たなかった。君が負けているということは、三条も負けているということである。こんなこともあるよと言いつつ、横で見守る彼女も心なしかレースが進むたびやつれていくように見えた。


 うまくすればここで今日は黒字だ、という第三レースでは惜しくも二着。儲けは少ないがこれは手堅いだろうという第六レースでは断然人気を大きく裏切り、3番の馬は第二障害を越えられなかった。もう少しで登りきれるというところで前足を折って膝をついてしまい、何度立て直してもまた膝をついているうちに他の馬たちは次々と障害を越えていき、ついに3番は蹲って座り込んでしまった。こうなるともうレースに戻るのは難しい。しばらく足掻いたところで騎手が橇を降りて馬具を外し始めたので、これはだめだと三条はため息をついた。橇を外された馬は迎えに来た厩務員に促されるとしゃんと立ち上がり、先ほどまでの苦しそうな様子はどうしたと思うようなけろりとした表情ですたすた帰っていった。

「こういうこともあるんですね」

「わりとよくある。でも座り込んでも早いうちにうまく立て直せばレースに戻って勝負できることもある」

「へえ」


 続く第七、第八レースでは不人気通りの凡走。第九レースは僅差の三着。第十レースも見せ場なく七着。

 隣の女が肩を落としていくのに反して、君はレースが進んで負けが込むほどに高揚していった。競馬の結果が死んだ男に操られているかのように思い込んでいた。おい三省。俺の命を削るのは楽しいか。俺は、お前に殺されようとしているというのは悪くない気分だ。なんてことを、思っていた。


 そして最終、第十一レース。十頭立て、3番の馬は最低人気だった。しかし、きっとまだなんとかなるはずだと君は心のどこかで思っていたのかもしれなかった。これが勝てば大穴だ、大逆転だと。ゲートが開いて五秒で君はその場にへたり込みそうになった。3番の馬は大きく出遅れ、最後尾で第一障害を走り抜けた。


 第二障害を越えた後の逆転劇は多々ある。遅れて障害を越えても、ゴールまでの間に前をかわして先頭に立って勝つ馬は多い。しかし、そんな追い込み型の馬でも、第二障害前まではさっさと到着しているものだ。先を急ぐ馬が障害を登っている間も体を休めて力を溜め、ここぞというタイミングでその力を解放する、それが二日間競馬を見てきた君にとっての追い込み馬に対する印象だった。障害を登るのが遅くても勝てるが、障害の手前に到着するのが遅い馬は勝てない。スタート直後からの遅れは、敗北に直結する。

 負けた、と思った瞬間、空気の冷たさが一気に君の中に流れ込んできた。この寒さに、この寒さが、俺を殺すのだと思うと、それまでの高揚は一気に鳴りを潜め、かわりに顔を出したのは恐怖だった。君は大きく息を吸った。ぴきぴきと鼻毛が凍る感覚がさらに恐怖を大きくした。


「勝負はまだだよ。あいつは障害を上がるのが上手い。行こう」

 目の前が真っ暗になり立っているのが精一杯、という状態の君のコートを掴んで引っ張ったのはやはり三条である。君は躓きそうになりながら足を動かした。顔を上げることはできなかった。

 このレースの一番人気の馬、7番はここ五戦負けなしで、今回も堅いだろうと言われていた。7番はその噂通り先頭で第二障害に足をかけたらしい。目をそむけても実況は渾々とレースの状況を説明し続けた。3番の馬の名前はまだ呼ばれない。呼ばれるより先に、7番は障害を登りきっていた。

「登り切りました7番エマリリー。六連勝に向けて山を駆け下り…おおっと?!」

 実況の動揺した叫びと周囲のどよめきで君は顔を上げた。7番は勢いよく坂を下りたはいいものの、下りきる手前で思い切り躓いて頭から転んでしまったのだ。君が状況を視認した時にはもう7番は立ち上がって再び歩き出していたが、坂を下りた時のエネルギーは完全に失われていた。

 しかし、3番の馬の名はまだ呼ばれなかった。のそのそ歩いていく7番に追いつこうと、他の馬たちは障害を苦戦しながら少しずつ登っているのに。再び顔をそむけようとする君を三条が呼んだ。

「長谷部くん、見て。逃げないで」

 君は奥歯を噛み締めた。「逃げる」という言葉を使われたのが癪に障り、睨むようにコースに目を向けた。くそ。声を出さずに呟いた。三番が動き出したのはそれからたっぷり五秒ほど、他の馬は皆そろそろ障害を登りきろうかというところで、そのうち二頭はすでに坂を駆け下りていくところだった。

 しかし、動き出してからの3番は早かった。止まることなくひと息で頂上まで登りきると、下りでさらに加速して周囲の馬たちをまとめて抜いていく。

「言ったでしょ、障害は得意だって」

 得意げに言う三条に目もくれず君は走った。先頭を歩く7番は今にも止まりそうだが、しかし着実にゴールに近付いている。頼む、君は叫んでいた。頼む、三省、頼む、死にたくない。一見して競馬と関係なさそうなことを叫ぶ君を周囲の観客はおかしなものを見る目で見た。君はなおも叫んだ。7番に向かって粘れ、叩けと叫ぶ観客を押しのけて負けないくらいに叫んだ。一気に距離を詰めて先頭に並びかけた3番も残り二十メートルほどになると勢いを失い、7番と大差ない速度で必死に追いすがっている。レースは二頭の一騎打ち状態になっていた。

 残り数メートル、わずかに前に出ていた3番が止まってしまったのを見て7番を応援していた回りの観客は一気に色めいた。7番の鼻先が先にゴールラインに触れる。しかし、ほんの一瞬だけ休んで再び動き出した3番は少しだけ勢いを取り戻していた。ゆっくり歩みを進める7番に再び追いつき、橇の後端はほとんど並んでゴール。君の位置から勝敗は見えなかったが、実況席からはきちんと見えていた。


「最低人気を覆して! 3番ハマツバキが熱い接戦を制しました! 勝ったのは3番ハマツバキ! 一番人気の7番エマリリーは二着に敗れました」


 あーあと残念そうに去っていく観客の波に逆らって君は呆然と立っていた。三条が近付いてきて君の肩に触れた。

「やったね長谷部くん! 単勝百二十倍の大穴だよ、ん、あれ、どうしたの」

 君は振り向くなり、自分よりも低い三条のダウンジャケットの肩に縋りついた。縋りつくなり、ああ、ああと呻くようにぽろぽろ涙を流した。子供のようにというには静かだが、女のようにというには烈しいやり方で君は泣いた。三省が死んでから一ヶ月、初めて流した涙だった。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 淡々と書かれているのにも関わら、実際に目の前で繰り広げられているかのような臨場感を覚えました。 細やかな描写や言い回しに感銘を受けました。 実際にそこには行ったりしてるのか知りたいです! …
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