凍解する記憶
「……不法侵入者め。警察を呼ぶ前に、そこから失せろ」
老人の声は、まるで枯れ葉が擦れるような冷たさだった。その瞳には、外界を拒絶する分厚い氷のような膜が張っている。
ハルは恐怖で足がすくみそうになったが、胸元のコサージュがトクトクと激しく脈打つのを感じた。その鼓動が、ハルの震える背中を支えている。
「警察でも何でも呼んでいいです。でも、これだけは、これだけは受け取ってください!」
ハルは床を蹴った。
クロが驚いたように
「おい、ハル!」
と声を上げたが、ハルは止まらなかった。杖を振り上げようとした老人の懐に、決死の覚悟で飛び込む。
「触れてください! あなたがずっと、忘れたふりをしていた記憶に!」
ハルは強引に、老人の節くれだった大きな手に、真っ白なコサージュを押し付けた。
――その瞬間。
モノクロだった視界が、一気に鮮やかな色彩へと塗り替えられた。
老人の脳内に、怒濤のような勢いで記憶が流れ込む。
それはハルが感じ取ったものよりも、もっと生々しく、温かく、そして痛いほどの愛着を伴っていた。
垣根越しに笑う、お下げ髪の少女。
「私たちは、仲良くしちゃいけないのよ」
と泣きながら、それでも手作りのコサージュを差し出してきたあの日。
大人たちが罵り合う声の裏で、彼女だけは、ずっと同じ色の花を庭に植え続けていたこと。
老人が彼女の葬儀にも行けず、自室でただ一人、壁を殴り続けていた時の絶望。
『――ねえ、いつか、この壁がなくなる日が来たら』
記憶の中の彼女が、老人の瞳をじっと見つめて囁く。
『一番に、あなたに「好き」って伝えに行くわ。約束よ』
その声が響いた瞬間、老人の手の中で、固く閉じていたコサージュの花びらが、ハラハラと音を立てるようにして一気に開いた。
真っ白だった花は、朝焼けのような淡い桃色に染まり、部屋中にむせ返るような甘い花の香りが満ち溢れた。
「あ……ああ……」
老人の手から杖が落ち、乾いた音を立てる。
彼の目から、大粒の涙が溢れ出した。それは何十年もの間、憎しみという仮面の下に閉じ込めていた、行き場のない愛の雫だった。
「……そうか。お前は、ずっと……待っていたのか。あの日の約束を」
老人は崩れ落ちるように膝をつき、開いた花を愛おしそうに頬に寄せた。
その姿を見守っていたハルの胸に、ふっと、不思議な感覚が去来した。
(……この温かさ。僕も、知っている気がする)
誰かと笑い合い、誰かのために泣いた、自分の「現世」の断片。
けれどそれは、手を伸ばそうとした瞬間に、深い霧の向こうへと消えてしまった。
老人の屋敷を後にした二人の背中には、もう先ほどの重苦しい空気はなかった。
ハルの手元に残ったのは、役目を終えてただの布に戻った、小さな花の芯だけだ。
「……へぇ。あんな無茶するなんて、ハルらしくねえな。見直したぜ」
クロが猫の姿に戻り、ハルの肩に乗って喉を鳴らす。
「自分でも、どうしてあんなに体が動いたのか分からないんだ。でも、届けなきゃって……それだけだった」
「ま、おかげで一つ、重い『忘れ物』が片付いた。……お、見ろよ」
クロが指した先、ハルの首から下がっていた「空っぽのペンダント」が、ほんのわずかだけ、淡い光を帯びていた。
「……これ、光ってる?」
「誰かの記憶を繋ぎ合わせるたびに、お前の記憶の欠片も集まってくるのかもな。……さて、次はどんな厄介な依頼が届くことやら」
霧の向こうから、郵便局の古びた鐘の音が響く。
ハルの物語は、まだ始まったばかりだった。




