重なる足音
鏡の中から掬い取った「本当の顔」――それは、淡い光を放つ手のひらサイズの陽炎のようなものだった。
ハルとクロは、老婦人が生前、人目を盗んで通い詰めたという海辺の古い展望台へと向かっていた。
「……ハル、ぼーっとするな。足元が透けてるぞ」
クロの指摘に、ハルは慌てて自分の手を見た。
「本当の自分」という想いを運んでいるせいか、境界線の存在であるハルの実体が、現世の重みに耐えきれず揺らいでいる。
その時だった。
展望台へ続く石段の影から、一人の青年が降りてきた。
「あ……」
心臓が跳ねた。そこにいたのは、またしても「彼」だった。
青年は手に一輪の枯れかけた花を持ち、ひどく疲れ切った様子で歩いている。二人の距離は、わずか数メートル。
すれ違う瞬間、青年が立ち止まった。
彼はハルの姿が見えていないはずなのに、何かに導かれるように、ハルが「本当の顔」を抱えている手元を、じっと見つめた。
「……誰か、そこにいるのか?」
青年の掠れた声が、ハルの鼓動を激しく打ち鳴らす。
ハルが抱える「老婦人の本当の顔」が、青年の孤独に共鳴し、ひときわ強く発光した。その光が青年の瞳に映り込んだ瞬間、彼の頬を一筋の涙が伝う。
「……嫌だ。これ以上、僕の中に何も入ってこないでくれ」
青年は怯えたように耳を塞ぎ、逃げるように走り去っていった。
ハルは追いかけようとしたが、指先が痺れ、その場に崩れ落ちた。
「……ダメだ、追うな! ハル、お前が今あいつに触れたら、二人とも存在が崩壊する!」
クロが必死にハルの肩を掴む。その手は、いつになく激しく震えていた。
老婦人の想いを無事に海へと解き放った後、帰り道のクロは異様に口数が少なかった。
いつもなら「お疲れさん、ハル」と生意気に笑うはずなのに、今のクロは何か恐ろしいものから逃げるように、せかせかと早足で境界線の霧の中を歩いている。
「……ねえ、クロ。さっきのあの人、僕のことを感じてたよね?」
「……知らねえよ。あんな奴のこと、気にするな」
「でも、あんなに辛そうだった。僕は彼を助けるために生まれたって、局長は言った。だったら、僕は早く――」
「『早く』何だよ!」
クロが唐突に足を止め、人間の姿になってハルを振り返った。その瞳には、怒りよりも、深い深い焦燥と孤独が浮かんでいた。
「お前が『あいつ』と一つになれば、お前というこの『ハル』は消えるんだぞ! 分かってんのか? ……俺と一緒に郵便局で働いてる、この、お人好しで弱虫な『ハル』は、どこにもいなくなるんだ!」
ハルは息を呑んだ。クロが自分との「別れ」をこれほどまでに恐れているなんて、思ってもみなかった。
「……俺は、嫌だ。あんな抜け殻みたいな男の一部に戻るなんて。俺は……今のままのお前と、仕事を続けていたいんだよ」
クロはそれだけ吐き捨てると、猫の姿に戻って、霧の奥へと消えていった。ハルは一人、冷たい霧の中に立ち尽くすしかなかった。
翌日。
殺伐とした空気のまま、郵便局には珍しく「休日」が言い渡された。
『言の葉郵便局』の休日は、年に一度、境界線の霧が晴れ、職員たちが「自分自身」をメンテナンスするための日だ。
「あら、ハル。そんな隅っこで縮こまって、せっかくの休みなのに」
ミス・カラスが、今日は喪服ではなく、少し柔らかな灰色のドレスを纏って現れた。彼女はハルの隣に腰を下ろし、どこからか取り出した温かい紅茶を差し出す。
「クロと喧嘩したんですって? ウツロがニヤニヤしながら見てたわよ」
「……喧嘩っていうか……。クロに、消えてほしくないって言われて。僕、何も言い返せなくて」
ミス・カラスは遠い空を見上げた。
「あの子……クロも、元々は『あっち側』にいた存在だからね。彼はかつて、あの青年が子供の頃に可愛がっていた、『早くに死んでしまった飼い猫』の魂なのよ」
ハルは目を見開いた。
「クロが、あの人の飼い猫……?」
「そう。青年が絶望して『心』を切り離したとき、彼の深い悲しみに呼ばれて、クロはこの郵便局の案内役として現世に戻ってきた。……ハル、あの子にとって、君は『かつての飼い主の、一番綺麗な部分』なのよ。二度も君(飼い主)を失うのが、怖くてたまらないのね」
休日の穏やかな光の中で、ハルは初めて知る仲間の過去に胸を打たれた。
離れた場所では、ツムギが壊れた古い時計をのんびりと修理し、ウツロはヘッドホンを外して、風の音を聞きながら微睡んでいる。
みんな、現世では何かを失った者たち。
けれど、ここで出会い、支え合っている。
「……僕、クロを探してきます」
ハルは立ち上がった。ミス・カラスは微かに微笑み、彼を送り出した。




