小説家とAI 第九話
その頃にはもう毎晩のように夜更けになると、書斎から怒声が響いた。
「ちくしょう……! これじゃない!」
机を叩く音、椅子を蹴る音、紙が散らばる音。
そのたびにカグラは煩わしそうに耳を伏せ、リビングの隅で尻尾を巻いて小さく丸くなる。
最初の頃、岸は怯えたように立ちすくんでいた。
けれど、通い詰めるうちに、その怒鳴り声も日常の一部になっていった。
掃除をし、食器を片づけ、時にはカグラを抱いて落ち着かせながら、
朝が来るのをただ待つ。
やがて岸は、帰る時間を失った。
夜が更けても玄関に向かうことはなくなり、
南条の荒れる声を背に、ソファや畳の上で仮眠を取るのが常になった。
何度か帰ろうと玄関に立ったこともある。
だが、そのたびにカグラがすり寄って足を止めさせた。
「にゃあ」
と鳴き、尻尾で靴を押さえつけるようにして、離そうとしない。
見上げる目が、言葉よりも強く「行くな」と訴えていた。
結局、岸は靴を脱ぎ直し、鞄を置いて、もう一晩を過ごす。
そうしているうちに、南条の家に「住み込み」のように入り浸ることが当たり前になっていた。
ある朝、岸は少し少し頬を赤くしながらも、不器用な手つきでシーツを直し台所へ向かった。
「お茶入れますね」
気恥ずかしさを隠すように立ち働く姿は、南条の胸に妙な安堵を残した。
久しぶりに深い眠りに落ちた南条と甲斐甲斐しく動く岸をカグラは棚の上からじっと眺めていた。
灰色の瞳に映るのは、静かに微笑む南条の顔と、まだ温もりを残した岸の横顔。
やがて小さく「にゃ」と鳴いて、その夕から姿を見せなくなった。
翌朝。
岸が目を覚ますと、リビングにも寝室にもカグラの姿はなかった。
餌皿は手つかずのまま、水も減っていない。
「……カグラ?」
岸は慌てて家じゅうを探し回った。
押し入れの奥、ソファの下、洗濯物の影。
ベランダも、風呂場も、どこにもいない。
「先生、カグラが……カグラがいないんです!」
半ば泣きそうな声で南条に訴えた。
南条は机に肘をつき、窓の外を見つめたまま短く答えた。
「……そう」
岸は言葉を失った。
必死に探さなければという思いと、探してももう戻らないのではという不安が交錯する。
けれど南条は、それ以上何も言わなかった。
カグラが消えてから、南条はさらに机に向かうようになった。
白紙を前に座れば、言葉が途切れることなく溢れ出し、
夜明けも夕暮れも意識しないまま、筆は走り続けた。
紙の束は日に日に厚みを増し、キーボードの打鍵音が家の脈動のように響き続けた。
最初のうち、岸は甲斐甲斐しく寄り添った。
背中に毛布を掛け、冷めたカップを片づけ、台所から香ばしい匂いを運んできた。
時にカグラの代わりのように肩を撫で、南条の荒れた息を宥めもした。
けれども、南条は岸の存在をほとんど意識しなくなった。
彼女が食事を差し出しても手を伸ばさず、話しかけても上の空の返事しか返さない。
机の前の姿勢だけがすべてを占め、視線の先には言葉しかなかった。
岸は少しずつ訪れる間隔をあけていった。
最初は二日に一度、やがて週に一度。
「また来ますね」
と笑顔を作りながらも、その足取りはどこか重くなっていた。
そしてある日を境に、彼女も訪れなくなった。




