第5話 「気づいている者」
翌朝。
オフィスは、いつも通りだった。
キーボードの音。
電話の呼び出し音。
誰かの笑い声。
何も変わらない。
——はずだった。
(……違うな)
蓮は、自分の席に座りながら思う。
昨日までと同じ景色。
だが、見え方が違う。
「おはよう、蓮」
声をかけてきたのは、隣の席の佐伯だった。
「おはようございます」
軽く返す。
佐伯は、いつも通りの笑顔。
営業成績もそこそこ。
特別優秀でもなければ、悪くもない。
どこにでもいる社員。
——そう思っていた。
「なんか疲れてる?」
「そう見えます?」
「うん、ちょっと顔違う」
何気ない一言。
だが、妙に引っかかる。
「昨日、遅かったんで」
「へえ。珍しいね」
それ以上は踏み込んでこない。
その距離感が、逆に気になる。
(こいつは……)
考えかけて、やめる。
今はまだ、何も分からない。
「そういえばさ」
佐伯が声を落とす。
「昨日の会議、出た?」
「いや、外回りで」
「ああ、そっか」
一瞬だけ、視線が泳ぐ。
ほんのわずか。
だが、見逃せない。
「何かあったんですか」
自然に聞く。
佐伯は、少しだけ間を置いて。
「いや、大したことじゃない」
そう言って笑った。
だが——。
(嘘だな)
確信に近い感覚。
「売上の話ですか?」
踏み込む。
佐伯の動きが、ほんの一瞬止まる。
「……まあ、そんなとこ」
曖昧な返事。
だが、それで十分だった。
(知ってる)
少なくとも、“何か”を。
「午後、部長呼び出しあるらしいよ」
話題を変えるように言う。
「全員?」
「いや、何人かだけ」
その言い方。
選別。
頭の中で、小野寺の言葉がよぎる。
“壊れる前に拾う”
「誰が呼ばれるか、知ってます?」
軽く聞く。
佐伯は肩をすくめた。
「さあね」
そして。
「でもさ」
少しだけ、声を落とす。
「呼ばれない方がいい気がするけどね」
その一言。
空気が、わずかに冷える。
「……どういう意味ですか」
佐伯は答えない。
ただ、モニターに視線を戻す。
「仕事しよ」
それで会話は終わった。
だが——。
(こいつ、気づいてる)
確信が強まる。
完全ではない。
だが、何かを察している。
“気づいている側”。
麻衣の言葉が頭をよぎる。
(使えるか……?)
いや。
まだ早い。
判断は保留。
蓮はパソコンを立ち上げる。
画面に映るのは、いつもの営業管理システム。
数字が並ぶ。
売上。
進捗。
予測。
(……全部、作られた数字だ)
そう思った瞬間。
ただのデータが、“嘘”に見えた。
クリックする指が止まる。
そのとき。
「神谷、ちょっといいか」
低い声。
振り向くと、部長が立っていた。
いつも通りの無表情。
だが、その目は笑っていない。
「はい」
立ち上がる。
周囲の視線が、一瞬だけ集まる。
すぐに逸らされる。
(見てるな……)
誰もが、何かを感じている。
だが、口には出さない。
部長の後をついていく。
会議室に入る。
ドアが閉まる。
二人きり。
数秒の沈黙。
「最近、どうだ」
唐突な質問。
「問題ありません」
即答する。
部長は、じっと蓮を見る。
何かを測るように。
「そうか」
短く返す。
そして。
「数字、見てるか」
核心に近い問い。
蓮は、ほんの一瞬だけ考え。
「はい」
答える。
嘘ではない。
ただし——。
どの数字かは、言っていない。
部長は、わずかに頷く。
「ならいい」
それだけ言うと、椅子に深く座る。
「余計なことは考えるな」
低い声。
圧がある。
「今は、とにかく数字を作れ」
“作れ”。
その言葉に、違和感はない。
昨日までなら。
だが今は——。
(やっぱり、そういうことか)
確信に変わる。
この人間は、知っている。
全部。
「分かりました」
表情を変えずに答える。
部長は満足そうに頷く。
「お前は使える」
評価。
だが、それは——。
(駒として、か)
心の中でだけ呟く。
「以上だ」
会話は終わった。
蓮は立ち上がり、ドアに手をかける。
そのとき。
「神谷」
呼び止められる。
振り返る。
部長は、少しだけ目を細めていた。
「変な動きはするなよ」
静かな警告。
その意味は、明確だった。
(監視されてるな)
蓮は、小さく頷く。
「もちろんです」
それだけ言って、部屋を出る。
廊下を歩く。
心臓の鼓動が、少しだけ速い。
だが、不思議と冷静だった。
(いい)
状況は悪くない。
むしろ——。
(分かりやすい)
上は黒。
一部の社員は気づき始めている。
そして、自分は——。
その両方に触れている。
席に戻ると、佐伯がちらりと見る。
「呼ばれたんだ」
「まあ」
短く答える。
「何言われた?」
探るような目。
蓮は、ほんの一瞬だけ考え。
そして、軽く笑った。
「頑張れってさ」
嘘。
だが、自然な嘘。
佐伯は数秒見つめて。
「……そっか」
それ以上は聞かなかった。
その代わり。
小さく、こう言った。
「気をつけなよ」
その一言。
今度は、はっきりと重かった。
蓮は、何も答えない。
ただ、モニターに視線を戻す。
画面の中の数字。
その裏にある、本当の数字。
そして、人間。
(誰を使うか)
(誰を切るか)
静かに、思考が回り始める。
——三日。
時間は、もう動いている。




