小説家とAI 第四話
机の上では、エンポが生成したエッセイの文字列が、まだ淡々と流れていた。
朝の光を描いたはずの文面も、いまはただ無機質な記号の並びにしか見えない。
南条は静かに息を吐き、岸に電話をかけた。
「すみません、少し事情がありまして。原稿、しばらくお待ちいただけますか」
岸の落ち着いた返事が返ってくる。その声を聞き終えてから、通話を切った。
部屋の中は、いつも通り静かだった。
ロボの稼働音、カグラの寝息、どれも変わらない。
けれど、その静けさの底に、妙な空白が滲んでいた。
南条は椅子から立ち上がり、寝室へ向かう。
黒いバッグを取り出し、着替えといくつかの書類を放り込む。
最低限の荷物だけ。それ以上は必要なかった。
ようやく玄関に立ち、コートに腕を通す。
外気に触れる前から、旅の重さが肩にかかっている気がした。
向かう先は、母が暮らしていた村だ。
都会を出てから、バスに揺られて何時間も経った。
ビルの群れが遠ざかるにつれて、窓の外の景色は少しずつ色を失っていく。
整えられた街路樹が、やがて雑木林に変わり、コンビニの灯りも途絶えていった。
車内には、エンジン音とときおり響くアナウンスだけ。
本を開く気にもなれず、南条は窓に額を寄せて流れる景色を眺めていた。
時間はただ重く過ぎていく。
乗り継いだローカルバスが村に着いたころには、すでに夕暮れになっていた。
湿った土の匂いと、遠くから響く鐘の音。
幼い頃に一度だけ訪れたはずの場所だ。
南条はバスを降り、深く息を吸った。
目の前に広がるのは、記憶のどこかで眠っていた景色だった。
村に降り立った瞬間、胸の奥がざわついた。
バス停の前の石垣、曲がりくねった細い路地、軒先に吊るされた風鈴。
どれも見覚えがある気がした。
歩くほどに記憶が呼び起こされる。
この角を曲がれば……たしか、あの木がある。
確信に近い感覚に突き動かされるように足を進める。
そしてたどり着いた場所に、木はあった。
だが――それは、どこにでもある古びた木だった。
幹はひび割れ、苔が広がり、ただそこに立っているだけ。
「……ただの木じゃないか」
そう呟いて、少しだけ肩の力が抜けた。
記憶の中の白さはどこにもなかった。
何かがっかりしたような、そうでもないような気持で引き返す。
バス停の前には、小さな商店と年季の入った掲示板が並んでいた。
降り立った南条を、数人の村人がちらりと見る。
「ご苦労さまです」
「遠いところを……」
会釈とともに、誰とも知れぬ人々が声をかけてくる。
南条は軽く頭を下げ、挨拶を返すしかなかった。
母の顔も覚えていないのに、見知らぬ人々から「お悔やみ」を受ける。
それは奇妙に遠い感覚だった。
集会所を兼ねた古い建物に入ると、線香の匂いが鼻を刺した。
薄暗い部屋の奥、白い布で覆われた棺が置かれている。
南条は足を止めた。
その向こうに、母が眠っていた。
棺のそばには、母の姉妹だという女性たちが控えていた。
年齢のわりに張りのある声で、弔問客への挨拶や香典の受け取りを手際よくさばいている。
「遠歩さんですね」
ひとりがこちらを見て、軽く会釈した。
「大変でしょうけど、今日は私たちで段取りを進めますから」
南条は少し戸惑いながらも、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
本来なら喪主として前に立たなければならないのだろう。
けれども何をどうすればいいのか、南条にはよくわからなかった。
母の顔すら思い出せない。
代わりに差し伸べられた親戚の手際にただ任せるしかなかった。
弔問の合間を縫って、南条は棺の前に立った。
親戚のひとりが布をそっとめくる。
現れた顔は、見知らぬ老女のものだった。
深く刻まれた皺、痩せこけた頬、白髪に縁取られたこめかみ。
冷たさのせいか、表情はすでに石のように固まっていた。
これが母だ、と言われても、どこにも記憶と結びつくものはなかった。
幼い頃に別れたきり、映像としての顔すら残っていない。
南条はしばらく見下ろしたまま、何も思い浮かばなかった。
悲しみでも、懐かしさでもなく、ただ「他人の死に顔を見ている」という実感だけがそこにあった。
ただ、その「他人」と血が繋がっているという事実だけが、妙に冷ややかに胸に居座った。




