『聖女様が抜けた穴は三箇所ございます』――天空大聖堂の構造計算を十二年担ってきた私、保守契約を解除いたしますね ~前世持ちの構造屋は依頼主を選ぶ~
「お前は聖女じゃない。ただの計算係だろう?」
天空大聖堂〈アウロラ〉、浮遊祭壇。
地上二千メートルの風が、大理石の柱の間を抜けていきます。
わたくしの婚約者――大司教補オルド・カルヴァン様は、その風に髪をなびかせながら、たいへん晴れやかな顔をしておられました。
悪意は、ありません。
この方は本当に、わたくしを「解放してやっている」とお思いなのです。
「セレスティア。君は十二年間、帳面を書き写すばかりの地味な仕事に縛られてきた。もういいんだ。婚約は破棄する。君は自由になるべきだ」
「……さようでございますか」
自由。
(ええ、たいへん結構な響きでございますね。十二年分の未払い残業代と引き換えでしたら、なおのこと)
隣に立つ少女が、びくりと肩を震わせました。
新しい聖女、ミラベル様。十七歳。
祈れば光る。本物のギフトです。
その白金の髪が、朝の光を受けてやわらかく発光しています。
信者たちは、それだけで涙を流すのだそうです。
「あ、あの……わたし、その……」
「見ろ、セレスティア。これが奇跡だ。これが大聖堂を支える力だ」
――いいえ。
(それは照明でございます、オルド様)
(この大聖堂を支えているのは、昨晩わたくしが東翼の香炉台を四センチ北へずらしたことでございます)
声には出しません。
十二年、出したことがありませんので。
周囲の司祭たちが、くすくすと笑っています。
「記録係殿、ようやく肩の荷が下りますな」
「毎晩毎晩、ランプ片手に回廊を歩いて。趣味の写経か何かでしょう」
趣味。
前世の記憶が、ちくりとうずきます。
瀬良千秋、三十四歳。建築構造設計士。
耐震診断と構造計算書の作成を専門とし、納期前の徹夜明けに職場の机で死にました。
死因は過労。香典は会社から一律三万円。
あのときも、誰もわたくしの仕事の中身を知りませんでした。
建物が立っているのは当たり前。
倒れなかったのは当たり前。
当たり前を守る仕事というのは、成功しても誰にも見えないのです。
「何か言うことはないのか、セレスティア。泣いてもいいんだぞ。僕は君を責めたりはしない」
ああ、そうですね。
この方は、わたくしが泣くか、すがるか、せめて恨み言を言うものと思っていらしたのでしょう。
そうすれば「可哀想だが仕方ない」と、ご自分を納得させられたのに。
わたくしはスカートの裾をつまみ、膝を折りました。
「かしこまりました」
「……かしこまった?」
「十二年間、ありがとうございました。本日付で、聖務記録係の職を辞させていただきます」
祭壇に、沈黙が落ちました。
風だけが、鳴っています。
「な……いや、待て。婚約の話をしているんだぞ、僕は」
「ええ。わたくしは、仕事の話をしております」
「……相変わらず、君は冷たいな」
わたくしは顔を上げ、微笑みました。
十二年ぶりに、心から。
「どうぞ、お幸せに」
◆
その日の午後。
わたくしは資料庫の最下層へ降りました。
埃と黴と、三百年分の紙の匂い。
曲がった背の老婦人が、分厚い眼鏡の奥から目を細めました。
大伯母ハルヴィーネ・ヴァイン。第十六代聖務記録係。六十三歳。
教会の誰も、この方を覚えていません。
「持ってきたよ。三百年前の保守契約、原本だ。第九条をお読み」
革表紙の冊子。
指でなぞり、わたくしは読み上げました。
「『記録係が職を離れた場合、浮力維持責任は教会側に移る』……美しい条文でございますね」
「だろう。三百年、誰も読んじゃいない」
大伯母は、そろばんに似た計算器具をかちりと鳴らしました。
「署名させな。読まずに書くよ、あの坊主は」
「ええ。存じております」
「……あんた、泣かないんだねえ」
「泣く時間がもったいのうございます。解除書の清書がございますので」
老婦人は、ふん、と鼻を鳴らしました。
それから、ひどく低い声で言いました。
「あんたの代で終わらせな、セレスティア」
「はい。終わらせます」
◆
夕刻。
オルド様は、差し出された二枚の羊皮紙を、見もせずに署名なさいました。
「退職の手続きか。ご苦労。君も丸くなったな、セレスティア」
ペン先が走る音。
さら、さら、と。
それは、三百年続いた均衡が切れる音でした。
(お読みにならないのですね)
(……ええ、存じておりました)
わたくしは解除書を受け取り、深く一礼しました。
「では。保守責任は、本日をもって教会側に移行いたします」
「ああ、ああ。好きにしてくれ」
――好きに、いたします。
◆
廊下に出ると、厨房の裏口から煤けた顔が覗いていました。
下働きのニコです。十一歳。
「セレスティア様、お出かけですか?」
「ええ。遠くへ。……ニコ、これを。厨房から拝借してまいりました」
袖から蜂蜜パンを取り出し、彼の手に握らせます。
「蜂蜜パン! いいの?」
「約束をひとつ」
「はい」
「明日からは、東翼には近寄らないこと。約束ですよ」
少年はきょとんとしましたが、すぐに大きく頷きました。
「わかりました! 絶対に近寄りません!」
「よろしい。理由は、申し上げません」
言っても、信じてもらえないことを、わたくしは十二年かけて学びましたので。
◆
昇降魔導塔へ向かう途中、巨大な影が通路を塞いでいました。
整備主任のガーランド・ウェイ様。
六尺五寸の巨躯に油染みた手袋。顔の左に古傷。
十二年間、深夜の回廊ですれ違い続けた、無口な方です。
彼は何も言いませんでした。
ただ、昇降機の鎖を手で押さえ、わたくしが乗るまで、じっと支えていました。
「ガーランド様。昇降機を、ありがとうございます」
「…………」
扉が閉まる直前。
彼が、一度だけ、深く頷いたのが見えました。
籠が降下を始めます。
雲を抜け、青が遠ざかり、地上の緑が近づいてくる。
わたくしは膝の上で手を組み、静かに数えました。
浮力核十二基、うち三基は出力低下。
毎晩二時間の重量再配分、停止。
奉納品の増設、未検証。
答えが出ました。
「東翼、許容超過まであと――七日」
窓の外で、雲が流れていきます。
「……聖女様の祈りで直りますわよね」
誰にともなく、わたくしは呟きました。
「ええ、きっと」
雲の上で、大聖堂が、ほんのわずかに傾き始めていました。
◆◆◆
王都の西、職人街のはずれ。
わたくしは家賃月銀貨二枚の小さな店を借り、看板を掲げました。
『ヴァイン構造相談所 ――傾き・軋み・ひび、承ります』
最初の三日、客は来ませんでした。
四日目、パン屋の女将が怒鳴り込んできました。
「あんた、うちの壁を見て変な顔したろ!」
「……申し訳ございません。職業病でして」
「職業病ってなんだい」
正直に申し上げました。
「そちらの二階、北側に荷を積みすぎでございます。梁の中央に、人ひとり分ほどの余裕しか残っておりません」
【加重視】
目の前の梁に、味気ない数字が浮かびます。
――荷重:〇・八一トン/許容:〇・八八トン
教会の鑑定官は、このギフトを見て鼻で笑いました。
『戦闘にも治癒にも使えぬ外れギフトですな』
ええ。外れです。
ただし、人間にとっては。
建物にとっては、違います。
「……見ただけでわかるってのかい」
「荷重〇・八一トン、許容〇・八八トン。冬に雪が積もれば、割れます。粉の袋を南へ移してくださいませ。それだけで結構です」
女将は半信半疑のまま帰り、翌朝、焼きたてのパンを六つ抱えて戻ってきました。
「……割れてたよ。梁の内側、もう筋が入ってた。いくらだい」
「銅貨三枚で」
「安すぎるだろ!」
(前世でも、よく言われました。言われただけで、支払いは据え置きでしたが)
噂はすぐに広まりました。
傾いた倉庫。軋む石橋。地盤が沈んだ水路。
わたくしは紙と鉛筆と巻尺を抱えて歩き、数字を書き、原因を告げ、直し方を置いていきます。
「嬢ちゃん、どうしてこんなことがわかるんだ?」
「荷重というものは、黙ってかかっているのです」
わたくしは答えました。
「ですから、数えるのです。誰も数えなければ、誰も気づかないまま、ある日落ちます」
――落ちます。
自分の言葉に、わずかに胸が痛みました。
あの大聖堂で、わたくしは十二年、数え続けました。
夜の回廊を歩き、香炉台を四センチ、燭台を二センチ、聖典箱を十一センチ。
誰も見ていません。
誰も頼んでいません。
記録係とは、そういう仕事でした。
『祈り』の正体は、重量調整です。
十二基の浮力魔導核のうち、三基は三百年前から出力が落ちています。
その分を補うために、歴代の記録係は毎晩、建物の重心を数ミリ単位で動かしてきました。
三百年。十六代。誰の名も、どこにも残っていません。
(それでも、やってきたのですよ)
(頼まれなくても、感謝されなくても)
だからこそ。
もう、やりません。
辞表に署名した夜、わたくしはそう決めたのです。
◆
六日目の夕刻、店の戸が軋みました。
正確には、戸枠が軋みました。
巨大な何かが、無理やり身を屈めて入ってきたからです。
「……ガーランド様。戸枠が軋んでおります。それと、その木箱は」
整備主任は、挨拶も前置きもなく、ずしりと重い木箱を卓に置きました。
蓋が開きます。
紙の束。羊皮紙と、安い藁紙と、裏の白い帳面の切れ端。
すべて、わたくしの筆跡でした。
書き損じた計算書。
十二年間、丸めて捨ててきたものです。
「……これは、わたくしの書き損じでございますね」
「捨てられなかった」
低い、錆びた鉄のような声。
「三百十二枚」
「数えてくださったのですか」
「数えた」
なぜ、と問うべきでしょうか。
問いました。
「……なぜ、お捨てにならなかったのです」
沈黙。
長い沈黙。
やがて彼は、油染みた手袋の指で、紙の端をそっと撫でました。
「……紙が、丁寧だったから」
――それだけでした。
わたくしは、しばらく口がきけませんでした。
十二年。
褒められたことは一度もありません。
仕事の中身を尋ねられたことも、ありません。
「大したことのない事務」と言われ続けて、そうですね、と笑ってきました。
それが、たった一人。
言葉ではなく、木箱ひとつで。
「………………お茶を、淹れますね」
声が、少しだけ揺れました。
彼は気づかないふりをして、椅子に座りました。
椅子が悲鳴を上げました。
――荷重:〇・一四トン/許容:〇・一一トン
「ガーランド様。そちらの椅子は超過しております。荷重〇・一四、許容〇・一一」
「……立つ」
「いえ、どうぞ。壊れてから請求いたしますので」
「……ふ」
笑った、のだと思います。
茶器を出しながら、わたくしは尋ねました。
「大聖堂は、いかがですか」
「軋んでる」
「どちらが」
「東翼。鐘楼。昇降塔の接続部」
三箇所。
計算どおりでございます。
「……オルド様は、なんと?」
「聖女に祈らせてる」
「光りましたか」
「光った」
「それで?」
「それだけだ」
そうでしょうとも。
照明というのは、そういうものです。
ガーランド様は茶に口をつけず、まっすぐにわたくしを見ました。
「……戻るのか」
一瞬だけ、迷いました。
前世からの職業倫理が、鎌首をもたげます。
建物が落ちるのを、知っていて放置する――それは、構造屋として最も恥ずべきことではないか、と。
ですが。
わたくしは十二年、頼まれない仕事をして、過労死しました。
一度死んで、二度目も同じことをするのは、ただの馬鹿でございます。
わたくしは茶器を置き、まっすぐに背筋を伸ばしました。
「いいえ」
「……」
「もう、助けません」
言葉は、驚くほど静かに出ました。
「わたくしは、頼まれていない仕事をする女ではございませんので」
ガーランド様は、しばらく動きませんでした。
それから、ゆっくりと、深く頷きました。
木箱を、わたくしのほうへ押し出して。
「……預ける」
「よろしいのですか」
「いる日が、来る」
彼は立ち上がり、戸口で振り返りました。
「あんたが、作ったものだ」
扉が閉まります。
木箱の中で、三百十二枚の深夜が、かすかに紙擦れの音を立てました。
◆
その翌朝。
雲の上から、低い轟きが降ってきました。
王都じゅうの人間が、空を見上げました。
天空大聖堂〈アウロラ〉の東翼が、わずかに、しかし誰の目にも明らかに、傾いていました。
◆◆◆
――天空大聖堂、東翼。
大理石の床に、亀裂が走っていました。
指一本が入るほどの隙間が、祭壇の正面から参拝回廊の奥まで、まっすぐに。
「落ち着け! 落ち着くんだ、みな! ミラベル、祈りを!」
オルド・カルヴァンは声を張り上げました。
信者たちは、すでに昇降塔へ押し寄せています。
東翼に新設したばかりの奉納大理石像――九体。
どれも彼自身が選び、彼自身が決裁し、彼自身が「神聖さの象徴だ」と誇らしげに語ったものです。
その一体が、ゆっくりと前のめりに傾いでいました。
「は、はい……!」
白金の髪の少女が、震えながら膝をつきます。
祈り。
光が灯りました。
金色のやわらかな光が、崩れかけた回廊を照らします。
美しい光でした。
信者たちが足を止め、息を呑むほどに。
「見ろ、光だ! 神はまだ我らを――」
――そして。
ぱきり、と。
亀裂が、また一本伸びました。
「……え。亀裂が、伸びて……」
「もう一度だ! もっと強く!」
「は……はいっ」
祈り。光。
軋み。
「もう一度!」
祈り。光。
亀裂。
三度目が終わったとき、少女は床に座り込んでいました。
頬を、涙がひと筋伝いました。
「……どうして」
「ミラベル?」
「どうして、何も起きないんですか」
彼女は光る自分の手のひらを見つめました。
「わたし、ずっと思っていました。わたしの光は、綺麗なだけじゃないかって」
「何を言う! お前は聖女だ!」
「闇を払えます。人を安心させられます。儀式を、荘厳にできます」
声が、震えていました。
「……でも、支えたことは、一度もありません」
「そんな、ことは……」
オルドは言葉に詰まりました。
そのとき、床の向こうで悲鳴が上がりました。
見習い司祭が三人、崩れた回廊の奥へ踏み込もうとしています。
「そっちは駄目だ!」
煤けた顔の少年が、彼らの袖を掴んで引き戻しました。
下働きのニコです。
「あっちは駄目だ、セレスティア様が言ってた! 東翼には近寄るなって!」
「な、なんだお前、離せ――」
どごん。
背後で、大理石像が床を踏み抜きました。
白い粉塵が噴き上がり、三人が尻もちをつきます。
「……ほら。言っただろ」
ニコは前掛けのポケットを握りしめていました。
そこには、半分だけ残して取っておいた蜂蜜パンの欠片があります。
「セレスティア様は、約束してくれたんだ」
――セレスティア。
その名が、オルドの耳を打ちました。
「……セレスティア。……あの女か」
違和感が、ようやく彼の中で輪郭を結び始めます。
彼女が辞めた。
翌日から、大聖堂が軋み始めた。
(偶然だ。偶然に決まっている。帳面を書き写すだけの女が、何をしたというんだ)
しかし。
彼は思い出してしまいました。
十二年間、毎晩。
ランプ片手に回廊を歩く、痩せた背中を。
香炉台に手をかけ、巻尺を当て、何かを書き込み、少しだけ押していた姿を。
一度、尋ねたことがありました。
『何をしているんだ、こんな夜中に』
『……浮力配分の再計算を』
『ああ、写経か何かだろう。そんな暗いことばかりしていないで、もっと笑えばいいのに』
彼女は、笑いました。
静かに、ほんの少しだけ。
(あれは、何の笑いだった?)
◆
「猊下に報告を!」
司祭が駆け込んできました。
枢機卿テオバルトは、執務室の窓から傾いた東翼を眺め、穏やかに微笑んでいました。
七十歳。誰にも敵を作らず頂点に登った男です。
「困りましたなあ」
「猊下、原因の究明を――」
「原因? 原因なら、はっきりしておるでしょう」
老人は、ゆったりと言いました。
「記録係の娘が、辞める前に何か細工をしていったのですよ」
オルドは顔を上げました。
「……セレスティアが?」
「ほかに何が考えられます。あの娘が去った翌日から、これだ」
テオバルトは判を取り出し、新しい書状に押しました。
「王国法廷へ。背信と破壊工作の告発を」
「し、しかし猊下、証拠は」
「オルド」
枢機卿は初めて、笑みを消しました。
「誰かのせいにしなければ、我々のせいになる」
オルドは、乾いた喉を鳴らしました。
「……猊下は、三百年分の報告書を」
「読んでおらん」
あまりに軽い答えでした。
「読まんでよかったのだ。細かいことは記録係がやっておるのだからな」
窓の外。
三百年、誰も疑わなかった奇跡が、ゆっくりと傾いています。
◆
その夜。
昇降塔の最下層で、鎖が鳴っていました。
ガーランド・ウェイは、整備の手を止め、冷えた鉄に額を押しつけていました。
塔の接続部に、亀裂。
彼には直せません。
鎖は磨けます。歯車は噛み合わせられます。
しかし、建物の重心は、どうにもならない。
十二年前。
深夜の回廊で初めて彼女とすれ違ったとき、彼女は七つの数字を呟いていました。
意味はわかりませんでした。
ただ、床に落ちた書き損じを拾って、捨てられなかった。
丁寧だったからです。
一本の線が、定規で引いたように、まっすぐだったからです。
誰にも見せない紙に、あれほど丁寧な線を引く人間を、彼は他に知りませんでした。
「……呼ぶぞ」
誰にともなく、彼は呟きました。
「あんたを、悪者にはさせない」
◆
翌朝。
王都の小さな相談所に、王国法廷の召喚状が届きました。
わたくしは封を切り、文面に目を通し、ゆっくりと茶を飲み干しました。
『背信および破壊工作の容疑により、出廷を命ずる』
「……なるほど」
十二年働いて、婚約を破棄され、職を辞し、今度は犯罪者ですか。
(ふざけるな、とは申しません)
(ただ)
わたくしは木箱の蓋に手を置きました。
三百十二枚。
深夜の日付。
「せっかくですので、全部お返ししましょうね」
鏡の前で、十二年ぶりに髪を結い直しました。
インクで汚れた袖口は、そのままに。
これは制服です。
戦装束と申し上げても、よろしいでしょう。
◆◆◆
王国法廷。
石造りの広間は、傍聴席まで人で埋まっていました。
教会側の席には、枢機卿テオバルト、大司教補オルド、そして聖女ミラベル。
被告席には、わたくし一人。
審問官ドリアス・レーゲンが、感情の読めない細い目で木槌を鳴らしました。
「開廷する。教会側、告発の要旨を」
オルドが立ち上がりました。
「セレスティア・ヴァインは、聖務記録係を辞する際、大聖堂に何らかの破壊工作を施した。その翌日から東翼は傾き、鐘楼に亀裂が走り、昇降塔が軋んでいる。因果は明白です」
「因果ではなく、証拠を」
ドリアスが遮りました。
「……は?」
「証拠を。感情ではなく、証拠を」
オルドの頬が赤くなりました。
「彼女が去った翌日からだと申し上げている!」
「それは時系列であって、証拠ではない」
審問官は視線を移しました。
「被告。反論はあるか」
わたくしは立ち上がり、スカートの皺を整えました。
深く息を吸います。
十二年ぶんの、息を。
「――申し上げたいことは、三点ございます」
広間が、わずかに静まりました。
ドリアス・レーゲンだけが、背筋を正しました。
「……三点。承った。一点目から述べよ」
「はい」
わたくしは懐から、一枚の羊皮紙を取り出しました。
「一点目。大聖堂保守契約、第九条でございます」
「契約?」
オルドが眉を寄せます。
「三百年前、初代聖務記録係と教会が交わしたもの。原本は大聖堂最下層資料庫に保管されております。読み上げます」
息を、整えて。
「『記録係が職を離れた場合、浮力維持責任は教会側に移る』」
ざわめきが、波のように広がりました。
「わたくしは十二年前より本契約に基づき、浮力維持責任を負っておりました。そして先日、正式に解除書を提出いたしました」
紙を掲げます。
「解除書には、副署がございます」
「……誰の」
「大司教補オルド・カルヴァン様」
オルドの顔から、血の気が引きました。
「な……そんな条文は聞いていない!」
「ええ。お読みになっていませんので」
「読んで……!」
「お読みにならずに、署名なさいましたね?」
わたくしは微笑みました。
静かに。あくまで丁寧に。
「『退職の手続きか。ご苦労。君も丸くなったな』――そう仰って、二枚とも、ご覧にならずに」
傍聴席から、小さな笑いが漏れました。
嘲笑です。十二年間、わたくしが浴びてきたものと同じ種類の。
今日は、向く先が違いますけれど。
「二点目を」
ドリアスが促しました。
「二点目。東翼に新設された奉納大理石像、九体」
わたくしは別の紙を広げました。
「一体あたり平均四十五・八トン。総重量、四百十二トン」
数字を、淡々と。
「東翼の浮力核二基が負担できる許容重量は、三百七十四トン。超過、三十八トン」
「……三十八」
オルドが呟きました。
「加えて参拝回廊の拡張により、重心が東へ二・一メートル移動しております」
わたくしは顔を上げました。
「この増設の決裁日は、わたくしが辞職した十一日後でございます」
静寂。
「日付が、すべてを語っております」
司祭たちが、互いの顔を見合わせました。
オルドの唇が動きましたが、音にはなりませんでした。
「三点目を」
「はい」
わたくしは、羊皮紙を卓に置きました。
そして、初めて声に、ほんのわずかな熱を乗せました。
「三点目。これは『破壊』ではなく、『不作為』でございます」
「不作為?」
「わたくしが大聖堂にしたことは、何一つございません。柱を削ってもおりませんし、魔導核に触れてもおりません」
「では、何をした」
「やめました」
一言。
「毎晩二時間、祭具と奉納品を数ミリ単位で動かすのを、やめただけでございます」
傍聴席がざわつきます。
「数ミリ……?」
「香炉台を四センチ北へ。燭台を二センチ西へ。聖典箱を十一センチ南へ。日によって、十数箇所」
わたくしは、ゆっくりと見渡しました。
司祭たち。貴族たち。民衆。
誰も、知らなかった顔です。
「それが『祈り』の正体でございます。三百年、十六代、毎晩欠かさず」
「……馬鹿な」
枢機卿テオバルトが、初めて口を開きました。
「大聖堂は、浮遊奇跡によって浮いておる」
「ええ。浮いております。十二基の浮力魔導核によって」
わたくしは頷きました。
「ただし、そのうち三基は三百年前から出力が低下しております。残る九基で支えるには、重心が一ミリでもずれてはならない」
「奇跡とは、そういうものだと?」
「奇跡は、運用されているのでございます、猊下」
老人の笑みが、初めて崩れました。
「それを『破壊工作』と呼ぶのであれば」
わたくしは、まっすぐにオルドを見ました。
「十二年間、誰にも知られず、感謝もされず、毎晩二時間続けたわたくしの労働は――いったい、何と呼ぶのでしょう?」
オルドは、答えませんでした。
答えられなかったのだと思います。
「……被告の主張は筋が通る」
ドリアスが静かに言いました。
「だが証拠がない。あなたが毎晩働いていたという、第三者の証明が」
――そのとき。
法廷の扉が、ぎい、と軋みました。
巨大な影が、身を屈めて入ってきました。
油染みた整備手袋。顔の左に古傷。
ガーランド・ウェイが、木箱を抱えていました。
「……提出する」
彼は証言台まで歩き、箱を置きました。
「何だ、それは」
「計算書だ。三百十二枚。十二年分。全部、あの人が捨てたやつだ」
「捨てた……?」
「書き損じを、俺が拾って、取っておいた」
蓋が開きます。
紙の束が、どさりと卓の上に積まれました。
彼は、それ以上何も言いませんでした。
ドリアス・レーゲンが、一枚を手に取りました。
目を細め、日付を読み上げました。
「……聖暦三〇四年、三月十二日。午前二時四十分」
次の一枚。
「三月十三日、午前二時十八分」
次。
「三月十四日、午前三時五分」
誰も、止めませんでした。
審問官は、一枚ずつ、声に出して読み続けました。
三月。四月。五月。
夏。秋。冬。
年が変わり、また変わり。
深夜二時。深夜三時。深夜一時半。
十二年分。
四十分、かかりました。
その四十分、広間は水を打ったように静まりかえっていました。
傍聴席の誰かが、鼻をすすりました。
「……あの方が」
「あの方が、大聖堂を浮かべていたのか」
「三百年、誰も知らずに……?」
読み終えたドリアスは、最後の一枚を丁寧に置き、わたくしを見ました。
「被告。これは、あなたの筆跡か」
「はい」
「すべて、深夜だが」
「昼間は、記録の清書がございましたので」
「……睡眠時間は」
「三時間ほどかと」
審問官は、しばらく黙っていました。
それから、小さく息を吐きました。
「十二年」
「はい」
「誰も、知らなかった」
「ええ」
「……知ろうとも、しなかった」
そのとき。
教会側の席で、小さな影が立ち上がりました。
ミラベルでした。
「ミ、ミラベル! 何を――」
誰に促されたわけでもなく。
十七歳の聖女は、法廷の中央へ歩み出て、わたくしに向かって、深く頭を下げました。
「わたしは、照らすことしかできません」
顔を上げません。
「支えては、いませんでした」
広間が、どよめきました。
「三度、祈りました。光りました。きれいな光でした。でも、床の亀裂は、一本も塞がりませんでした」
涙が、石の床に落ちました。
「わたし、ずっと聞きたかったんです。あなたが、毎晩何を書いていらっしゃるのか。でも、怖くて聞けませんでした」
「……ミラベル様」
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
わたくしは、少しだけ迷いました。
それから、彼女の前に膝をつき、目線を合わせました。
「ミラベル様。照明は、必要でございます」
「……え」
「暗闇では、計算ができませんから」
少女が、ぽかんとした顔をしました。
「わたくしは十二年、ランプ一つで回廊を歩きました。もしあなたの光があれば、もっと早く終わったでしょう」
「……あの」
「照らすのは、支えることの、半分でございます」
わたくしは立ち上がりました。
「残りの半分を、これから覚えればよろしい」
ミラベルが、両手で顔を覆いました。
ドリアス・レーゲンが、ゆっくりと木槌を持ち上げます。
「教会側に問う」
細い目が、枢機卿を射ました。
「猊下。三百年分の記録係報告書は、どこにございましたか」
テオバルトの喉が、わずかに動きました。
「…………執務室の」
「どこに」
「……棚に」
「読まれたことは」
沈黙。
長い、長い沈黙。
「……細かいことは、記録係がやっておるものと」
木槌が、落ちました。
「判決を述べる」
ドリアス・レーゲンの声は、わずか三行でした。
「被告に咎なし」
「大聖堂の傾斜は不作為によるものであり、不作為の原因は契約の履行にある」
「――契約を読まなかった者に、読んだ者を裁く資格はない」
傍聴席が、割れました。
拍手が、床を震わせました。
その音の中で。
オルド・カルヴァンだけが、椅子に沈み込み、両手で顔を覆っていました。
(地味な事務、だと?)
(僕は……僕は、何を捨てたんだ)
◆◆◆
三日後。
天空大聖堂、枢機卿執務室。
東翼の亀裂は応急の支柱で押さえられ、参拝回廊は封鎖されています。
「復職の件、よい返事を期待しておるのだが……断る、と?」
枢機卿テオバルトの笑みは、すっかり痩せていました。
「はい。ただし、条件付きで協力はお受けいたします」
「条件」
「保守は、請負契約でお受けいたします」
わたくしは書類を、そっと押し出しました。
「見積書は、こちらに」
老人が、震える指で紙を取ります。
目が、文字を追います。
「……金貨、三百枚」
「年俸でございます」
「三百枚だと!? 大司教補の年俸の、三倍ではないか!」
「浮力核の交換三基、重量配分の全面再設計、祭具配置表の作成、保守要員二名の育成を含みます」
わたくしは、静かに付け加えました。
「なお、十二年分の未払い分は、請求いたしませんので」
「…………」
「ご安心くださいませ」
枢機卿は、長いこと動きませんでした。
やがて、ペンを取り、震える手で署名しました。
その署名を見届けてから、わたくしは深々と一礼しました。
「毎度ありがとうございます」
――ちなみに。
この契約書の第四条は、審問官ドリアス・レーゲン様に無償で添削していただきました。
『第四条が甘い。教会は必ず値切る』
『さようでございますか』
『解除条項も足せ。二度目があると思え』
『……ご忠告、痛み入ります』
皮肉屋同士というのは、妙に話が早いものです。
◆
東翼。
瓦礫の山に、一人の男が立っていました。
大司教補の職を解かれ、聖職衣ではなく作業衣を着たオルド・カルヴァンです。
枢機卿は、法廷の三日後に彼を切り捨てました。
『誰かのせいにしなければ、我々のせいになる』――そう言った男が、次に選んだ「誰か」が彼だった、というだけの話です。
オルドは、割れた大理石の破片を抱え上げようとしました。
「……っ、く……持ち上がらない……」
両腕に力を込め、歯を食いしばり、ようやく膝の高さまで。
十歩も運ばないうちに、取り落としました。
石が、どん、と床を鳴らします。
彼は荒い息をつき、掌を見つめました。
皮が剥けていました。
「……重い」
初めて、口に出しました。
二十四年生きてきて、初めてです。
石が重いことを。
建物に重さがあることを。
そして、それを毎晩、たった一人で数え続けていた女がいたことを。
彼は、誰にも言いませんでした。
ただ、次の破片に手をかけました。
◆
半年後。
大聖堂は三基の浮力核を交換し、重量配分を一から設計し直しました。
完成の日、主祭壇の壁に、銘板が据えられました。
三百年で初めて、記録係の名が表に出た日です。
『設計:
第一代〜第十六代 聖務記録係
第十七代 セレスティア・ヴァイン』
最下層の資料庫から、曲がった背の老婦人が杖を突いて上がってきました。
ハルヴィーネ・ヴァイン、六十三歳。第十六代。
彼女は分厚い眼鏡を外し、ごしごしと目をこすりました。
「……『設計:第一代〜第十六代 聖務記録係』……遅いんだよ、まったく」
「大伯母様」
「三百年だよ。三百年、誰も名前を呼ばなかった」
「今日からは、呼ばれます」
「ふん」
老婦人は鼻を鳴らし、それから、ひどく小さな声で言いました。
「……よくやったね、セレスティア」
十二年。いいえ、前世から数えれば、もっと。
その一言のために、わたくしは図面を引いてきたのかもしれません。
◆
聖女ミラベル様は、聖女の座を降りませんでした。
代わりに、わたくしの作った重量配分表を手に、毎晩二時間、祭具を動かす役目を引き受けています。
「香炉台、北へ四センチ……これで合ってますか?」
「三・八センチでございます。〇・二、戻してくださいませ」
「は、はい! ……今度は、支えるほうを覚えます」
「ええ。焦らずに」
「あの、セレスティア様」
「はい」
「暗いときは、言ってくださいね。わたし、光らせますので」
わたくしは、思わず笑ってしまいました。
「では、お願いいたします。ランプ代が浮きます」
◆
そして、地上。
わたくしは構造相談所を畳みませんでした。
大聖堂の保守は月に四日。残りは、傾いた倉庫と軋む橋のためにあります。
「セレスティア様! 計算できました!」
煤の落ちた頬で、ニコが帳面を突き出してきます。
十一歳。読み書きを覚えて、三ヶ月。
「ふむ。……ここ、桁が一つ違いますね」
「うわっ、またか!」
「よろしいのです。間違いは、紙の上でするものですから」
わたくしは鉛筆を取り、線を引き直しました。
定規を当てたように、まっすぐに。
「ニコ。荷重というのはね」
前世の言葉が、つい口から漏れます。
「荷重ってのはな、黙ってかかってるんだ。だから数えるんだよ」
「……もくってかかってる?」
「黙って、です」
少年は意味もわからないまま、ぶつぶつと復唱しました。
十年後、この子が二代目になるのかもしれません。
そのときは、ちゃんと給料を払ってやりたいものです。
「……あのさ。これ」
戸口で、巨大な影が身を屈めていました。
ガーランド・ウェイ様です。
手に、布包み。
「……なんでしょう。……焼き菓子、でございますか。片側が妙に膨らんで、もう片側が潰れて」
「厨房の婆さんに、三回聞いた」
「三回」
「分量、間違えた」
正直な方です。
わたくしは一つつまみ上げ、【加重視】を向けました。
――偏心率:著しく不良
「……偏心率、著しく不良。許容超過ですわね」
「……捨てていい」
「いいえ」
わたくしは、かじりました。
硬い。甘い。ほんのり焦げている。
「おいしゅうございます」
「……嘘だ」
「嘘でございます。でも、全部いただきます」
彼は耳まで赤くなって、窓の外を見ました。
ニコが、にやにやしながらわたくしを見ています。
「ガーランド様。この子に、何か言うことは」
「……ない」
「整備主任のおじさん、法廷のあと、計算書の箱を枕にして寝てたんだよ!」
「ニコ」
「本当なんだって!」
ガーランド様が、天井を仰ぎました。
◆
その夜。
わたくしは窓を開け、空を見上げました。
雲の上。
星明かりの中に、白い影が浮かんでいます。
天空大聖堂〈アウロラ〉。
東翼は修復され、九体の大理石像は地上の礼拝堂へ移され、重心は中央に戻りました。
「……よろしゅうございました。傾き、ゼロ。水平を、取り戻しております」
(前世のわたくしは、自分の設計した建物が建つ前に死にました)
(竣工を見られなかった図面が、机の上に三本残っていました)
(……今度は、見届けました。それだけで、十分です)
――と、思っていたのですが。
◆
翌朝、再測量のために基礎図を広げたとき。
わたくしの手が、止まりました。
図面の隅。
三百年前の原図の、最下層のさらに下。
見慣れない記号が、一つ。
「……え。『第十三浮力核』……?」
わたくしの筆跡ではありません。
歴代記録係、十六人の、誰の筆跡でもありません。
「浮力魔導核は、十二基。三百年、そう教わってきました」
指先が、冷たくなりました。
わたくしは、十二基ぶんの荷重しか、数えていません。
「……十二基では、なかった?」
【加重視】を、図面に向けます。
数字が浮かびました。
「――検出、未計上質量。推定三二〇トン。位置、不明」
窓の外で、大聖堂が静かに浮かんでいます。
水平に、完璧に。
「……けれど、わたくしの計算では、本来これほど安定するはずがないのです」
何かが、まだ下で支えている。
あるいは――何かが、まだ下にぶら下がっている。
わたくしは鉛筆を置き、ゆっくりと立ち上がりました。
「大伯母様に、お伺いしなければ」
資料庫の老婦人は、きっとこう答えるでしょう。
『十二基? ……ああ、そう教わったねえ』
――保守契約は、締結済みでございます。
年俸、金貨三百枚。
追加調査は、別途見積もりとさせていただきますね。
(了)
―――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレスティアの『十三基目』をめぐる続編を予定しております。
続きが気になる方は、ブックマーク・評価をいただけますと、作者が深夜二時四十分に喜びます。
荷重は、黙ってかかっております。ご評価も、どうぞ黙ってかけてくださいませ。




