第9話 「持ち出す者」
深夜。
オフィスの明かりは、完全に落ちていた。
非常灯だけが、ぼんやりと床を照らしている。
静寂。
だが——
(今が、一番安全だ)
蓮は、エレベーターを降りる。
腕時計を見る。
午前二時。
人の気配はない。
——はずだった。
(……いや)
足を止める。
廊下の奥。
一瞬だけ、何かが動いた気がした。
だが、次の瞬間には何もない。
(気のせいか)
判断を保留。
そのまま歩き出す。
向かう先は、一つ。
経理室。
カードキーをかざす。
——ピッ。
ロックが外れる音。
ドアを開ける。
中に入る。
静かに閉める。
「……来た」
小さな声。
中原がいた。
PCの前。
すでに準備は整っている。
「早いですね」
蓮が言う。
中原は視線を画面に向けたまま答える。
「寝られなかっただけ」
それは、嘘ではないだろう。
「佐伯は?」
「来ない」
即答。
迷いがない。
「信用してないから」
はっきり言う。
蓮は、わずかに笑った。
「同感です」
空気は冷たいが、無駄がない。
「始める」
中原が言う。
キーボードを叩く。
昨日見たデータ。
資金繰り。
二重帳簿。
選別リスト。
すべてが画面に並ぶ。
「これ、全部持ち出す」
USBメモリを取り出す。
小さなデバイス。
だが——
(会社の命綱だな)
差し込まれる。
転送開始。
プログレスバーが、ゆっくりと進む。
「時間、どれくらいですか」
「三分」
短い。
だが——
長い。
沈黙。
ファンの音だけが、かすかに響く。
10%。
20%。
そのとき。
——カチ。
小さな音。
二人が同時に顔を上げる。
「……今の」
ドアの方。
わずかに、影が揺れた気がした。
(いる)
確実に。
誰かが。
外に。
「止める?」
中原が小さく言う。
蓮は、首を振る。
「続けて」
ここで止める選択肢はない。
「見られてる可能性は?」
「高い」
即答。
なら——
(もう関係ない)
腹は決まっている。
40%。
50%。
時間が、やけに遅く感じる。
そのとき。
——ガチャ。
ドアノブが、ゆっくりと回る。
ロックはかかっている。
だが——
「……開けようとしてる」
中原の声が、わずかに震える。
外の気配。
はっきりと分かる。
誰かが、いる。
「誰ですか」
蓮が、あえて声を出す。
返事はない。
だが、動きも止まらない。
カチャ、カチャ、と音が続く。
「まずいね」
中原が言う。
「こじ開けられるかも」
時間はない。
70%。
まだ終わらない。
蓮は、ゆっくりと立ち上がる。
ドアに近づく。
その前に立つ。
「時間、稼ぎます」
低く言う。
中原は頷く。
「あと少し」
80%。
ドアの向こうの気配が、強くなる。
「開けろ」
低い声。
聞き覚えがある。
——部長。
(やっぱり来たか)
蓮は、ドア越しに答える。
「何の用ですか」
時間を引き延ばす。
「分かってるだろ」
即答。
「中原もいるな」
確信している。
完全に読まれている。
90%。
あと少し。
「開けろ」
再度。
今度は、強い。
ドアが、わずかに軋む。
(持たないな)
時間切れが近い。
「神谷」
部長の声が低くなる。
「今なら、まだ戻れる」
一瞬だけ、手が止まりそうになる。
だが——
(遅い)
とっくに越えている。
95%。
「断ります」
はっきりと言う。
ドアの向こうで、気配が止まる。
一瞬の沈黙。
そして——
「そうか」
静かな声。
次の瞬間。
——ドンッ!!
強い衝撃。
ドアが大きく揺れる。
中原が、息を飲む。
「あと……!」
98%。
99%。
そのとき。
——ピッ。
軽い音。
ロックが、外れる。
「……は?」
中原が固まる。
蓮も、一瞬遅れる。
(外から解除……?)
あり得ない。
だが、現実に——
ドアが、ゆっくりと開く。
そこに立っていたのは——
佐伯だった。
「……やっぱりここか」
息を少し切らしながら言う。
その後ろに——
部長の姿。
完全に、挟まれている。
空気が、止まる。
中原が、低く呟く。
「……裏切ったの?」
佐伯は、数秒黙る。
その表情は——
読めない。
そして。
「違う」
短く言う。
だが。
その一言では、何も分からない。
そのとき。
——カチ。
PCから音がする。
転送完了。
100%。
蓮は、一瞬でUSBを抜く。
ポケットに入れる。
その動きを、全員が見ている。
部長の目が、細くなる。
「……終わりだな」
低く言う。
だが——
蓮は、わずかに笑った。
「始まりですよ」
静かに返す。
その一言で、空気が変わる。
誰も動かない。
だが——
次に動けば、何かが壊れる。
そのギリギリの均衡。
そして——
佐伯が、ゆっくりと一歩前に出た。
どちら側に立つのか。
その答えが——
今、出る。




