小説家とAI 第八話
ペン先で何度も文字を刻もうとするが、書きかけのセンテンスはすぐに潰れて黒い染みに変わる。
キーボードに向かえば数行は並ぶ。だが、読み返すと吐き気がするほどの凡庸さ。
「エンポ、続きを書け」
命じても、返ってくるのは滑らかすぎる文章。
正確だ。美しい。だが心臓を打たない。
南条は画面を閉じ、舌打ちをして机を殴った。
カップのコーヒーは冷えきり、小さな波紋が凍りついたように広がった。
あるとき、端末が震えた。
編集の岸さんからの着信。
「先生、来月号の短編企画について──」
「受けない」
南条は即答した。声は低く、鋭く。
岸さんが戸惑って何か言いかける前に、通話を切る。
しばらくして、記者の吉高さんからもメッセージが入る。
新しいインタビューの依頼。
画面に浮かんだ文字を、南条は無言で削除する。
机の上には、受け入れられなかった仕事の通知がいくつも並ぶ。
通知音が鳴るたびに指で弾き飛ばし、ただ白紙と向き合い続ける。
時間が溶けていく。
カーテンの隙間から差し込む光の色だけが変わり、朝も夜も同じように流れていった。
その間ずっと、カグラは部屋の片隅で伸びをしたり、棚の上で欠伸をしたり。
ときおり南条の荒ぶる声を聞いては、気怠そうに耳を動かすだけだった。
それから、時が過ぎた。
南条の机の上には、白紙のノートと未送信の原稿ファイルだけが積み上がっていた。
ペン先はほとんど進まず、キーボードも「Delete」の音しか刻まない。
生活は乱れなかった。
食事はロボが用意し、洗濯も掃除も自動で回る。
カグラの世話は、時折訪れる岸や吉高、あるいはAIの手で賄われた。
だから家の中は整然と保たれ、荒れ放題になることはなかった。
けれど、訪れる二人の目には、別の荒廃が見えていた。
整いすぎたリビングの空気。
機械が磨きすぎた床の反射。
その無機質な光のなかで、南条だけが痩せ、目の奥だけが荒れ果てていた。
岸は湯呑を置くたびに言葉を選び、吉高は笑顔をつくりながらも視線を泳がせた。
どちらも余計なことは口にしない。
ただカグラに視線を落とし、その欠伸や尻尾の揺れにかすかな救いを探していた。
南条はそんな二人の気配を気に留めることもなく、
白紙と画面の前で、ただ時間を削り続けていた。
時間の経過とともに何かが少しづつずれていく。
岸は週に一度は必ず顔を出した。
買い物袋を下げ、差し入れを並べ、カグラを抱き上げては「元気そうですね」と笑う。
テーブルに散らかったノートや紙片をまとめ、冷えたカップを台所に運ぶ。
甲斐甲斐しく立ち回りながらも、南条には何も求めなかった。
ただ「先生」と呼び、隣に座り、気配だけを残して帰っていく。
一方で、吉高の足は次第に遠のいていった。
最初の頃は明るく「またお話を聞かせてください」と訪ねてきたが、
南条が白紙と睨み合う姿を前にすると、言葉を失ってしまう。
メモ帳を開くこともなく、所在なさげにコーヒーを飲み、
やがて「また連絡しますね」とだけ言って帰る日が増えた。
やがて連絡は途絶えた。
南条の傍らに寄り添うのは、もう岸と、それを迎え入れるカグラだけだった。
整えられた部屋の中で、
だが確かに何かが荒れ果てていくのを、一人と一匹は感じていた。




