境界線の向こう側
郵便局の重い扉を開けると、そこはもう現実の世界ではなかった。
『言の葉郵便局』から一歩外へ出ると、景色はモノクロームの霧に包まれている。ここは現世と黄泉の狭間。想いだけが形を持つ、不安定な境界線だ。
「……うわっ」
ハルは、足元がぐらりと揺れる感覚に襲われ、思わずクロの袖を掴んだ。
「おい、いつまで経っても慣れないやつだな。ここは地面を歩くんじゃない、『記憶の残香』を辿るんだよ」
人型になったクロは、面倒くさそうに言いながらもハルの手を振り払いはしなかった。彼は鼻をひくつかせ、空中に漂う目に見えない糸を掴み取るような仕草を見せる。
「……よし、見えた。古い土蔵と、腐りかけた垣根の匂いだ。それから……ひどく苦い後悔の匂い」
二人が霧の中を進んでいくと、景色が徐々に色彩を取り戻し始めた。
現れたのは、古びた日本家屋が並ぶ静かな住宅街だ。しかし、どこか空気が重い。その一角に、まるで周囲を拒絶するように高い塀をめぐらせた屋敷があった。
「ここが、受取人の家?」
ハルが尋ねると、胸に抱いた白い花のコサージュが、それまで以上に激しく鼓動した。ドクン、ドクンと、ハルの掌に熱い痛みが走る。
「そうだ。中には、頑固で偏屈なジジイが一人。家系同士の争いだか何だか知らないが、あいつの家と、この花の持ち主の家は、この高い塀一枚を隔てて一生を呪い合ってきたのさ」
ハルは、塀にそっと手を触れた。冷たい石の感触。
その瞬間、彼の脳裏に一瞬だけ映像がフラッシュバックした。
――夕暮れ時。幼い少年と少女が、塀の隙間からこっそりとお手玉を交換している。笑い声。けれど、次の瞬間には大人の怒鳴り声が響き、二人の手は引き裂かれる。
「……悲しい」
ハルが呟くと、クロが挑発するように笑った。
「悲しんでる暇はないぜ。門扉には『拒絶』の結界が張られてる。ハル、お前の出番だ。その弱々しいツラを見せて、あいつの心の隙間に潜り込め。責任感、全開で行けよ?」
クロに背中をドンと押され、ハルはよろめきながらも大きな門の前に立った。
ハルの心臓は早鐘を打っている。彼は深く息を吸い込み、記憶を失った自分が唯一持っている「誠実さ」を振り絞って、古いインターホンのボタンに指をかけた。




