蓄音機の囁き
その部屋は、郵便局のどの場所よりも静かで、そして「時間」の密度が濃かった。
壁一面を埋め尽くすのは、砂時計でも時計でもなく、「誰にも聞かれなかった独り言」が詰まった無数のガラス瓶だ。
部屋の中央に、巨大な蓄音機の仮面を被った局長が座っていた。
「……ハル。近くへ来なさい」
仮面から漏れ出る声は、老人のようでもあり、子供のようでもあった。
ハルは緊張で膝を震わせながら、重厚なデスクの前に立った。傍らにいるクロも、今回ばかりは冗談を言わず、神妙な顔で床に座っている。
「二つの配達を完遂したな。……特に『名前』の回収。あれは君にしかできないことだった」
「僕に、しか……?」
局長がゆっくりと立ち上がる。彼が動くたびに、部屋中のガラス瓶がチリンと微かな音を立てて共鳴した。
「ハル。君は自分が『記憶を失った哀れな人間』だと思っているようだが……それは少し違う」
局長の手が、ハルの胸元のペンダントに触れた。指先が触れた瞬間、ペンダントの中の「文字の欠片」と「花の残滓」が、今までになく激しく明滅した。
「君は、どこかから流れてきた迷子ではない。君は、『この世界に溢れすぎた想いを調整するために、人間が自ら切り離した慈悲』そのものなんだよ」
「慈悲……? 僕が、想いの一部……?」
ハルは言葉の意味が掴めず、呆然と局長を見上げた。
「人間は耐えきれないほどの大きな想いを持つと、それを守るために、心の一部を『無垢なまま』切り離すことがある。君はその、切り離された純粋な断片だ。……君が他人の忘れ物にこれほどまでに共感し、ボロボロになりながら届けようとするのは、君自身が『誰かの切なる願い』から生まれた存在だからだ」
局長の仮面の奥から、遠い時代の雨音のような音が響いた。
「君がすべての忘れ物を配り終えた時、君は『ある一人』の元へ帰ることになる。……その時、君はその人間を救うのか、それとも君という個を失って消えるのか。それを選ぶのが、君の最後の仕事だ」
ハルの頭の中に、白い光の渦が広がった。
自分が「誰か」の一部。自分が消えることで、誰かが救われるかもしれないという予感。
「……僕の、持ち主……。僕は、その人のために生まれたんですか?」
「それを知るには、まだ欠片が足りない。……行きなさい、ハル。次の依頼が届いている」
局長が袖を振ると、執務室の扉が音もなく開いた。
執務室を出たハルの足取りは、いつにも増して頼りなかった。
クロが心配そうにハルの顔を覗き込み、ポンと肩を叩いた。
「……おい、難しく考えるな。局長の言うことはいつも大げさなんだよ」
「……うん。でも、少しだけ分かった気がするんだ。どうして僕が、あんなに必死に花を届けたいと思ったのか。……僕は、誰かの『誰かを助けたい』っていう気持ちから出来てるんだね」
ハルは少しだけ寂しそうに微笑み、それから、いつものように自分の制服をぎゅっと握りしめた。
「責任を持って、最後まで届けるよ。……それが、僕を切り離した『あの人』の願いなら」
その時、掲示板の前にいたミス・カラスが、一枚の青い封筒をハルに向けて突き出した。
「ハル! 湿っぽい顔をしていられないわよ。今度の依頼人は……『まだ生きている子供』よ。しかも、忘れ物はこの郵便局の中ではなく、『現世のゴミ捨て場』にあるそうよ」




