現実的な彼女と楽天的なママ
ふと思いついてTwitterにネタを書いたらなんとなく固まったお話です。
『天国のお父さん。理乃はこの春、中学を卒業します。
着慣れた制服とお別れするのは寂しいけれど、憧れの公立高校に進むことを考えると、少し楽しみでもあります。
高校ではもっと勉強して公務員試験を受けるつもり。家から通える市役所がいいな。
ママは相変わらずで、昨日は中が生の俵ハンバーグを作りました。
どうやったら真っ黒な焦げでコーティングした生ハンバーグを作れるのか、不思議で仕方がありません。
でも、シュンとしてるママを見ると怒る気にもなれない。
お父さん。お父さんとの約束通り、私がママを支えるから、心配しないでね』
小学生の時に亡くなった父の月命日、理乃は棚の上に置かれた位牌に静かに手を合わせ、そう心の中で語りかけた。
8畳の狭いリビングの隅で正座していると、薄い壁の向こう側から隣の物音が聞こえる。
朝の忙しい時間帯に子供がぐずっているようだ。学校に行きたくないと泣く子供を叱る母親の声が徐々に大きくなった。
マンションとは名ばかりのこの1LDKの部屋は、その壁の薄さと築年数から、建て替えの噂も出ている。
(もう少し待ってくれないかなぁ……)
ついつい考えが父親からそちらへとシフトする。
今ここを追い出されては、どうしたらいいというのだ。
父はなかなか稼ぎが良かったらしく、小さな頃は一軒家に住んでいた記憶が理乃にはある。
だが、父が病気になってからというもの、仕事を退職して貯金を切り崩す日々。当時、理乃はまだ幼かったが、毎日の食事がスーパーの値引き品になったり、新しい服を買うのはデパートからリサイクルショップになったりと、小学生ながら薄々と家計難には気づいていた。
そんなわけで、父が亡くなってすぐ、この古いマンションに引っ越すことになったのだ。
父の保険金と、自宅を売ったお金は生活費と、理乃の学費に充てられた。父は病気が進行して寝たきりになってからも、理乃に大学進学を勧めていたが、保険金で賄えるものでもないだろう。
(そうか……。いずれここを出て行かなきゃいけないなら、職場はこの近くじゃなくてもいいんだ。でもそれでもあと3年か……)
高校卒業までなんとかこのマンションの建て替え話が進展しませんように――思考が巡り巡って、理乃はいつの間にかそんなことを祈っていた。
「理乃ったら、随分長く手を合わせているのね」
隣に母、美理の気配を感じたが、理乃はそのまま顔を上げずに目を閉じたままでいた。
(さすがに建て替え計画の延期をお願いしてたなんて言えないや。それに――)
天然で、楽天的。何があっても笑顔を絶やさない母だったが、父の位牌に手を合わせる時、母はいつも今にも泣きだしそうな顔をしている。
だから、いつからか理乃は、母が立ち上がるまで目を閉じ、手を合わせたまま待っているようになった。
今日もきっと、泣きだしそうな顔をしているはず……そう理乃が考えていたら、母が突然大きな声で宣言した。
「パパ。パパのことは大好きよ。でも私、パパへの想いを持ったまま、再婚します!」
「はっ!?」
しんみりとした空気もどこへやら。
理乃が目を丸くして母を見ると、母はとても晴れやかな笑顔をしていた。
* * *
事態が飲み込めずにいる理乃の前で、母は恥ずかしそうに一枚の写真を取り出して見せた。その様子は、まるで恋する少女そのもので、とてもではないが高校受験を控えた娘がいるようには見えない。
「あのね。ザケスさんって言うの……」
「えっ。ちょっと待って。私、いきなりそういう展開、困るんだけど……」
そう言いながらも、グイグイ押し付けられる写真をつい受け取ると、理乃はそこに写る人物を見てぎょっとした。
そこには、日本人離れした人物がこちらに笑顔を向けていた。
彫りが深い顔で、肌の色は褐色。中東のカンドゥーラのような服を着ているが、肩から胸にかけ、大きなネックレスのようなものが付いている。
頭には何も被っておらず、白髪が混じった見事なロマンスグレーの豊かな髪をセンターで分け、少し伸びた後ろ髪は無造作に結ばれていた。
「ちょっと……いきなり再婚とか、それだけでパニックなのにおまけに外国人とかパニックどころじゃないんだけど……」
「あら。ザケスさんはおまけじゃないわ」
ぷぅと頬を膨らませる母に、理乃はため息をついた。
母は二十歳という若さで理乃を産んだ。
一周り以上年の離れた父は、母をまるでお姫様のように大事に大事にしたのだという。結果、母は世間知らずのおとぼけママになってしまった。
病気が発覚して余命宣告された時、父は母ではなく、小学生の理乃にそれを告げたのも仕方がなかったのかもしれない。
目の前の母は、35歳とは思えない位の若々しい容姿をしている。一緒に出掛けると友人同士かと思われるほどだ。
(姉妹にも見えないっていうのも問題だけど……)
日本人にしては明るい色でふわふわと顔の周りで柔らかく踊る細い髪に、鼻筋の通った母は、純日本人であるにもかかわらず、よくハーフに間違えられる。だが、理乃は父に似たのか癖のないまっすぐな黒髪で、低い鼻がコンプレックスの日本人顔だ。傍から見ると、そんなふたりは親子には見えないらしい。母と一緒にいると、つい理乃が保護者のような振る舞いをしているから余計そう見えるのかもしれないが……。
そんな見た目も中身も少女のような母のことだから、悪い男に騙されているのではないかと勘ぐってしまう。それだけ、写真の男はいかにもあやしく見えた。
「ねえ、ママ。それ本当なの? だって今までそんな素振り見せたこともないじゃない。騙されてるんじゃない?」
「そんなことないわよ! ザケスさんは理乃とも会いたがってるし、娘ができることを喜んでくれてるのに!」
娘、というなんともリアルな言葉に、理乃は衝撃を受けた。
母の話は色々飛躍しすぎていると思う。
今この瞬間まで、恋人がいるような気配すら見せていなかったのに、再婚で外国人で娘にときたもんだ。頭が追い付けないのも仕方がない。
使用言語さえ想像がつかないこの写真の人物をパパと呼べというのは、いくらなんでも色々すっ飛ばしすぎだ。
理乃は指でこめかみを押さえると、何度か深呼吸をした。なんとか落ち着いて話をしなければ、順序立てて話を聞くことも難しそうだと思った。
「一体、この……ザケスさん? この人とどこで知り合ったの?」
「社員旅行よ」
「しゃ、社員旅行?」
社員旅行とは言っても、母の勤め先は近所の商店街にあるパン屋だ。そこもパートで日に5時間程働いているだけで、店自体がオーナー夫婦と、パート従業員が母を含め4人いるに過ぎない小さな店だ。
確か、去年の秋に親睦旅行に1泊で出かけたはずだ。きっとそのことだろうが、行き先は商売繁盛で有名な大きな神社とその近くの温泉だったはずだ。
そこでこのザケスさんと出会ったというのだろうか。
「やっぱり怪しいって。やめた方がいいよ」
「あら。怪しくなんてないわ。ザケスさんは素敵な人よ。お仕事だって貿易会社の社長さんだし、飛行機だって船だって持っているの。理乃だって、実際会って話してみたらしっかりした頼りがいのある人だって分かるわ」
「貿易会社経営してて飛行機も船も持ってる人が、どうして神社とか温泉にいるのよ。会ったが最後。丸め込まれそうだわ。私は反対!」
「あっ。理乃……!」
母の話もそこそこに、理乃はバッグを掴むと玄関に向かった。
「学校に行かなきゃ。あ、進路希望書持って行かなきゃ……ママ、三者面談の紙、書いてくれた?」
「うん! 勿論よ!」
ダイニングテーブルから書類が入った学校の茶封筒を取ると、理乃はそのままバッグの中に押し込み、家を飛び出した。
いつも1本早い電車でゆっくり本を読みながら通学するのに、この日は通勤通学ラッシュの電車で押し潰されながら、遅刻ギリギリで学校に着いた。
息切れが治まる間もなく、ホームルームで封筒が集められる。
理乃も前の席のクラスメイトに急かされ、バッグから取り出すと中を見ることなく、封筒を渡した。
両親共働きが常識となった昨今、三者面談も一定の期間で参加が可能な日を親が書くようになっている。その中から担任がスケジュールを組むのだ。
(ちゃんとシフト確認してお休みの日を書いてねって言ったから、大丈夫でしょ)
いくらちょっと浮世離れした母とはいえ、休みの日を間違えて記入することはないだろうと思った。
まさか一緒に入れていた進路希望書を書き換えられているとは思わなかったのだ。
『尾花理乃 親権者:尾花美理
進路希望:異国へ留学
三者面談希望日:新しい父の国で学校に通うため、面談は必要ありません』