硝子越しの残影
その日の依頼品は、「誰にも送れなかった誕生日カード」だった。
ハルとクロは、現世の賑やかな商店街を歩いていた。今回のターゲットは、街の小さなパン屋で働く若い女性だ。
「ハル、あっちだぜ。……おい、聞いてんのか?」
クロが猫の姿でハルの肩を叩く。しかし、ハルの足はピタリと止まっていた。
視線の先には、街角のカフェの大きなガラス窓があった。
「……え?」
窓際の席に、一人の青年が座っていた。
少し乱れた髪、伏せられた睫毛の影。そして、考え事をする時に無意識に指先でテーブルを叩く癖。
それは、鏡を見るよりも鮮明な、自分自身の姿だった。
ハルは息をすることさえ忘れ、その青年を凝視した。
あちらは「生きた人間」としての確かな色彩を持ち、周囲の風景に溶け込んでいる。対して自分は、透き通るような境界線の存在だ。
「……クロ。あの人、僕だ。僕が……あそこにいる」
「……チッ、見つかっちまったか」
クロの声が低く響く。その声には、驚きよりも「ついにこの時が来たか」という苦い諦めが混じっていた。
「ハル、見るな! 追うな! 今のあいつに触れれば、お前の存在は一気に不安定になるぞ!」
しかし、ハルの足は勝手に動いていた。
青年がふと顔を上げ、窓の外――ハルがいる方を見た。
一瞬、視線が交差する。
青年の瞳には、深い「空虚」と「諦め」の色が沈んでいた。彼はハルの姿が見えているわけではないはずなのに、何かに導かれるように、自分の胸元――ハルがペンダントを下げている場所と同じ位置――を、苦しそうに押さえた。
「あ……」
その時、ハルの体が激しいノイズに襲われた。視界が歪み、指先が霧のように透けていく。
「言っただろ! 今のお前は、あいつが切り離した『良心』なんだ。近づきすぎれば吸い込まれて消えちまう!」
クロが人間の姿になり、無理やりハルの腕を引いて路地裏へと連れ込む。
ハルは荒い息を吐きながら、壁に背を預けて座り込んだ。
「……あ、あの人……すごく、悲しそうだった。僕という『心』を切り離してまで、彼は何を耐えてるの……?」
「それを知るのがお前の役目だ。……だが、今はまだその時じゃない。ほら、カードを配るんだろ。仕事をしねえ奴に、答えを知る資格はねえぜ」
ハルは震える手で、預かっていた誕生日カードを取り出した。
自分の正体に対する恐怖と混乱で頭が割れそうだったが、カードから伝わってくる「誰かを祝いたい」という温かな脈動が、ハルをかろうじて繋ぎ止めていた。
(……仕事をしなきゃ。僕は、このために生まれてきたんだから)
ハルたちは、ターゲットの女性が働くパン屋を訪れた。
彼女は、かつて亡くなった妹に宛てて書いたカードを、出すことができないまま「忘れたい過去」として仕舞い込んでいた。しかし、その想いは消えることなく、彼女の笑顔から少しずつ色を奪っていた。
ハルは、彼女が一人で閉店作業をしている店内に、そっとカードを置いた。
カードが彼女の指先に触れた瞬間、店内に優しい花の香りが広がる。
「……あ」
彼女はカードを読み、声を上げて泣いた。けれど、それは悲しみの涙ではなく、ようやく妹への愛を肯定できた、浄化の涙だった。
その様子を影から見守っていたハルのペンダントが、ひときわ強く、澄んだ青色に輝く。
ハルの透けていた指先に、わずかだが確かな「実体」が戻っていた。
帰り道、ハルは先ほどのカフェをもう一度覗いたが、そこにはもう、あの青年はいなかった。
「……クロ。僕、決めたよ」
「何をだ」
「僕を切り離したあの人は、きっと自分の『優しさ』が重すぎて、生きていくのが辛くなっちゃったんだと思う。……だから、僕がたくさんの『ありがとう』を集めて、もっと強くなって……いつか、あの人を助けに行く。半分に割れた心を、もう一度一つにするために」
クロは何も言わず、ただハルの隣を静かに歩いた。
郵便局に戻ると、局長が廊下の奥で待っていた。
「……自分の『核』を見たようだな、ハル」
「……はい。怖かったけど、今は少しだけ、自分がここにいる意味が分かった気がします」
局長は蓄音機の仮面を揺らし、深く頷いた。
「よろしい。……だが忘れるな。想いを取り戻すことは、痛みを取り戻すことでもある。準備をしておきなさい。」




