静かな再訪、揺れる予感
アルザリアの昼下がりは、どこか忙しない。
高空には浮遊式の運搬ゴーレムが軌道を描き、路地では魔術具を背負った旅商人が何かと叫んでいる。
一歩通りを外れれば、蒸気と魔力の混ざった匂いが漂い、小型の掃除ゴーレムが地面をカリカリと磨いていた。
ゼルは小さなパン屋の店先で、焼きたてのチーズパンをひとつ受け取る。
紙袋の中はほんのり暖かく、香ばしい香りが鼻をくすぐった。
「……やっぱ、ここのパンが一番だな」
彼はそう呟いてから、街の中央区へと足を向けた。
今日は特に大きな予定もなく、午前のうちに受けた雑用依頼も終えている。装備の点検も済ませたし、杖の制御核も調整した。
だから、ほんの気まぐれでギルドに立ち寄った――それだけのはずだった。
ギルドの掲示板は、いつも通りの賑わいを見せていた。
高ランクの依頼は上段に、一般向けの依頼は下段に。紙の色、文字の太さ、魔術刻印の有無で分類され、見慣れた風景がそこにあった。
(何か……軽めの、面白そうなのあるかな)
ふと、掲示板の端。貼り出されたばかりの一枚の紙が目に留まる。
【依頼内容】指定物資の小規模搬送
【目的地】キアラ魔術店
【備考】店舗の構造に注意。対応不要、渡すだけ。
【報酬】銀貨3枚相当(物資内容に応じて変動)
※受領希望者はカウンターまで
「……また、あの店の依頼か」
紙の端に指を滑らせながら、ゼルは小さく笑った。
妙な空気を持つ場所。けれど、不思議と嫌な感じはなかった。
「前に行ったとき、変わってたけど……悪くはなかったしな」
彼はそのまま掲示板を離れ、カウンターへと足を向けた。
受付の女性職員が彼に気づいて微笑む。
「また来たの? さっきの依頼、見た?」
「うん。ちょうどいいタイミングだったし、受けるよ。……例の、あの店のやつ」
「ふふ、やっぱり気になるよね。今回は軽めの配送みたい。変な魔術具とかは入ってないから安心して」
「……むしろ、普通の荷物の方が怖いかもしれないな、あの店だと」
そんな他愛のないやり取りの中にも、ゼルの中には小さな期待と、かすかな高揚感が芽生えていた。
また、あの店に行ける――そう思った瞬間、背筋を駆ける冷たい風が、どこか懐かしく感じられた。
ギルドを出て、ゼルは見慣れたはずの街を歩く。
空には浮遊搬送ゴーレム。石畳には移動魔術車。
通りを行き交う人々の衣装も、どこか浮遊的な布地の重ね着や、風を孕むようなケープ、術式刺繍が施されたローブが多い。
「アルザリアって、やっぱり……いかれてるよな」
ゼルは苦笑しながらも、この“魔術の理が日常にまで浸透した”都市にすでに慣れつつある自分を感じていた。
路地を抜け、さらに人通りの少ない通りへ。
舗装された道が切れ、石畳の隙間に草が生え始める。誰も立ち止まらず、目も合わさず、その空間を通り過ぎていく。
(たしか、こっちだったよな……)
前回は、道に迷うことに精一杯で気がつかなかった。
けれど今、改めて“そこ”へ向かおうとした時――ゼルは、はっきりとした違和感を感じた。
まわりの建物は、どれもひと癖もふた癖もある。
屋根が浮いている。窓が渦を巻いている。壁が反時計回りにねじれている。
そんな中で、唐突に現れる――“普通の家”。
石壁。木枠の窓。苔のついた三角屋根。歪みも浮遊もない、ごく当たり前の民家のような建物。
「……いや、逆に……なんだこれ……」
そのあまりの“自然さ”が、この魔術都市において不自然極まりない。
だからこそ、ゼルの中に記憶がはっきりと結びつく。
(あのとき……たしかに、ここだった)
木の扉は、前と同じく静かに佇んでいる。
読めない言語で彫られた看板。色あせた掲げ札。そして、どこか“都市の時間”から取り残されたような静けさ。
(本当に……変わってないんだな)
それが逆に、妙に安心感を与える。
ゼルは胸の奥に微かなざわめきを覚えながら、そっと扉に手をかけた。
触れた瞬間、木の感触が生き物の皮膚のように柔らかく感じられた。
けれど、それでも彼はもう、ためらわなかった。
「……失礼します」
ギィ、と扉が静かに開く。
魔力の濃度が、ほんの少しだけ違っていた。
空気の層が、彼を“この街とは異なる場所”へと滑り込ませるように変わっていく。
扉をくぐった瞬間、ゼルの視界が色彩を変える。
ほんの一歩、足を進めただけなのに――そこは、別の世界だった。
天井は高く、窓から射す光はどこか“形”を持っているように感じられる。
棚の上には所狭しと並んだ魔術具たちが、まるで呼吸するかのように微かに動いている。
蒸留器のような形をしたガラス管が勝手に液体を注ぎ、浮遊する砂時計が“逆再生”されている。
そして――あの、とことこ歩くカップ。
前回同様、卓の上に向かって足音を立てながら、ちゃぶ台のような木のテーブルに登っていく。
その底からは、ふつふつと、金色の液体が湧き出ていた。
「……やっぱ、変な空間だよな、ここ」
ゼルが呟いた瞬間、背後からゆるやかな声が降ってきた。
「へぇ、二度目でも変って思うんだ。じゃあまだまだだねぇ、君」
その声に、彼の肩がわずかに跳ねた。
奥の部屋から、眠たそうな目を擦りながら現れたのは、前回と変わらぬ姿――
薄い灰色のローブに、乱れた長い髪。素足のまま、淡く光る床を歩く女性。
キアラ。
「……こんにちは、また来ました。配送依頼で」
「あー、うんうん。荷物、そこ置いて。ありがとね」
キアラは軽く手を振ると、ゼルが持ってきた包みを指さした。
どこかゆるい空気が漂っていて、それがこの空間と妙に調和している。
ゼルは無言で荷物を卓に置く。その横では、例のカップが湧き出すお茶を静かに満たしていた。
「そういえばさ、」
キアラが目を細めながら言った。
「……君、ちょっと表情が変わったね。魔術、少しは深く見えるようになってきた?」
「え? いえ、そんな……ただ、慣れただけかもしれません」
「ふーん……まあ、いいけど」
カップがくいっとゼルの前に滑り出す。金色のお茶からは、ほんのりと甘い香りが立ち昇る。
ゼルはしばし迷い――一口だけ、飲んでみた。
(……あ、前より飲みやすい)
「今日はさ、君が来る気がしてたんだよね。なんとなくだけど」
「予知とか……じゃないですよね?」
「んー、違う違う。ただの気まぐれ」
肩をすくめたキアラは、くすくすと笑った。
その姿を見て、ゼルの中の何かが、前回よりも少しだけほぐれているのを感じた。
奇妙で、不思議で、どこか居心地の良い――そんな、魔術店での時間が、ゆるやかに流れ出していく。
ゼルは湯気の立つ金色の茶を一口飲みながら、部屋の中を見渡した。
前回は気が張っていて気づけなかった――いや、見ないようにしていたのかもしれない。
この空間には、どこを見ても“当たり前”がない。
「……あれ、あの砂時計……」
彼の視線が止まったのは、浮遊している砂時計のような器具だった。
ただし、砂は流れていなかった。上にも下にもなく、中央にだけ集まっていて、まるで時間そのものがどこにも向かっていないような、不気味な静止を保っている。
「……壊れてる?」
ゼルが小さく呟いた声を拾うように、キアラが頬杖をついたまま微笑んだ。
「ううん。“忘れちゃった”の」
「え?」
「時間を。“忘れちゃった”砂時計。だから流れないの」
ゼルはもう一度、その砂時計を見た。
確かに、流れている感覚がまったくない。というか、あの“中央”に留まっている砂が、ほんの少し震えているようにも見えた。
「……つまり、時間を止める魔術具?」
「ふふっ、そう。……でもね、ちょっと使うのにはコツがいるよ」
キアラは指をくるりと回して、意味ありげに付け加える。
「“自分の時間”を手放す勇気があるかどうか、ってね」
そして、わざとらしく間を置いて――にやっと笑った。
「使ってみる?」
「……やめてくださいよ」
思わず身を引くゼルに、キアラは楽しげにくすくすと笑った。
「冗談だよ、たぶん」
「“たぶん”って言いましたよね、今」
「言ったっけ?」
カップがくいっとゼルの前に滑り出し、おかわりが自然と湧き始める。
その温かさと、甘い香り。あいまいな時間が、まるでこの空間だけ緩やかに流れているようだった。
「今日は、それだけ? 荷物だけ置きに来た?」
「うん……まあ。でも、ちょっとだけ、寄りたかったのかもしれません」
「ふうん」
それだけで、キアラはなぜか満足そうに微笑んだ。
奇妙で、不思議で、でもどこか懐かしい。
そんな場所で、ゼルは再び、“普通ではない日常”に足を踏み入れた。
金色の茶がカップの中で揺れる。
静けさと香りに包まれたキアラ魔術店の卓に、ゼルは小さく吐息をもらした。
「最近なんか……伸びてないなって、気がするんですよね。魔術の」
その言葉に、カップを片付けていたキアラがちらりと目線だけを向けた。
声もトーンも、変わらない。
「ふーん。魔術って、考えれば考えるほど足元見えなくなる時あるからねぇ」
「でも、壁ってわけでもなくて……ただ、進んでる実感がないっていうか」
「そういうの、気づけるのは悪くないわよ」
キアラはそう言いながら、卓の上の古い羊皮紙の束を手に取る。くるりと一枚めくって、目を細めた。
「ねぇ、ちょうど素材が切れてるのよね。街に、ちょっと買いに行ってくれる?」
「……え、素材って……修行の話をしてたんですけど」
「うんうん、してたしてた。だからこそ、ね」
キアラはくすっと笑って、紙をゼルに押し付ける。
「こういうのって、街の反応を見たり、素材の手触りを確かめたり――感覚を広げるのにちょうどいいの。気づいてないだけで、そこに魔術の“外側”があるのよ」
「……なんか、納得しかけるのが悔しい」
「ふふ、じゃあ頑張って。道に迷ったらそのへんの猫にでも聞くといいわよ」
「そんな魔術猫いませんよ」
「いるかもよ?」
ひらりと手を振るキアラに見送られながら、ゼルはため息まじりに店を出た。
昼下がりの魔術都市を、ゼルは歩いていた。
最初の目的地は、街の西側にある植物屋《緑の揺籃》。
店の前に立つだけで、空気が香草の匂いに満ちてくる。
扉を開けると、棚から吊るされた葉や茎、奇妙な蔓植物がゆるやかに揺れていた。
「いらっしゃ――ってあんた、見ない顔だね。若いのに、変わった素材ばっかり書いてきたじゃないか!」
奥から現れた店主のおばあさんが、ゼルの持つ紙束を覗き込む。
眉をぴくりと上げた後、くつくつと笑った。
「……あー、あんた、もしかして」
「え、あ、あの、キアラさんの――」
「やっぱりキアラさんのお使いかい! だったらこれ、ついでに持っておいき!」
おばあさんは嬉しそうに、紙束には載っていない小さな花束を包んで渡してきた。
「うちもよく世話になってるからねぇ。あの人、変だけど、悪い人じゃないよ。ちゃんと届けておくれよ?」
「は、はい……ありがとうございます」
ゼルは、軽く頭を下げて店を出た。
(変な人……か。うん、まあ、否定はできない)
次の目的地は、街の東にある鍛冶屋《黒鉄の炉》。
店の前に立つと、鉄の焼ける音と、魔力による炎の揺らぎが聞こえてきた。
中へ入ると、屈強な職人が無言で睨んできた。
「いらっしゃい。……で?」
ゼルは紙束を差し出した。
「これにある素材を……」
「ねぇよ。そんなもん売ってねぇ。他を当たれ」
「……キアラさんが、ここでならあるって――」
その名前を出した途端、職人の動きが止まる。
「キアラさんの、使い?」
「……はい」
しばらくの沈黙の後、職人は鼻を鳴らしながら作業台の下をガサガサと探った。
「まったく、あの人は……。ほら、持ってけ。代金はいい。そもそも売りもんじゃねぇからな」
金属とは思えないほど軽い――だが魔力が濃密に滲む小片を渡され、ゼルは思わずそれを見つめた。
(……なんだこの、妙な温かさ)
「お前、あの人の弟子か?」
「いえ、別にそんな……」
「ふーん。まあいいや。持ってけ」
ゼルは二軒分の素材を手に、再び街を歩き出した。
その足取りは、ほんの少しだけ軽くなっていた。