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小説家とAI 第十五話

彼女はあの日から、二週間ほどは俺の家に通い詰めた。

昼も夜も関係なく顔を出しては、「先生」と呼びかける。


だがその瞳の奥には、まだ『見張り塔の男』の残滓が揺れていた。

夢にうなされるように、何度も同じ場面を口にし、感情の熱に取り憑かれていた。


俺は苦笑して答えるしかなかった。



「まだだな、岸さん。もう少し落ち着かないと」


三週目のある晩、彼女はついに強引に押しかけてきた。



「先生を一人にできません」


そんな言葉とともに鞄を持ち込み、結局そのまま俺の家に居座った。


一緒に食卓を囲み、並んで眠り、カグラのいないリビングで短い会話を重ねるうちに、

彼女の声の熱は次第に和らいでいった。


まだ夢に囚われてはいるが、俺の隣にいることでようやく呼吸を取り戻したのだろう。



さらに一週間ほど、同じ屋根の下で時間が過ぎた。



ある夜、俺は静かに机の引き出しから一冊を取り出した。

表紙には、エンポが書き上げた『空の墟』の文字がある。



俺は余計な説明をせず、岸さんの前にその本を置いた。



「……読んでみてくれ」



誰が書いたのかも、どこから生まれたのかも語らずに。

ただ黙って、そのページを開かせた。



彼女は黙り込んで、『空の墟』の頁を追っていた。

指先が震えるように文字をなぞり、息を詰めるたびに、室内の空気が張りつめる。



俺はその姿を眺めながら、そっと立ち上がった。

棚の奥からガラスのポットを取り出し、湯を注ぐ。


紅茶の香りがふわりと広がると、読書の邪魔にならないように机の端へ静かに置いた。



照明の角度を少しだけ直し、カーテンを手で軽く揺らす。

紙面に落ちる影が薄まると、岸さんの視線はますますページに吸い込まれていく。


俺は椅子に戻ることもなく、室内をゆっくり歩き回った。

足音を殺しながらも、どこか楽しげな仕草で。



――まるで、カグラがよくやっていたように。

人が夢中になっているとき、その周囲をうろうろしては、居心地を少しだけ整えてやる。



彼女は気づかない。


ただ本にのめり込み、頬にわずかな熱を帯びている。



俺はその横顔を見て、唇の端を上げた。

にやりと笑いながら、紅茶の湯気の向こうに立ち尽くす。



何も言わない。

だが、胸の奥には確かな愉快さが滲んでいた。



どれほどの時間が過ぎたのか、俺にもはっきりとはわからなかった。

時計を見れば、とっくに夜を越えていたし、気づけばまた朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。


彼女は一度も席を立たず、ひたすらページを追っていた。

俺が差し出したサンドイッチや菓子を無意識に口へ運び、紅茶を啜るたびに手元から目を離さない。


ただ夢中で、ただぶっ通しで、文字を飲み込み続けていた。



十時間以上、ほとんど休みもなく読み続け――

最後の一頁に辿り着いたとき、彼女は深く、長い溜息を吐いた。



本をそっと閉じ、両手で表紙を抱え込むようにしたあと、

肩がわずかに震え、ふっと笑ったように息をもらす。



「……終わりました」


その声はかすれていて、眠気も疲労も滲んでいたが、

その瞳だけは冴えたまま俺を見ていた。



彼女は両手で本を抱えたまま、まだ呆然とした表情を浮かべていた。

瞳は潤み、頬には熱が残っている。


言葉が出ないのだろう。



俺は少し身を乗り出して、その顔を覗き込む。

口元に笑みを浮かべ、静かに言った。



「……面白かっただろう」



彼女は小さく頷き、唇を震わせながらようやく笑った。

その仕草を眺めて、俺は湯気の向こうでゆっくりと背もたれに体を預けた。



岸は最後のページを閉じると、しばらく身じろぎもせず固まっていた。

肩で呼吸をしながら、やっとの思いで俺を見た。



「……先生、これはどういうことなんですか」


声はかすれて震えている。



「『見張り塔の男』を読んだとき、もう立っていられないほど揺さぶられました。

あれ以上のものなんて、この世に存在しないって……本気でそう思ったんです」


彼女は両手で本を抱きしめ、額を押しつけるようにして吐き出した。



「なのに……どうして次から次に、こんなものを読まされるんですか。

私、もう追いつけません……嬉しいのか、苦しいのか、わからない……」


瞳の奥で涙と笑みが同時に揺れる。

感動の熱と、混乱の苛立ちが入り混じった顔で、彼女は机に突っ伏すように頭を抱えた。



「一体これは……なんなんですか、先生……」


俺は黙ってその様子を見つめ、ゆっくりと笑った。

彼女をここまで揺さぶったのなら、それで十分だった。



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