第21話 「歪みの兆し」
朝。
オフィスの空気は、静かに張り詰めていた。
いつもと同じ景色。
だが——
どこか違う。
「神谷くん」
呼ばれる。
振り向くと、麻衣が立っている。
表情はいつも通り。
だが、その目は少しだけ鋭い。
「ちょっといい?」
短く言う。
蓮は頷く。
そのまま、会議室へ。
ドアが閉まる。
外の音が、遮断される。
「これ」
テーブルに、資料が置かれる。
蓮は、それを見る。
数秒。
そして——
目が、わずかに細くなる。
「……早いですね」
低く言う。
そこに書かれていたのは——
昨日の案件に関する、別ルートの契約書案。
しかも。
正式なルートではない。
「でしょ」
麻衣が、軽く言う。
だが——
軽くはない。
「もう動いてる」
一拍。
「勝手に」
その言葉で、全てが繋がる。
「佐伯ですね」
蓮が言う。
確認ではない。
確信。
麻衣は、少しだけ笑った。
「ビンゴ」
そして。
椅子に腰を下ろす。
「やりすぎ」
一言。
評価。
だが、それは——
単なる否定ではない。
「でも」
一拍。
「面白い」
そうも言う。
両義的。
危険と価値が、同時に存在している。
蓮は、資料に目を戻す。
細部を見る。
契約条件。
金額。
責任範囲。
そして——
(全部、個人で被る形にしてるな)
逃げ道を消している。
意図的に。
「止めますか?」
蓮が聞く。
麻衣は、すぐには答えない。
数秒、考える。
そして——
首を振る。
「まだ」
短く。
「泳がせる」
決断。
「どこまで行くか、見たい」
興味。
そして——
計算。
その言葉で、蓮は理解する。
(管理下に置いてるつもりか)
だが。
それは本当に可能か?
疑問が残る。
そのとき。
麻衣が、ふと視線を上げる。
「で」
一拍。
「どう思う?」
試すような問い。
蓮は、少しだけ考える。
そして——
答える。
「危ないですね」
率直に。
「ただ」
続ける。
「止めたら、価値も消えます」
これも事実。
麻衣は、ゆっくりと頷く。
「いいね」
評価。
その上で——
「じゃあ、見といて」
任せる。
監視役。
蓮に。
「分かりました」
短く返す。
だが、その内側で——
何かが引っかかる。
同時刻。
別のフロア。
小さな会議室。
空気は、重い。
テーブルを挟んで、三人。
中央に座るのは——
佐伯。
その向かいに、上司と法務担当。
「説明してもらおうか」
低い声。
圧がかかる。
佐伯は、動じない。
「見ての通りです」
淡々と。
「案件、進めました」
事実だけ。
「勝手に、だろう」
即座に返される。
否定ではない。
断定。
「はい」
あっさり認める。
空気が、さらに重くなる。
「リスクは理解してるのか?」
法務が口を挟む。
冷静だが、鋭い。
「しています」
短く。
「なら、なぜやった」
核心。
佐伯は、一瞬だけ考える。
そして——
答える。
「間に合わないからです」
即答。
迷いはない。
「正規ルートでは、遅い」
事実。
だが——
それは、言ってはいけない理由でもある。
上司の眉が、わずかに動く。
「だから、ルールを無視したと?」
「はい」
また、即答。
逃げない。
責任を、受ける。
沈黙。
数秒。
そして——
上司が、小さく息を吐く。
「処分は避けられない」
冷静な宣告。
当然の帰結。
だが。
佐伯は、頷くだけ。
驚きも、反発もない。
「構いません」
短く言う。
その態度に、法務がわずかに苛立つ。
「問題はそこじゃない」
一拍。
「契約が破綻した場合——」
続けようとした、そのとき。
「破綻しません」
佐伯が、被せる。
断言。
空気が、止まる。
「根拠は?」
即座に問われる。
佐伯は、ゆっくりと笑った。
「握ってるからです」
一言。
意味は、明確。
相手の弱み。
コスト構造。
内部事情。
すべて。
「……それは」
法務の声が、わずかに低くなる。
「問題だな」
危険領域。
完全に。
だが——
佐伯は、引かない。
「結果は出します」
ただ、それだけを言う。
沈黙。
長い。
そして——
上司が、ゆっくりと口を開く。
「……一週間だ」
条件提示。
「それまでに形にしろ」
期限。
「できなければ」
一拍。
「全部、お前の責任だ」
完全な切り離し。
組織は守る。
個を切る準備。
佐伯は、頷く。
「十分です」
短く。
立ち上がる。
ドアへ向かう。
その背中に——迷いはない。
夕方。
オフィス。
蓮は、一人で資料を見ていた。
だが、集中していない。
思考が、別の方向に向いている。
(泳がせる、か)
麻衣の言葉。
合理的。
だが——どこか違和感がある。
そのとき。
別の資料に目が止まる。
何気なく、手に取る。
内部資料。
案件一覧。
そして——
(……これ)
指が止まる。
ある案件。
見覚えがある。
だが、関与した記憶がない。
詳細を見る。
契約内容。
条件。
履歴。
そして——
(似てるな)
昨日の構造に。
いや。
もっと前から。
同じような形で——
「外してる」
小さく呟く。
意図的に。
利益の低い案件。
リスクの高い契約。
それらが——
あるタイミングで、まとめて切られている。
誰かが、やっている。
計画的に。
そのとき。
背後から、声。
「気づいた?」
振り向く。
麻衣。
いつの間にか、立っている。
蓮は、資料を軽く持ち上げる。
「これ」
短く言う。
麻衣は、笑った。
「そう」
肯定。
隠す気はない。
「最初から、全部取るつもりじゃない」
一拍。
「いらないのは、先に捨てる」
合理。
だが——
冷たい。
「残ったものだけ、拾う」
それが、この組織のやり方。
蓮は、何も言わない。
ただ、聞いている。
「綺麗でしょ?」
麻衣が言う。
少しだけ楽しそうに。
だが、その言葉に——
わずかな違和感。
「……ええ」
蓮は、答える。
だが。
その内側で——
確実に、何かが変わり始めている。
(これは)
一拍。
(俺たちがやってることと、同じだな)
奪って。
選んで。
切り捨てる。
違いは——規模だけ。
静かに、息を吐く。
窓の外を見る。
街は、いつも通り動いている。
だが——その裏側で。
同じことが、繰り返されている。
「どうする?」
麻衣が聞く。
軽く。
だが、その意味は重い。
蓮は、少しだけ考える。
そして——
答える。
「続けます」
短く。
迷いなく。
それが、今の選択。
麻衣は、満足そうに頷く。
「いいね」
その一言。
だが——
その裏にあるものを。
蓮は、もう理解している。




