道標なき都市にて
扉が静かに閉まった。
ゼル=サイレスという若き魔術師の気配が遠ざかり、店内にはまた、
ゆったりとした静寂が流れ始める。
空中をふわふわと漂っていた羽ペンが、ひとりでに棚に戻る。
宙に浮いていた時計の針が、ようやく同じ時を刻み始める。
キアラは、柔らかな笑みを浮かべながら、卓に残された小さな箱を見やった。
「ふふ。いい子だったなぁ……。芽が出るの、早そう」
彼女は、あくび混じりに立ち上がると、指先をひとつ、くるりと回した。
それだけだった。
魔力の放出も、詠唱もない。
ただ、空気がそっと撓んだような感覚と共に――
卓の上の箱がふわりと宙へ浮かび、すっと、何もない空間に吸い込まれるように消えた。
「おまけ、焼き菓子入れといたからね〜。ちゃんと届くといいなぁ」
その声も誰に向けたものかはわからず、
彼女はそのまま、スリッパのまま布団の奥へとふらふらと消えていった。
「おかえり〜。ああ、ちょうど今、届いたわよ」
ギルドの受付に戻ったゼルを出迎えたのは、事務員魔術師のレーナ。
カウンターには、小さな箱と銀貨二枚。それに、おまけのような小さな焼き菓子が並んでいる。
ゼルは一瞬目を疑った。
「……え、もう? さっき出てきたばかりなのに……」
「ね、不思議でしょ? 私も受付台に目をやったら、**“いつの間にかそこにあった”のよ。ほんとに」
「誰かが持ってきたわけじゃないんですか?」
「見張り術も感知結界も何も反応なし。足音も記録も通行反応もゼロ。
ほんとに、ただ“気がついたらそこにあった”だけ」
レーナは苦笑混じりに箱を渡した。
「中身はいつも通り。銀貨二枚と、あと焼き菓子。毎回ね、こうやって届くの。
どうやってるのか……もう、考えるのやめた」
ゼルは箱の中を見つめながら、微かに震える息を吐いた。
「あの人……本当に、普通じゃないんですね」
「うん。何をしてるのかもわからない。でも、ちゃんと届く。だから受け取るしかないの。
“あの店”って、そういう場所なのよ」
ゼルは焼き菓子をそっと受け取り、封の表面に浮かぶ三角の模様を眺めた。
ただの焼き目なのか、それとも――何かの“符号”なのか。
アルザリアの空は、高く、騒がしく、それでいて。
どこかで――誰かが、理の外側からそっと世界を撫でているような、そんな気がした。