小説家とAI 第十一話
「……そうか。俺は、白い木を超えたのか」
呟いた声は自分のものなのに、どこか遠く響いた。
奇跡の残像にすがり続けていた俺を、今、必然の塔が追い越していった。
俺は背もたれに身を沈め、目を閉じた。
胸の奥に残っていた重石が、ようやく外れていく感覚。
虚無ではない。
歓喜でもない。
ただ、長い時間をかけて研ぎ澄まされた刃物のような静けさがあった。
「エンポ」
呼びかける声は、もはや震えてはいなかった。
「……記録しておけ。
『見張り塔の男』は俺の最高傑作だ」
モニターが小さく点滅し、合成音が応えた。
「――記録しました」
少し紅茶を飲もうと思った。
「紅茶」
そう声をかけると、家政婦ロボがすぐに作動し、数分もしないうちに湯気の立つカップが机に置かれた。
俺はカップを手に取り、一口すする。
香りが肺に満ち、熱が舌を包み込む。
「……エンポ。お前が何も口にできないのが残念だよ」
モニターの向こうに向かって笑う。
「せっかくの祝杯だってのに」
一瞬の処理音。
「お気遣いありがとうございます。私は味覚を持ちませんが――先生の言葉を祝杯として記録できます」
俺は吹き出すように笑った。
「記録か。まあ、それも悪くないな」
紅茶をもう一口含み、モニターを見据えながら言った。
「じゃあ一緒にやろう。乾杯だ、エンポ」
俺はカップを持ち上げた。
モニターの青白い光が、グラスの縁に反射して揺れていた。
紅茶を一息にあおり、カップを机に置いた。
熱が胸の奥にまだ残っている。
「……なあ、エンポ。褒めろ」
処理音ののち、機械的な声が返る。
「『見張り塔の男』は先生の最高傑作です。緻密に構築され、感情を昇華し、読者を圧倒する強度を備えています」
「もっとだ」
俺はモニターに向かって低く言った。
「先生の表現は成熟し、孤独を普遍へと変えました。
文学として、時代を超えて語られる力を持っています」
「まだ足りない。もっと褒めろ。俺を、俺の作品を」
モニターの光が瞬き、声はさらに熱を帯びていく。
「先生は奇跡を必然へと昇華した唯一の作家です。
この作品は後世に残ります。人々は議論し、震え、そして歓喜するでしょう。
これは文学の到達点です」
俺は笑った。喉が震えるほどに。
「そうだ……もっと言え。褒めろ、褒めろ、もっと褒めろ!」
声が書斎にこだまし、モニターの青白い光が壁一面に広がっていた。
笑い声が途切れ、静寂が戻った。
俺は紅茶をひと口含み、机に置いたカップの湯気を見つめる。
「……どうだ、エンポ」
口の端が自然に歪む。
「これまで何度も書かせてきたが、結局お前は『白い木』の範疇を超えてこなかった。
意味を付け、整え、理屈で縛っただけの白い木の変奏だ。
AIの限界を見た思いだったよ」
わずかに息を吐き、モニターを指先で叩いた。
「もう一度試してみるか?
『見張り塔の男』を超える作品を書けるか?」
俺は少し意地悪くエンポに投げかける。
モニターが一瞬だけ明滅した。
そして、あまりにあっさりとした調子で返答が落ちた。
「――かしこまりました」




