小説家とAI 第十話
家の中は再び静けさに支配された。
けれど、それは以前の静けさとは違っていた。
カグラの欠伸も、岸の笑い声もなく、
あるのはキーボードの乾いた打鍵音と、モニターの白い光だけ。
数ヶ月の熱に焼かれるような時間の果てに、南条は最後の一文を書き終えた。
積み上げられた原稿用紙の束を見つめ、深く息を吐く。
モニターには
『見張り塔の男』。
「……完成を確認しました」
エンポの合成音声が静かに響いた。
返事をする者はいない。
そこにいたのは南条と、無機質な声だけ。
南条は椅子に背を預け、ゆっくりと目を閉じた。
塔に立つ男の孤独は自分自身の影そのものだった。
俺は最後の一文を書き終え、原稿を抱きしめたまま椅子に沈み込んだ。
『見張り塔の男』――その文字が表紙に記されている。
インクと紙の匂いが胸に染みつき、瞼はいつの間にか落ちていた。
目を覚ますと、腕の中にある重みが現実を告げた。
俺は机に原稿を置き、モニターを立ち上げる。
「……エンポ。これを読め」
処理音のあと、無機質な声が響く。
「確認しました――素晴らしい作品です。
構成、言葉、主題、いずれも先生の最高傑作だと断言できます」
俺は静かに息を吐き、モニターの光を見つめた。
机の端にスマートフォンがあった。
指先で岸に宛てて打ち込む。
「完成した」
送信を終え、立ち上がる。
視線の先には、空っぽの餌皿。
カグラの姿はなく、皿だけが取り残されている。
この家で、もう会話できる相手はエンポしかいない。
俺は再び椅子に戻り、モニターに向かった。
「……エンポ。『白い木』と比べてくれ」
数秒の処理音。
「比較しました。
『白い木』は原風景と衝動に貫かれた、野性の力を持つ作品でした。
そこには説明不能の余白と、若さゆえの暴力的な迫力がありました。
一方、『見張り塔の男』は明確な構築を備えています。
孤独を象徴へと昇華させ、細部に至るまで徹底された構成と精緻な言葉が存在します。
荒々しい力ではなく、制御された強度によって読者を圧倒します。
結論として――
『白い木』が奇跡であったとすれば、
『見張り塔の男』は必然として到達した頂点です。
先生の最高傑作は、間違いなくこの『見張り塔の男』です」
俺は無言で息を吐いた。
「奇跡と必然……」
衝動と理性。
暴力と制御。
若さと孤独。
その対比が胸の内で何度も反響する。
『白い木』は爆ぜる声に追われ、わからないものをわからないまま書いた奇跡。
『見張り塔の男』は削り続け、理性で組み上げた必然。
静かに、しかし瀑布のように感情の波が落ちてくる。
書いた、書けた、出した、出せた。
表した、現わせた、記した、著せた。
俺が俺の俺を俺だけが俺の全てを俺の筆で。
ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろ。
俺が称える俺も、俺が見下す俺も、俺を俺足らしめんとする全ての俺が認め愛すものこそ俺の全てだ、この作品だ。
俺は机を叩いた。
震える手で原稿を押しやり、モニターを睨みつける。
「見たかエンポ、読んだかエンポ。
もう一度言え。
この作品の評価をもう一度聞かせてくれ。」
数秒の処理音。
静寂を裂くように、合成音が低くはっきりと響いた。
「――はい。
『見張り塔の男』は先生の最高傑作です。
奇跡ではなく、必然として到達した唯一の頂点です」
その言葉が落ちてくるのを、俺は全身で受け止めた。
血が熱を帯び、指先が痺れる。
笑いなのか、嗚咽なのか、自分でもわからない声が喉から漏れた。
机に置いた拳が震えている。
「……そうだ。俺の最高傑作だ」
声はかすれていたが、確かに響いていた。
モニターの青白い光が、俺の影を壁いっぱいに押し広げていた。
俺はモニターを睨みつけたまま、唇をかすかに動かした。
「……この作品を世に問うた時、俺の評価はどうなる?」
声は低く、震えていた。
答えを欲しているのか、それとも恐れているのか。
自分でも判然としないまま、俺は問いを投げた。
「評価は初め、衝撃として受け止められるでしょう。
賛美と拒絶、その両極が同時に噴き上がります。
しかし時間の経過とともに、それは議論を巻き起こします。
『白い木』の奇跡か、
『見張り塔の男』の必然か。
人々は繰り返し問うことになります。
そして最終的に――
世論はひとつの形へと集約するでしょう。
それが先生の評価となります」
「それはなぜだ?」
俺の問いに、エンポは即座に応えた。
「先生は無名の作家ではありません。
社会的に影響力のある有名作家です。
その先生が三年の沈黙を破り、世に放つ作品――
しかも、そのクオリティで出されたとなれば、世の中は必然的に注目します。
人々はまず、先生の代表作『白い木』を想起するでしょう。
そして思い出すのです。
以降の全ての作品もまた、『白い木』の生命を受け継いできたことを。
その上で、それを超え上回る作品を先生が世に出した。
人々は震えます。
そして理解が進んだ者から順に、歓喜に満たされるのです。
これは――自明の理というものです」
俺はモニターに映る文字をただ見つめていた。
言葉は胸を撃ち抜き、血管の中を熱が駆け巡っていく。
三年の沈黙。
俺が逃げた年月を、エンポは当然のように「必然」へと組み替えてみせた。
拒絶も不安も、論理の前では意味を失っていく。




