表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

真之

氏之(持隆)の興亡5

作者: 重左衛門
掲載日:2026/07/14

三好実休

(前略:讃岐守詮春以来、義之、)満之、持常、成之、政春。三、八代の間、讃岐守(詮春)、屋形(阿波細川家)と号す。其の国(阿波)に在りて、国平(国を平定)し、管領澄元卒す。其の子、晴元、依って為に幼雅(幼少の身)。阿波屋形、刑部細川讃岐守之持、後、まみえて管領晴元、者河州(河内)に仇す。木沢(木沢長政)、八木、八木(安宅氏らの類か)等。将軍義晴公の御嫡男、義輝公の御儀者、前細川讃岐守(之持)の娘、これに御産処、俄に御邪気おじゃき御心出来しゅったいせられ給う。都の御任、君(将軍)のため被成なされ、淡州(淡路)御下向の刻、細川讃岐守、兵部少輔持隆の因縁、存じ従う。勝瑞(勝瑞城)阿波に奉じ迎う。南方平嶋(平島)の在所、はかるに十六箇之庄、奇然きぜんたり。(しかし)これ水とこれ御浪人おろうにん、御痛数其の上。持隆ら、箭(矢)を無し目合もくあいす。被思家老共(家老ども思われ)、何とぞ相謀あいはかる。義冬公、御世養いいだす。度々披露の処に、是れ三好義賢(みよしよしかた/三好実休)不得心ふとくしん底意相顕そこいあいあらわれ、致誅罰せんと欲す。被恩(おんこうを被る)のとも、事、延引す。其の後、義賢、帰忠の者、あり。却って持隆(を亡ぼし)、亡じ給う也。又、持隆、其の是(非)、弁ぜず。精元(清元/晴元らの類か)者、流浪に成り給う。国柄、三好に致す。掌に給う。故に細川家権けん、漸々(ぜんぜん)に衰え、終に家臣の害を遭い、る。説(説くに)有り。雖然しかれども、資者(資ある者)、義賢(実休)、これを討ち、企て給う事、急なり。義賢、吉者(よき者)あり。故に致三好(三好を致す)……(以下、次頁に続く)


現代語訳(大意)

(前回の続き:細川詮春のあと)細川満之、持常、成之、政春らが歴代の阿波守護を務めた。この三代から八代の間、讃岐守(詮春の系統)は「阿波屋形」と号された。彼らは阿波の国に在国して国内を平穏に治めた。その後、(細川本家の)管領・細川澄元が亡くなると、その子の晴元はまだ幼少(幼雅)であった。そのため阿波屋形である刑部細川讃岐守之持ゆきもちらが後見となり、管領・晴元を支えたが、のちに河内国の木沢長政や安宅(あるいは八木)らが敵対(仇)することとなった。(将軍家との婚姻関係について)将軍・足利義晴公の御嫡男である義輝公(第13代将軍)の御身の誕生(あるいは輿入れの儀)においては、前阿波守護の細川讃岐守(之持)の娘が関わっていたが、にわかに(将軍家に)不穏な邪気(政変や病)が生じる事態となった。京都での政務や将軍の動向が混乱する中、淡路国へと下向せざるを得なくなったとき、細川讃岐守の跡を継いだ兵部少輔・細川持隆もちたかゆかりを頼って人々は従った。そして(持隆は)彼らを阿波の勝瑞城に奉じ迎えた。さらに阿波南方の平島ひらしまの在所(現在の徳島県阿南市那賀川町周辺)に、およそ十六箇庄の領地を整えた。しかし、この水が合わぬような亡命(お浪人)の暮らしにおける(将軍家への)御労苦と御心痛は、数知れないものであった。細川持隆らは、戦火(箭矢)を交えることなく、ただ黙って事態を見守る(目合する)しかなかった。これに対して、細川家の家老たちは「何とかして(将軍家を盛り立てる)計略を巡らせよう」と考え、義冬公(足利義冬/義維:平島公方の祖)をこの阿波の地でお世話し、養い育てた。そして度々(京都へ働きかけを)披露した。しかし、これに対して重臣の三好義賢(みよしよしかた:三好実休、長慶の弟)は納得せず(不得心)、その腹黒い底意を露わにし、逆に誅罰を加えようとした。細川持隆から多大な恩顧を被っていた者たちがいたため、その謀略はしばらく延引(先延ばし)されていたが、その後、義賢は表向きは忠義に帰する素振りを見せながら、却って主君である細川持隆を(天文22年の勝瑞城の変で)亡ぼしてしまった。また、持隆自身も、事の是非(三好の謀叛の兆候)を正しく弁えることができなかった。この政変により、細川晴元(あるいは本家の一統)らも各地を流浪する身となり、阿波の国柄(統治権)は完全に三好氏の掌(手のうち)へと帰することとなった。こうして、名門たる細川家の権力は次第に(漸々に)衰え、ついに家臣の下克上(害)に遭って、歴史の表舞台から去っていくこととなった。一つの説がある。そうではあるが、実力(資)のあった三好義賢(実休)は、主君を討ち、自らの野望を企てる事において極めて急進的であった。義賢には吉(優れた配下や運)があった。ゆえに、三好の時代を築くことになり……(次へ続く)

続く

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ