現実的な彼女と怪しいザケスさん
理乃が異変に気付いたのは、その数日後だった。
ホームルームで担任が配った三者面談の日程に、自分の名前が載っていなかったのだ。
クラスメイトが荷物をまとめ、帰って行くなか、理乃は担任に声をかけた。
「あの……。私の名前が載ってないんですけど」
「え?」
「え?」
まさか「え?」と呆けた返事がくるとは思わず、理乃は思わず同じように返してしまった。
「尾花さん、お母さんの再婚で海外に行くんでしょう?」
「えっ!」
驚くのも無理はない。
結局、あれから理乃が母に対して決行したことと言えば、『話を逸らす』ということだったのだから。
何度も再婚の話をしようとする母の話を、別の話にすり替えては聞かないようにしてきたのである。
天然の母はその都度「あれ?」と疑問が浮かぶようだったが、ついつい逸れた話に付き合い、結果自分の言いたいことは言えずにいた。そのため、美理もまた、理乃に進路希望欄を書き換えたことも言いそびれたままだった。
そう誘導したのは理乃だったが、その結果、こうして自分の知らないうちに再婚話が進められているのは当然面白くない。
「これよ。尾花さんの字ではないなと思ったけど……」
担任が差し出した紙を奪うように受け取ると、そこに書かれていた言葉に愕然とした。理乃が丁寧に書きこんだ公立高校の名前は綺麗に消されているではないか。
(ひ、ひどい……!)
すると、理乃と担任の会話を聞いてクラスメイトが集まって来た。
「え? 理乃、留学するの?」
「北高に行くんじゃなかった?」
「え~、いいなぁ! 海外!」
思い思いの反応に、理乃は思わず顔を顰める。
特に、羨ましがるのはどうかと思う。人の気も知らないで――! そう思ったが、どうやら彼女は真面目にそう思っているらしい。
「いいじゃん。なかなか憧れてても行けないもんだよ。行けるとしても大学とかだよね。でも言語習得は若けりゃ若いほどいいって言うじゃん」
「まぁ……そうだけど」
友人が言うことも一理あるとは思う。
だが、大学が夢のまた夢という理乃の家の台所事情では、留学なんて考えたこともなかったのだ。
「まぁ、うちは両親がうまくいってないっていうのがあるから逃げだしたいっていうのもあるけどさ」
「わかる~。ウチはお兄ちゃんと仲悪くてさ。居心地悪いったら……あれ? 理乃?」
振り返った先に、既に理乃の姿はない。
友人たちには悪いが、急いでバッグを取ると母に抗議すべく、理乃は自宅へと急いだ。
友人たちは羨んでいたけれど、母の相手がどこの国の人かも知らないのだ。相手のことも、国のことも何も知らないのに、進路希望を勝手に書き換えられては困る。
急いで部屋のドアを開けると、一足早くパートから戻っていた母が理乃を出迎えた。
「ママ! 進路希望、勝手に書き換えたでしょ! ひどいじゃない!」
「ひどいのは理乃よぅ。ママの幸せを願ってくれないの?」
あんなに話そうとしたのに! と続けて目を潤ませる母に、理乃は思わず目を逸らす。
「ごめんって。でも、私の人生だってかかってるんだからね! 決定事項みたいに突き付けられても困るの、わかるでしょ?」
「だから、ちゃんと話を聞いて、ザケスさんにも会って欲しいの!」
今まで、母がこんなに自分の意見を通そうとしたことはなかった。
能天気で楽天的。周囲からは天然と言われる母だけれど、どんな時も理乃を優先してくれていたのだ。
(まぁ……ママには幸せになって欲しいしなぁ……)
「……分かったわよ。分かったから、ちゃんと向こうで通うことになる学校の資料とか、あとザケスさんの国のこととか教えてよね。でなきゃ、私も――」
「ありがとう!理乃!!」
嬉しさに飛び上がった母が理乃に抱き付く。
理乃は後ろに少しよろめきながらも、母を抱き返した。
あぁ、なんだかんだいって、私もママに甘いんだなぁ、と思いながら。
* * *
週末、理乃の住む街にも珍しく雪が降った寒い朝、母は窓から外を眺めてはソワソワしている。
「もう、なにしてるの? 雪見るのなんて初めてじゃないでしょう?」
「そうだけど……ザケスさん、雪道に慣れてないんじゃないかしら」
母はマンションの前まで迎えに来るというザケスが気になっていたのだ。
本当に好きなんだな……と、母を応援したい反面、自分の夢も諦めたくない。
高校の願書はまだ間に合うのだ。理乃はザケスに会って直接話してみるつもりだった。
「アブダビだっけ? じゃあ、雪降らないか……」
「降るところもあるらしいけど……でも、雪道の運転って慣れてる人でも危ないっていうじゃない?」
窓から見る景色は、はらりはらりと雪が舞っているのが見えるが、地面はまだ白くなっていない。これを雪道と呼べるかどうか、という疑問はさておき、理乃は母の言葉がやけに引っかかった。
(アブダビって……砂漠の国じゃなかった?)
「雪、降るの?」
「そうみたいよ?」
母はなんの疑問も持っていないらしい。
更に問い詰めようとした時、母の心配そうな顔が笑顔に変わった。
「来たわ!」
「あっ……」
理乃の言葉を待たずに、嬉しそうに玄関に向かう。
そんな母の姿を見たのは初めてだ。少し寂しく思いながらも、理乃は母の後を追った。
マンション前に停められたのは、車に詳しくない理乃でもわかるほど有名な高級外車だった。
住宅地の奥まった場所にある、この小さなマンションにどうやってたどり着いたかと不思議に思うほど車体が長く、マンションの入り口どころか、隣接するクリーニング店の入り口さえもふさいでいる。
何事かとクリーニング店の店主が出てきたものの、あまりに場違いな光景に文句も言えず、ただ茫然と見ているだけだった。
理乃もまた、まさかこんな場所でリムジンとご対面することになるとは思わず、その佇まいに圧倒されていた。
汚れひとつない鏡のように磨き上げられた車の窓に、戸惑ったように顔をこわばらせた自分の姿が見える。母の笑顔とは真逆の表情だ。
指を頬にあて、両頬をグニグニとマッサージしていると、目の前でドアが開いた。
「やあ。君がリノかい? はじめまして」
車から降りた写真のままの人物が、流暢な日本語で理乃に笑いかけた。
褐色の肌に白い歯が眩しい。豊かなグレーの髪に混じるのは写真では白髪に見えたが、間近でみるそれはキラキラと輝く銀髪だった。
着ているカンドゥーラのような服の上のネックレスのようなものは、肩から胸にかけて直接縫い付けられているようだ。緑やオレンジといった色鮮やかな宝石が逞しい肩をぐるりと囲み、太陽の光に反射してキラキラと輝いている。それは理乃が想像していた民族衣装とは違うようだった。
写真では上半身が写っていたためわからなかったが、腰には繊細な刺繍が施された鮮やかなオレンジ色の幅広の布を巻いており、ゆるめの白いズボンのすそは、黒く毛足の長い動物の皮で作ったと思われるブーツに入れ、同色の皮ひもで縛っている。
つまり、思った以上にゴージャスな人物だったのだ。
だが、つましい生活を送ってきた公務員志望の理乃にはこう見えた。
(……怪しい……)
「ザケス・アンツェーノだ。よろしくね、リノ」
スッと差し出される手にも、大きな宝石がついた指輪がいくつもはめられている。
これも異国の文化なのだろうが、リノにはどうにもチャラく見えた。
「……尾花理乃です」
シンプルな自己紹介で、父の名字を強調すると、ザケスの片眉がクイツと上がる。それまでもが演技のように見え、理乃は頬が再び強張るのを感じた。
控えめに出した手を、ザケスの大きな手が包み込み、力強く握った。
「リノ、私たちは家族になるのだから、そんなに硬くならないで」
「えっ、でも、あの……」
母を思うと、まだ賛成していないとは言えず、理乃は曖昧な言葉を返した。
ザケスの中では、理乃が再婚に賛成し、結婚しての引っ越しは決定事項のようだ。
ザケスの出で立ちに圧倒されていた理乃は、とにかく今日は日本人お得意の愛想笑いで全てを曖昧に流そう。そう決めてへらりと笑った時だった。
「でもタチノキ? ミリから聞いて驚いたよ。すぐにでもわたしの国に迎え入れたいくらいだ!」
「…………え?」
怪訝な表情を見せた理乃に、ザケスもまた戸惑った。
「タチノキ。――あれ? 違う? タチノキ? タノキチ? あ、タヌキチかな? ミリ、違う?」
「あらあら、ザケスさんったら。タチノキで合っていますよ。たぬ吉ってなんだか可愛い。昔話に出てくるような名前だわ」
「そうなの? ミリの国の昔話、是非聞きたいな」
「あのね、たぬ吉さんっていうのは、きっとたぬきさんなのよ。それでね……」
ザケスと美理は顔を寄せ、お互いを見つめながら架空の生物、たぬ吉とやらの話をしはじめた。
母が怪しげな外国人とイチャイチャしているのを見るのは、理乃にとって衝撃的だったが、それ以上に衝撃的だったのは、先ほどのザケスの言葉だ。
いい雰囲気のふたりには申し訳ないが、そこはきっちりと説明してほしい。
「あ、あの! 立ち退きって、どういうことですか?」
ふたりはやっと理乃に目を向けた。
まるで居たことを忘れていたかのような表情をするのはやめて欲しい。
「ほら、うちのマンション老朽化で建て替えの話があったでしょう? それが本決まりになったのよ」
「え! 聞いてない!」
「だって、理乃ったらママのお話聞いてくれなかったじゃない」
「いやいやいや、でもそういう大切なことは言ってもらわないと!」
「でも、もう出ていくから、まぁいいかなって」
「は!?」
理乃はポカンと大きく口を開けて固まった。
「まぁまぁ。ミリ、リノが驚いているじゃないか。話は食事をしながらゆっくりしよう」
理乃の様子を見て、ザケスがそう提案した。
話の展開についていけず、ひどく混乱していた理乃は、ザケスの提案をありがたく受けることにして頷いた。
滑らかな皮のシートは柔らかすぎず硬すぎず、最高の座り心地で、理乃は力を抜いて身体を預けた。
向かい合った先では、慣れた仕草でザケスからシャンパングラスを受け取る母がいる。このような待遇も初めてではなさそうだ。
理乃はオレンジジュースを勧められた。受け取ったそれを口に含むと、適温に冷やされており、緊張で乾いた喉に心地良い。
高級外車にしっかりと身体を支える安定感抜群のシート、車内にも関わらずよく冷えた飲み物に、重みを感じる高級なグラス。
これがザケスの日常なのだ。そして、それに慣れつつある母。
自分もいつか、馴染めるだろうか……。
そんなことを考えていたら、見るからに高級なレストランの前で、車は少しの衝撃もなくスッと静かに止まった。
案内されたのは奥にある個室だった。
運転していたスーツの男性は、ザケスに封筒を渡すとお辞儀をして出て行った。
「リノの進学先にと考えている学校だよ。私の屋敷からも通えるし、アブダビでも有名なとても自由な校風の学校なんだ」
ザケスは中を確認することなく、運転手から受け取った封筒をそのまま理乃に渡す。
理乃が封筒を開けると、学校のパンフレットが入っていた。
肌の色も瞳の色も様々な少年少女が写っている。
説明文の殆どはアラビア語や英語が主なもので読めなかったが、ところどころに中国語や日本語で書かれた説明もある。
インターナショナルスクールといったところか、アジア系の生徒もいるようだ。
しばらく無言でページをめくっていたが、ふと視線を上げると真剣な目でこちらを見つめるザケスと目が合った。母もまた、心配そうにこちらを見ている。
ここは自分が折れるしかなかった。
余程合わないと感じたら、大学は日本の大学に通わせてもらおう。貯金もそこそこあるけれど、見るからに大金持ちのザケスだ。それ位は甘えさせてもらおう。
理乃は小さく頷くと、丁寧にパンフレットを封筒にしまう。
そして改めてザケスに向かって姿勢を正すと、静かに頭を下げた。
「母のこと、それと、私も……これからよろしくお願いします」