第1話 「最下位の男」
動くはずの金が、動いていない
「で、蓮。今月の数字、説明してくれるか?」
会議室の空気が、一瞬で重くなった。
十数人が並ぶ長机。
その視線が一斉にこちらに向く。
逃げ場はない。
蓮はゆっくりと立ち上がった。
「……未達です」
短く答えると、正面に座る男――部長の鷲尾大輔が、わざとらしくため息をついた。
「未達、ねえ」
資料を指で叩く音が、やけに響く。
「三ヶ月連続だ。理由は?」
理由。
そんなもの、いくらでもある。
顧客の事情。
市場の変化。
上から降りてくる無理な目標。
でも、それを口にしたところで意味はない。
この場で求められているのは、説明じゃない。
敗者の言い訳を引き出して、切り捨てることだ。
「……力不足です」
蓮がそう言うと、くすり、と誰かが笑った。
視線を動かさなくても分かる。黒田だ。
同期で、同じ営業部。
いつも上手くやっている男。
「力不足、か」
鷲尾が椅子にもたれかかる。
「便利な言葉だな。何も考えてなくても使える」
小さな笑いが広がる。
蓮は何も言わなかった。
言い返せばいい。
数字だけ見れば、確かに最下位だ。
でも――。
(……あの案件は、あと一歩だった)
頭の中に浮かぶのは、昨日会った取引先の顔だ。
条件は揃っていた。あとは社内承認だけ。
だが、その承認は下りなかった。
理由は単純だ。
「今月の数字に間に合わないから」
長期的に見れば利益になる案件でも、短期の数字に合わなければ切り捨てられる。
それが、この会社のやり方だった。
「まあいい」
鷲尾が資料を閉じる。
「来月は期待してるよ、蓮。――“最後のチャンス”だ」
その言葉に、会議室がわずかにざわついた。
最後のチャンス。
つまり、それを逃せば――。
(終わり、か)
蓮は小さく息を吐いた。
会議が終わり、席を立つ人間たちが次々と部屋を出ていく。
「お疲れ、蓮」
背後から声がした。
振り向かなくても分かる。
「……黒田」
黒田直樹は、いつもの軽い笑みを浮かべていた。
「いやー、きついな。あれは」
他人事のように肩をすくめる。
「でもさ、仕方ないよな。結果が全てだし」
その言葉に、蓮は何も返さなかった。
黒田は少しだけ間を置いて、続ける。
「アドバイスしてやろうか?」
「……いらない」
即答だった。
「はは、冷たいな」
黒田は笑いながら、蓮の肩を軽く叩いた。
「でもさ、このままだと本当に切られるぞ?」
その言葉だけ、妙に現実味があった。
黒田は先に会議室を出ていく。
その背中を見送りながら、蓮は立ち尽くした。
オフィスに戻ると、いつもの雑音が耳に入る。
キーボードの音。
電話の声。
笑い声。
その中に、自分の居場所があるのかどうか、分からなくなる瞬間がある。
デスクに座り、パソコンを立ち上げる。
画面に表示される売上データ。
自分の数字は、やはり最下位だった。
(……分かってる)
数字だけ見れば、評価は妥当だ。
でも。
スクロールする指が止まる。
全体の売上は、伸びている。
前年よりも、確実に。
なのに――。
(……おかしい)
蓮は別の画面を開いた。
社内共有の簡易財務データ。
普段、営業が細かく見るものではない。
だが、なぜか気になった。
数字を追う。
売上。利益。経費。
そして――現金残高。
その数字を見た瞬間、蓮は眉をひそめた。
(……少なすぎる)
売上が伸びているのに、手元の現金が減っている。
ありえないわけじゃない。
投資や先行費用があれば、そうなることもある。
だが、この減り方は――。
「何見てるの?」
不意に声をかけられ、蓮は顔を上げた。
そこにいたのは、経理の女性だった。
名前は――。
「……麻衣、さん」
彼女は画面を一瞥し、表情を変えないまま言った。
「それ、営業が見る資料じゃないよ」
「……すみません」
蓮は画面を閉じようとする。
だが、その前に。
麻衣が、ぽつりと呟いた。
「でも、気づいたんだ」
その一言に、手が止まる。
「え?」
麻衣は少しだけ視線を落とし、続けた。
「その数字」
一拍、間を置いて。
「――普通じゃないから」
蓮の背筋に、冷たいものが走った。
その日の帰り道。
頭の中で、数字が何度も繰り返される。
売上は伸びている。
なのに、現金は減っている。
(何かがズレてる)
ただの見間違いかもしれない。
自分の勘違いかもしれない。
でも。
(もし、違うとしたら)
蓮はスマートフォンを取り出し、もう一度データを確認した。
そして、画面を見つめたまま、動けなくなる。
そこに表示されていたのは――
前月と同じ“現金残高”の数字だった。
本来、動くはずの数字が。
ぴたりと、止まっている。




