絶望の淵
現世と境界の狭間――そこは、色を失った荒れ狂う海だった。
崖の淵に、あの青年が立っていた。激しい風に打たれ、今にもその細い体が闇に飲み込まれようとしている。彼の周囲には、どろりとした黒い霧が渦巻いていた。それは彼が長年溜め込んできた「拒絶」と「自責」の塊だ。
「ハル! あの黒い霧に触れるな、お前の存在が溶かされるぞ!」
並走するクロが叫ぶ。背後からはウツロが、そして空中からはミス・カラスの鴉たちが、ハルの進む道を必死に確保していた。
「……でも、行かなきゃ! 彼は、僕なんだ!」
ハルは、ツムギが修復してくれた「想いの詰まった鞄」を抱きしめ、黒い霧の中へと飛び込んだ。冷たい悪意が肌を刺すが、不思議と恐怖はなかった。今のハルの中には、これまで出会った人々の温かな記憶が満ちているからだ。
「……君!!」
ハルの声に、青年がゆっくりと振り返った。その瞳は完全に光を失い、焦点が合っていない。
「……また、君か。……消えたいんだ。何も感じたくない。優しくされるのも、誰かを傷つけるのも、もう疲れたんだ。だから、僕の中の『心』なんて、全部消えてしまえばいい……」
青年が足を踏み出そうとしたその時、ハルは鞄の紐をほどいた。
「消えさせない! 君がゴミ箱に捨てた想いも、鏡の中に隠した顔も、全部僕が預かっていたんだ!」
ハルが鞄を掲げると、中から眩い光が溢れ出した。
それは、1件目で届けた老婦人の「桃色のコサージュ」。2件目で取り戻した「名前の響き」。そして3件目で少年と描いた「虹色の色彩」。
「見て、これが君の生きてきた世界の色だよ!」
光の欠片たちが、青年の周りの黒い霧を次々と浄化していく。
青年は目を見開いた。彼が「無価値だ」と切り捨てた世界には、こんなにも美しく、切実な誰かの想いが満ちていたのか。
「……ハル、今だ! お前の全部をあいつに叩き込め!」
クロの声に、ハルは大きく頷いた。
ハルは青年へと駆け寄り、その細い体を精一杯抱きしめた。
黒い霧の中、ハルが青年の体に触れた瞬間。
逆流する川のように、青年の「封印された記憶」がハルの中に流れ込んできた。
それは、数年前の、ある雨の日の光景だった。
青年は、誰よりも優しすぎた。道端に咲く花が踏まれれば心を痛め、友人がついた小さな嘘にさえ、自分のことのように傷つく。そんな彼にとって、この世界はあまりにも「尖った場所」だった。
決定打となったのは、ある裏切りだった。
信じていた親友が、自分の優しさを利用して大きな利益を得て、平然と彼を切り捨てたのだ。周囲は「お前が甘すぎるんだ」「もっと器用に生きろ」と笑った。
(――ああ、そうか。この世界で『優しく』あることは、弱点なんだ)
壊れかけた心を守るため、彼は自分自身に呪いをかけた。
「傷つかないためには、感じる心を捨てればいい」と。
彼は、自分の中にある**『人を信じてしまう心』
『他人の痛みを分かち合ってしまう心』……つまり、今のハルを構成するすべてを、無理やり引き剥がした。
それが、ハルが生まれた瞬間。そして、あの日以来、彼は色彩を失い、クロが守ろうとした「空っぽの器」になってしまったのだ。
「……苦しかったね。優しさだけをゴミ箱に捨てて、一人で『正しく』あろうとしたんだね」
回想から戻ったハルの瞳からは、透明な涙がこぼれていた。
目の前で絶望している青年は、悪人でも何でもなかった。ただ、あまりにも美しい心を持ちすぎて、この世界に疲れてしまっただけの、かつての自分。
「でも、見て! 君が捨てたその優しさは、郵便局でたくさんの人を救ったんだよ! 弱点なんかじゃない、君の本当の強さだったんだ!」
ハルが叫び、青年の冷え切った手を握りしめる。
その体温が伝わった瞬間、青年の「止まっていた時間」が、激しい痛みを伴って動き出した――。
「……おかえり。もう、一人で抱えなくていいんだよ」
ハルの体が光に溶け、青年の胸の中へと吸い込まれていく。
自分という個が消えていく感覚。けれど、それは消失ではなく、ようやく「あるべき場所」へ帰る安らぎだった。
青年の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
モノクロだった彼の世界に、一気に色が流れ込む。
痛み、悲しみ、後悔。それと同時に――誰かに感謝された記憶、猫の毛並みの柔らかさ、夕焼けの美しさ。
「……ああ……、あああああ!!」
青年は地面に崩れ落ち、声を上げて泣いた。
それは「消えたい」という叫びではなく、「生きていたい」という魂の産声だった。
数日後。
現世の街角。あの青年は、以前よりも少しだけ背筋を伸ばして歩いていた。
彼の肩には、一匹の黒猫が誇らしげに乗っている。周囲の人間にはただの飼い猫に見えるが、時折その猫は、青年の耳元で「しっかり歩けよ」と囁くように喉を鳴らした。
青年は、ふと立ち止まり、記憶の隅にある「古い真鍮の看板」を思い出す。
今はもう、その郵便局の場所へ行くことはできない。けれど、彼の胸の奥にあるペンダントの形をした痣が、時折温かく熱を帯びる。
「……行こうか、クロ」
青年が歩き出すと、街のざわめきの中に、微かに鐘の音が響いた気がした。
一方、境界の底。
『言の葉郵便局』では、いつもと変わらない朝礼が行われていた。
「ハルがいなくなって、少し静かになったわね」
ミス・カラスが少し寂しげに呟くと、局長が仮面を揺らして答えた。
「……いや。彼は今も配り続けている。あちらの世界で、自分自身の『言葉』をね」
掲示板には、新入りの配達員のための真っ白な制服が掛けられていた。
霧の向こうから、また新しい「忘れ物」を抱えた魂がやってくる。
想いがある限り、郵便局の扉が閉じることはない。
『言の葉郵便局・忘れ物専門』――今日も、あなたの大切な言葉をお預かりします。




