道標なき都市にて
朝の空気は、少し焦げ臭かった。
たぶん誰かが爆裂術式の実験に失敗したのだろう。
風に混じる薬草と焼けた石の匂いは、アルザリアの“いつもの朝”を物語っていた。
ゼル=サイレスは、路地裏の下宿の窓を開けたまま、食べかけの乾パンを口に押し込み、魔術具製の水筒を腰に装着した。
「……昨日の採取依頼は、さすがにやりすぎたな……」
ダンジョン浅層の探索依頼――素材は採れたが、粘液質の変異草に足を取られ、
魔術詠唱どころか、靴まで溶けかけた。
「今日は……軽いやつでいいか」
そう呟いて、彼は肩の力を抜きながら石畳の坂道を下る。
向かう先は、いつもの“冒険者ギルド”。
ギルドは朝から活気に溢れていた。
依頼掲示板の前では魔術師や冒険者が密集し、
各種素材依頼から怪しい護衛任務、魔物掃討の張り紙がびっしりと貼られていた。
ゼルは、慎重に探す。
昨日の反省を踏まえて、危険度の低そうな依頼を……
■【依頼名】品物の搬送
■【報酬】銀貨2枚+軽食
■【対象】ランクF〜E
■【備考】割れ物注意。目的地は「キアラ魔術店」
■【依頼主】――(未登録店主)
「……店主の名前、空白かよ」
「それ、“キアラ魔術店”だな。新人がよく引くやつだ」
背後から声をかけてきたのは、顔見知りの冒険者、ダミル。
体格が良く、魔術というより腕っ節で仕事をこなすタイプだ。
「何か変な店なのか?」
「いや、変じゃねぇ。むしろ真面目な店。腕もいい。だが、場所がちょっとわかりづらい」
「そんなに?」
「看板が読めねぇし、路地裏のさらに奥だからな。だが住民には評判いいぞ。“魔術具ならあそこへ”って決まり文句だ」
ギルドの事務員魔術師も、デスク越しに頷いた。
「“未登録店主”は、正確には身元確認不能ではありますが……あの店に関しては、都市でも特例扱いです。何しろ――」
「なくなったことがない店、ですからね」と、ダミルが補足した。
ゼルは苦笑した。
「なんだそれ。都市伝説みたいだな」
「でも本当だ。誰がいつ見ても、ちゃんとそこにある。不思議な店だよ。都市の深層と同じでな、あって当然、でも説明できない」
「……面白そうだな。荷運びついでに、覗いてみるか」
依頼品の木箱は、見た目以上にずっしりと重かった。
だが、重さよりも、今のゼルを悩ませているのは――
「……店、どこだよ……」
ギルドでもらった手書きの地図は、抽象画のように曲線だらけで、
しかも「このあたり」「たぶんこっち」という文字が多用されていた。
市場区――通称『灰の回廊』を抜けるはずだった。
だが、商人たちの怒号と客引きの声が飛び交う通りでは、思考を遮るほどの情報量が渦巻いていた。
「そこの兄ちゃん、耳が四つある猫の爪、買わないか? 今朝捕れたてだよ!」
「いらないです……!」
右を見れば、浮遊する屋台。
左を見れば、二階建ての本棚が走っている。
「揺らぎの街方面って言ってたけど……あれ? この通り、さっきも通ったような……?」
道が入り組みすぎて、通りと通りの境目が曖昧だ。
階段を上がるたびに見える風景が微妙に違い、
壁に設置された“自称案内板”は、今日も正確な情報を提供してくれなかった。
「“魔術店キアラ”……知ってます?」
ゼルが声をかけた老人は、親切そうに微笑んだが、
「そりゃあ……あそこの奥の、あっちの角を三回曲がって、その次の右の坂を下らずに上るんだよ。そうすれば近い」
「……えっ? 坂を……下らずに、上る? それって……え、ええと……」
混乱の中で歩いていくうちに、
ゼルは三回同じ猫とすれ違ったことに気づいた。
「……いや、さすがに……ぐるぐるしてない?」
ある小道では、ドアの向こうから異界語が聞こえ、
また別の通りでは、空き地の真ん中で魔術人形が盆踊りをしていた。
心が折れかけたとき――
ふと、風が止まった。
灰色の石畳が続く細い路地の奥。
雑草に隠れかけた階段をひとつ上ったその先に、ようやく、
ゼルは見つけた。
木造の家。小さな鉢植え。干された洗濯物。
看板には、“キアラ”と、まるで墨が滲んだような筆文字が揺れている。
「……あった……」
派手でも、不気味でもない。ただ、ひっそりと“在る”だけの家。
だが、扉の前に立った瞬間、ゼルは直感した。
この家は、街の“日常”の中で、どこか“非日常”の重さを持っている。
ドアノブに触れる指先が、少しだけ震えた。
「……さて、仕事、仕事」
ゼルは、意を決して扉を押した――
扉を押すと、柔らかな音がした。
だがそれは“扉の開く音”ではなく、まるで水面を撫でるような――空間そのものがめくれたような音だった。
「……なに、これ……」
ゼルが足を踏み入れたその瞬間、空気が変わった。
まず最初に感じたのは、温度差。
外よりもほんの少しだけ暖かく、だがそれは火の熱ではなく、
まるで“眠っていた布団に潜り込んだとき”のような、奇妙な安心感を伴っていた。
次に気づいたのは、音のなさ。
街の喧騒が、完全に切り取られていた。
無音ではない。小さな音はある。棚の軋む音、何かが揺れる音、どこか遠くで水が落ちるような音。
だが、それらが妙に“整って”耳に届く。
視界には、不可思議な光景が広がっていた。
棚が宙に浮いていた。
いや、浮いているのではなく、重力の“方向”が違っているようだった。
階段は途中で折れて天井へと突き抜け、天井には――星があった。
天井がない。空がある。
いや、違う。“闇”があった。夜空のように見える黒の天蓋に、星がいくつか、瞬いていた。
「……屋内……だよな、ここ……?」
ゼルは思わず呟く。
壁には無数の時計が並んでいたが、
すべての針が異なる速度で進んでいた。
音はしない。なのに、時が“進んでいる”ことだけは伝わる不思議。
その中で、最も異様だったのは――
空気の“視線”だった。
明らかに誰もいないはずの空間から、
“何か”がこちらを観察している気配。
敵意ではない。好奇心。観察。期待……まるで、試されているような。
ゼルは、恐る恐る歩を進めた。
棚に並ぶ品々は、どれも用途不明。
瓶に詰まった星屑。ふよふよと浮かぶ羽ペン。目が合ったように感じる石像。
すべてが“不確かであること”を当然のように存在させていた。
「いらっしゃいませ〜。あ、来た来た。今日の子だ〜」
不意に、声が降ってきた。
どこからともなく、ゆったりと、眠たげで、
しかし、確かに“すべてを見ていた者の声”。
ゼルは、背筋に微かな震えを覚えながら、ゆっくりと声の主の方へ――