氏之(持隆)の興亡5
三好実休
(前略:讃岐守詮春以来、義之、)満之、持常、成之、政春。三、八代の間、讃岐守(詮春)、屋形(阿波細川家)と号す。其の国(阿波)に在りて、国平(国を平定)し、管領澄元卒す。其の子、晴元、依って為に幼雅(幼少の身)。阿波屋形、刑部細川讃岐守之持、後、見えて管領晴元、者河州(河内)に仇す。木沢(木沢長政)、八木、八木(安宅氏らの類か)等。将軍義晴公の御嫡男、義輝公の御儀者、前細川讃岐守(之持)の娘、これに御産処、俄に御邪気の御心出来せられ給う。都の御任、君(将軍)の誰に被成、淡州(淡路)御下向の刻、細川讃岐守、兵部少輔持隆の因縁、存じ従う。勝瑞(勝瑞城)阿波に奉じ迎う。南方平嶋(平島)の在所、量るに十六箇之庄、奇然たり。(しかし)これ水と之御浪人、御痛数其の上。持隆ら、箭(矢)を無し而目合す。被思家老共(家老ども思われ)、何とぞ相謀る。義冬公、御世養い出す。度々披露の処に、是れ三好義賢(みよしよしかた/三好実休)不得心、底意相顕、致誅罰せんと欲す。被恩(おんこうを被る)の共、事、延引す。其の後、義賢、帰忠の者、有。却って持隆(を亡ぼし)、亡じ給う也。又、持隆、其の是(非)、弁ぜず。精元(清元/晴元らの類か)者、流浪に成り給う。国柄、三好に致す。掌に給う。故に細川家権、漸々(ぜんぜん)に衰え、終に家臣の害を遭い、去る。説(説くに)有り。雖然、資者(資ある者)、義賢(実休)、これを討ち、企て給う事、急なり。義賢、吉者(よき者)有。故に致三好(三好を致す)……(以下、次頁に続く)
現代語訳(大意)
(前回の続き:細川詮春のあと)細川満之、持常、成之、政春らが歴代の阿波守護を務めた。この三代から八代の間、讃岐守(詮春の系統)は「阿波屋形」と号された。彼らは阿波の国に在国して国内を平穏に治めた。その後、(細川本家の)管領・細川澄元が亡くなると、その子の晴元はまだ幼少(幼雅)であった。そのため阿波屋形である刑部細川讃岐守之持らが後見となり、管領・晴元を支えたが、のちに河内国の木沢長政や安宅(あるいは八木)らが敵対(仇)することとなった。(将軍家との婚姻関係について)将軍・足利義晴公の御嫡男である義輝公(第13代将軍)の御身の誕生(あるいは輿入れの儀)においては、前阿波守護の細川讃岐守(之持)の娘が関わっていたが、にわかに(将軍家に)不穏な邪気(政変や病)が生じる事態となった。京都での政務や将軍の動向が混乱する中、淡路国へと下向せざるを得なくなった刻、細川讃岐守の跡を継いだ兵部少輔・細川持隆の縁を頼って人々は従った。そして(持隆は)彼らを阿波の勝瑞城に奉じ迎えた。さらに阿波南方の平島の在所(現在の徳島県阿南市那賀川町周辺)に、およそ十六箇庄の領地を整えた。しかし、この水が合わぬような亡命(お浪人)の暮らしにおける(将軍家への)御労苦と御心痛は、数知れないものであった。細川持隆らは、戦火(箭矢)を交えることなく、ただ黙って事態を見守る(目合する)しかなかった。これに対して、細川家の家老たちは「何とかして(将軍家を盛り立てる)計略を巡らせよう」と考え、義冬公(足利義冬/義維:平島公方の祖)をこの阿波の地でお世話し、養い育てた。そして度々(京都へ働きかけを)披露した。しかし、これに対して重臣の三好義賢(みよしよしかた:三好実休、長慶の弟)は納得せず(不得心)、その腹黒い底意を露わにし、逆に誅罰を加えようとした。細川持隆から多大な恩顧を被っていた者たちがいたため、その謀略はしばらく延引(先延ばし)されていたが、その後、義賢は表向きは忠義に帰する素振りを見せながら、却って主君である細川持隆を(天文22年の勝瑞城の変で)亡ぼしてしまった。また、持隆自身も、事の是非(三好の謀叛の兆候)を正しく弁えることができなかった。この政変により、細川晴元(あるいは本家の一統)らも各地を流浪する身となり、阿波の国柄(統治権)は完全に三好氏の掌(手のうち)へと帰することとなった。こうして、名門たる細川家の権力は次第に(漸々に)衰え、ついに家臣の下克上(害)に遭って、歴史の表舞台から去っていくこととなった。一つの説がある。そうではあるが、実力(資)のあった三好義賢(実休)は、主君を討ち、自らの野望を企てる事において極めて急進的であった。義賢には吉(優れた配下や運)があった。ゆえに、三好の時代を築くことになり……(次へ続く)
続く




