鈴の音と約束
「……クロ」
ハルがおずおずと声をかけると、黒い塊はピクリと耳を動かしましたが、顔を上げようとはしません。
「……あっち行けよ。俺は今、寝るのに忙しいんだ」
低く、ぶっきらぼうな声。でも、ハルにはそれが強がりにしか聞こえませんでした。ハルは構わず、クロの隣の草むらに腰を下ろしました。
「ミス・カラスから聞いたよ。……クロが、あの人の猫だったってこと」
その瞬間、クロの体が強張り、彼はバサリと人間の姿に戻りました。ハルと背中合わせに座り、膝を抱えたクロの横顔は、いつもの自信家な彼とは別人に見えるほど幼く、寂しげでした。
「……だったら、余計に分かるだろ。俺はあいつが、小さなガキだった頃から知ってる。あいつが一人で泣いてる時も、誰にも言えない秘密を作った時も、ずっと一番近くにいたんだ」
クロの声が微かに震えます。
「あいつが大人になって、どんどん壊れていくのを見てるのは辛かった。だから、あいつが『心』を捨てたとき、俺はそれを拾って逃げたかった。……お前っていう形になった『心』を、もう誰にも傷つけさせたくなかったんだよ」
ハルは、自分の胸元に手を当てました。そこにはクロがずっと守ってくれた「青年の良心」が、今も温かく鼓動しています。
「ありがとう、クロ。……ずっと僕を守ってくれていたんだね」
ハルはそっと、隣に座るクロの、少し尖った肩に自分の肩を預けました。
「でもね、クロ。僕は消えるためにその日を待ってるんじゃない。……僕は、あの人に教えに行きたいんだ。君の中には、こんなにたくさんの『ありがとう』が貯まっていたんだよって。クロっていう、こんなに素敵な友達がずっとそばにいたんだよって」
ハルはクロの顔を覗き込み、今日一番の笑顔を見せました。
「僕が『あの人』に戻った時、僕の中にはクロとの思い出も、全部持っていくよ。だから、僕は消えるんじゃなくて、君と一緒に『あの人』を新しく作り直すんだ。……ダメかな?」
クロはしばらく黙ってハルの顔を見つめていました。やがて、根負けしたように深い溜息をつくと、乱暴にハルの頭を撫で回しました。
「……本当にお前は、お人好しで、弱虫で、……最高の郵便局員だよ」
クロが立ち上がり、指先で自分の首の鈴を鳴らしました。チリン、という清らかな音が、休日の静かな空気に溶けていきます。
「分かったよ。……最後まで付き合ってやる。ただし、あいつ(本体)が気に入らなかったら、俺がまた爪で引っ掻いて、お前を連れ戻してやるからな」
「あはは、それは怖いな」
二人の間に、ようやくいつもの空気が戻りました。
しかし、その温かな時間を切り裂くように、郵便局の屋上にある「緊急告別鐘」が、重苦しい音で鳴り響きました。
裏庭に駆け込んできたのは、顔を真っ青にしたウツロでした。
「ハル! クロ! 局長が呼んでる……! 封印された『黒い速達』が届いたんだ!」
黒い速達。それは、持ち主が自ら存在を終わらせようとした時、その絶望が形を成して届く、この郵便局で最も忌むべき依頼状です。
執務室に駆け込んだハルの前に、局長が立っていました。その手にある黒い封筒には、ハルの手元にあるのと同じ筆跡で、こう記されていました。
『宛先:どこにもいない僕へ。件名:すべてを忘れて、さようなら』
「ハル。これまでに集めたすべての『想いの欠片』を持ちなさい」
局長の仮面から、地響きのような声が漏れます。
「君の本体である青年が、今、現世の境界線で足を止めようとしている。彼を連れ戻せるのは、彼の断片である君だけだ。……これは配達ではない。君自身を賭けた、『救出』だ」




