深き路、浅き願い
──魔術都市アルザリアの朝は、何処か歪に始まる。
今日も、空は不定形の蒼さを見せていた。
あちこちで風が吹き、言葉を持つような音を運んでくる。通りすがりの自動魔術具が小さな踊りを披露し、空中を浮遊する販売ゴーレムが新作の饅頭を勧めてくる。
「昨日の泥は……洗濯し損ねたな……」
ゼル=サイレスは軽く伸びをしながら、冒険者ギルドの受付を抜け、裏手にあるダンジョン接続口へと歩を進める。
アルザリアでは、ダンジョンはギルドの真下――つまり都市の中心を“食む”ように存在している。
受付で受け取った依頼はこうだ。
【依頼内容】浅層ダンジョン内、霊草《眠露花》の採取
【報酬】中級魔核1つ相当(換算)
【階層】浅層 第二〜第三階層推奨
【備考】発光する小花、夜間に特に鮮やか。採取時は魔力抑制を推奨。
ギルド地下、古びた鉄扉を抜けた先は、かすかな冷気と重たい空気に包まれた異空間だった。
浮遊する光珠が天井に散らばり、一定の間隔で柔らかな光を放っている。そこは、地下迷宮《地底口》――自然発生し、都市の足元にぽっかりと開いた深き口。
ゼルは腰の補助杖《風導の杖》を手に取り、空気を吸い込む。
(まずは探知と浮遊補助を……)
構築と展開のイメージを明確にしたのち、彼は低く詠唱を始めた。
「流れろ、目に見えぬ輪。風の巡る道を刻め。
我が足を支え、道なき路を照らせ──《風環・ウィンドリング》」
杖の先が淡く光り、空気が指先にまとわりつく。風が周囲を包み、微細な気流の変化を感じ取ることで、目に見えない罠や空間の歪みを察知する。
さらに、足元がわずかに浮き上がる。正確には、空気が地面との間に緩衝層を作っているのだ。
これにより移動時の疲労が減り、足音も立たない。
「よし、行こうか」
第三層へ向けて階段を下りながら、ゼルは壁の苔や刻印を観察する。
石に浮かぶ幾何学的な紋様は、まるで古代の魔術理論が自己主張しているかのようだ。風が鳴く。耳元で誰かが囁いた気がして、彼は少しだけ足を止める。
浅層とはいえ、ここもまた“異界”だ。
そして、“理”は常に、彼らを試している。
第三層。そこは苔むした岩と魔力霧が静かに流れる空間だった。
湿った空気が肌にまとわりつき、淡い青光の粒が漂っている。
ゼルは足元の感触を確かめながら、目的地へと慎重に進む。
岩の割れ目から生えた群生。そこに、淡い光を放つ小花がいくつも揺れていた。
「眠露花……あれだな」
魔力反応を抑える術式を簡易展開。息を整え、内から魔力を引き下げる。
手のひらにわずかな冷気が走ると、魔力が周囲に干渉する気配が消えた。
そっと花に触れた瞬間──
ずるっ。
聞き慣れない、湿った音。
ゼルは即座に振り返る。
岩陰、ぬるりと動く長い影。光の下に現れたそれは、三メートルほどの蛇――青黒い鱗と淡い眼光、微かに霧を吐く口元。
「……マグルス、か……ッ」
【霊喰い蛇・マグルス】。眠露花の発光に引き寄せられる低階層魔物。
第三層では“時々出るやつ”程度だが、攻撃の速さと鋭さは油断ならない。
(知識はある……でも、動きは見てない。舐めたら、やられる)
ゼルは足を引き、杖を構えた。
蛇が突っ込んでくる。咄嗟に風の術式を再構築。
杖先に風を纏わせ、空間に圧を加える。
──滑るように跳ぶ。風を脚に巻きつけ、地を蹴った。
すれ違いざまに尻尾が地面を薙ぎ、破片が飛び散る。
「……っ、速ぇな……!」
ゼルは一度距離を取り、蛇の動きを観察する。
一定のリズムで攻めてくるわけではない。魔力の動揺に合わせて、突進のタイミングがズレる。
(なら……次の突進に、合わせるしかない)
右に跳び、岩壁を蹴る。その瞬間、蛇がまた突っ込んでくる。
ゼルは風の補助で体を翻し、狭い空間を螺旋状に跳ねる。
そして――
詠唱を始めた。
「燃えろ、焦熱の脈。刃にして振り下ろすべし。
灼けよ、揺らめきの牙──《火裂・フレイムファング》!」
杖先から赤熱の閃光が走る。牙の形をした火線が蛇の頭部を正確に貫いた。
空気が焼ける匂い、鱗が焼け弾ける音――そして、マグルスは地面に崩れ落ちた。
「……ふう、やっぱ実戦は……気疲れするな」
ゼルは額の汗を拭い、蛇の体から小さな魔核を取り出した。
花の採取を再開しながら、手帳に軽くメモを走らせる。
『マグルス、反応速度に注意。眠露花近辺は警戒要』
しばらくして、霧もわずかに薄れた。
ゼルは花を包み、静かに帰路につく。空は見えないが、どこか“外の空気”を感じる気がした。
その背中に、ダンジョンの深き“理”が小さく囁いた。
地下迷宮から戻ると、空気が一気に軽くなる。
ギルドへと繋がる石階段を登りながら、ゼルは深く息を吸い込んだ。
湿り気と鉄臭さを帯びたダンジョンの空気とは違い、アルザリアの地上は独特の魔力の匂いが混ざった乾いた風が吹いている。
「……はあ、やっと戻った……まだまだ慣れないな……」
軽く肩を回しながら、ゼルはギルドカウンターへ向かう。
昼下がり、ギルド内は比較的静かで、数人の冒険者が談笑したり依頼掲示板を見たりしているだけだった。
カウンターの奥で書類をまとめていた職員が、ゼルに気づいて顔を上げた。
「おかえり、ゼルくん。早かったね。依頼の方、どうだった?」
「眠露花はちゃんと採れたよ。あと……マグルスが出てきたけど、なんとか」
「わっ、それは大変だったね。あいつ、よく出るけど、動きが読みにくくて嫌なんだよねぇ」
職員はゼルが差し出した布包みを受け取り、内部の花と魔核を丁寧に確認していく。
手際よく照合札を当てながら、にこりと笑った。
「はい、間違いなし。報酬の魔核、ちゃんと換算して渡すね。中級一つ、で合ってる?」
「うん、たしかその条件だった」
ゼルが頷くと、職員は手元の術式板に魔力を流し、小さな魔核入りのケースをカウンターに滑らせてきた。
「いつも通り丁寧な仕事、ありがとね。あ、そうそう――」
彼女が思い出したように声を潜めた。
「この間また、“例の魔術店”から依頼、出てたよ?」
「……キアラの?」
「そうそう、あの奥の……ちょっと変な空間のある店。普通の配送依頼だったけど、やっぱり他の人はあまり受けたがらなくてね」
ゼルは一瞬だけ目を細めた。
あの異様な雰囲気の店。強烈すぎる存在感。だが、同時にどこか放っておけない不思議な安心感もあった。
「ふうん……」
口には出さなかったが、彼の中で小さく何かが動いた。
「今は掲示されてないけど、また出たら案内するねー!」
「……うん、ありがと」
ギルドを出るゼルの足取りは、少しだけ軽くなっていた。