鏡の中の迷子
カフェで自分自身を目撃して以来、ハルの世界は少しずつ変わり始めていた。
これまでは「他人」の忘れ物を届けることに必死だったが、今は街を歩くたびに、「あの青年(本体)もこの道を歩いたのだろうか」「彼は今、何を考えているのだろうか」という思いが頭をよぎる。
そんな中、ミス・カラスがハルに手渡した新しい依頼品は、「手鏡」だった。
「今回の依頼人は、少し変わっているわよ。……現世の人間ではなく、『かつて誰かに忘れ去られた、古い屋敷の鏡』そのものなんだから」
「……鏡が、依頼人?」
ハルが受け取った手鏡は、銀の細工が施された美しいものだったが、その鏡面は厚い曇りに覆われ、何も映し出そうとしなかった。
「この鏡にはね、ある少女が一生をかけて封じ込めた『自分の本当の顔』が閉じ込められているの。彼女は世間体を気にする厳しい家で育ち、一生、誰にも本音を見せずに仮面を被って生きてきた。そして死ぬ間際、その本音――『本当の自分』を、鏡の中に置いていってしまったのよ」
「……自分自身の、本当の顔……」
ハルは、他人事とは思えなかった。自分もまた、本当の自分を切り離した「断片」なのだから。
ハルとクロ、そして今回は技術的な知識が必要なため、ツムギも同行することになった。
向かった先は、取り壊しを待つ古い洋館。その屋根裏部屋に、問題の鏡が置かれていた。
「ハル、気をつけて。この鏡の中には、彼女が抑え込んできた数十年の感情が渦巻いている。うかつに覗き込めば、君の存在ごと飲み込まれるよ」
ツムギが警告する中、ハルは鏡の前に立った。
鏡面をそっと拭うと、そこにはハルの姿ではなく、「泣きじゃくる少女」や「怒りに震える女性」、そして「誰かを激しく恋い慕う瞳」が、万華鏡のように激しく入れ替わり立ち替わり映し出された。
「……苦しい。こんなにたくさんの気持ちを、ずっと閉じ込めてきたんだね」
ハルが鏡に触れた瞬間、鏡の中から無数の「仮面」が溢れ出し、部屋中に舞い上がった。それは彼女が人生の場面ごとに使い分けてきた、笑顔の仮面、従順な仮面、冷徹な仮面……。
「うわっ、なんだこのお面パレードは!」
クロが飛び跳ねて仮面を叩き落とすが、次から次へと湧き出してくる。
「ハル! 彼女の『本当の顔』を見つけ出すんだ! それを現世の彼女の墓前……あるいは、彼女が最後に愛した場所へ届けないと、この屋敷ごと想いが腐敗するぞ!」
舞い散る仮面の渦中で、ハルは目を閉じた。
「本当の顔」とは、一体どんなものだろうか? 美しいものだろうか、それとも醜いものだろうか。
ハルは、カフェで見た「自分自身(本体)」の空虚な瞳を思い出した。
あの青年も、きっと何かの仮面を被り続けて、耐えきれなくなって自分を切り離したのだ。
「……飾らなくていい。綺麗じゃなくていい。……君が、君として泣きたかった時の顔を、見せて!」
ハルが叫びながら鏡の奥底へ手を伸ばすと、渦巻く仮面たちが一斉に砕け散った。
静寂が戻った鏡の中に映っていたのは――「ボロボロに泣き崩れながらも、清々しく笑っている、一人の老婦人の顔」だった。
「……見つけた」
ハルがその「顔(想い)」をそっと掬い取ると、手鏡の曇りはすっと晴れ、そこには一点の曇りもない澄んだ景色が広がった。




