表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

理の地に芽吹くもの

その都市には、王も議会も存在しない。

法なき理想郷。魔術という言葉に憧れを抱く者たちの、果てなき欲望と叡智が集う場所。


名を――アルザリア。


大陸中央、魔力地脈が交差する地に広がるこの都市には、地図すら曖昧な“迷都”という異名がある。

そこに集うのは、魔術を信じ、魔術に生きる者たち。

素材商、研究者、術師、時に盗人まで。

それぞれが自らの理を求め、ただ“魔術”という名の灯火を掲げて、この地に身を置く。


アルザリアには法律がない。

だが秩序はある。

それは――たったひとつの掟によって成り立っている。


深淵に至る道を、誰も邪魔してはならない。


この一文がすべてを統べる。

破った者には、都市に巣くう無数の魔術師が牙を剥く。

それは正義のためではない。ただ、己の探求を守るため。

それが、この都市の“倫理”であり、“共通の祈り”なのだ。


この街では、魔術を扱う者はすべて――**魔術師マギ**と呼ばれる。

だが、その中にただ一人だけ、特別な名を冠される者がいる。


魔導師。


その存在は、確かに“いた”と語られる。

だが名前を知る者は少ない。

キアラ=レーヴェンという名も、今や古い伝説のひとつに過ぎず、

都市の片隅で静かに語り継がれているにすぎない。


「この地に最初に建てられた家は、木と石でできた小さな小屋だった」

「そこに住まっていたのが、魔術を極め、魔術を導いたたった一人の者――魔導師だった」


それは遥か昔の話。

誰が語り始めたのかも定かでなく、真偽すら問う者はいない。

だが、魔導師という存在がこの都市に根ざしているのは、疑いようのない事実であった。


いまも誰かが言う。

「たまに、“魔導師の店”に入ったって噂が流れるんだ」と。

そして誰かが答える。

「へぇ。じゃあ、その人はもういないね」と。


それが何を意味するのか、語り部は語らない。


都市は今日も、“理”と“混沌”の間で、静かに息をしている。


そしてそんな魔術都市の片隅で――

魔導師は、今日も眠っていた。


それは、まるで時間という概念そのものから逃れるかのような、長いまどろみ。

都市の喧騒が届かぬように拡張され、歪められた空間の奥、

昼の陽が天井の星に触れてもなお届かぬ、薄暗い一室の中で。


柔らかい寝具が、ふわふわと浮かんでいた。

重力すら気まぐれに失った部屋。布団の端が宙に揺れている。

その中心で、青い髪の女が丸まっていた。


「……んぅ。夢の続き、まだ……」


キアラ=レーヴェン。

かつて“魔術を極め導いた者”とされる彼女は、今やただの店番である。

いや――今日もきっと“ただの寝坊”である。


棚に置かれた時計は三つとも異なる時間を指していたが、

一番落ち着いた針が、昼の十二時半を示していた。


コンコン……。


入口の鐘が鳴らないのは、音が今日は“眠っている”からだ。

代わりに木の扉が控えめに叩かれた。


「……うーん、誰かが現実から来た気がする……やだなぁ……起きたくないなぁ……」


もそもそと布団が動き、スリッパが意志を持ったように勝手に近づいてくる。

キアラは片目だけを開き、天井の星に愚痴をこぼす。


「もうちょっと夢見てたかったのに……“猫が喋る商店街”の特売日だったのに……」


重力がようやく元に戻り始める頃、キアラは寝巻きのまま扉を開けた。


「……ほら、やっぱり寝てたね。昼よ、昼。太陽、真上よ、キアラちゃん」


そこに立っていたのは、よく来る常連のリツ婆さんだった。

腰は曲がっているが目は鋭く、手には**魔術具・洗浄壺ブクブク**がぶら下がっている。


「むぅ……夢の特売が……リツさん、現実の使者としては手厳しいですねぇ……」


「はいはい、甘いお茶いれてくれたら許してあげる。今日は《ブクブク》が泡立ちすぎて大変だったのよ」


「それは、壺が喋るようになる前兆かもですよ。魔術具も年頃になると反抗期がくるんです……きっと」


「寝ぼけた頭でそういうこと言わないの。ほら、直して」


二人は、慣れた調子で店内へと入っていく。

店の内部は今日も歪んでおり、階段が一段だけ宙に浮かんでいた。


「ほい、そこに置いてくださいな〜……っと」


キアラが指差した棚の上。そこはただの木の卓――だが、

その木目には不思議な渦模様が浮かび、周囲の空気がわずかに揺れていた。

魔術具を“視る”ために調整された特殊な場所だが、

キアラにとっては、別段意味はない。ただの“習慣”だ。


リツ婆さんが《ブクブク》を置くと、壺はぷるりと身を震わせ、

中から“ぴゅう”という情けない泡音が漏れた。


「ふむふむ……ふぁ〜……ふむ……」


キアラは椅子にも座らず、あくびまじりに壺をのぞき込む。

その目には、眠たげながらも、魔術の構造が層として浮かび上がっているようだった。


「……あ〜、泡生成部位の術式が、ズレてますねぇ。昼寝の夢みたいに」


「また寝言みたいなこと言って……直せるんでしょうね?」


「えぇ、もちろん。簡単簡単……うーん、“こう”ですかね」


キアラは指先で“空気をつまむ”ような動きをし、

目を細めて、壺に向かって一言だけ、小さな言葉を囁いた。


「泡よ、泡よ。居場所を忘れずに膨らみなさい──」


それだけで、壺の表面を包んでいた淡い魔力の揺らぎがピタリと止まり、

次の瞬間、壺は嬉しげに“ぶくぶくぶくっ”と、整った泡を生み始めた。


「……ほら、元通り。ちゃんと礼儀正しくなりましたよ、リツさん」


「相変わらずねぇ……あんた、やっぱり普通の店主じゃないわよ」


「ん〜。普通ですよ。ほら、よく寝て、よく食べて、よく忘れる。これぞ人生」


「忘れる、のと、魔術具の構造再構成を数秒でやるのは、どう考えても釣り合ってないけどねぇ」


リツ婆さんは壺を大事そうに抱えながら、ため息まじりに笑った。

店の奥では、天井の星がひとつ、瞬いた。


リツ婆さんは《ブクブク》を抱えて、口元に微笑をたたえながら帰っていった。

扉が閉まる音は静かだった。鐘は今日も鳴らなかったが、それもまたいつものこと。


店内に再び訪れる沈黙。

空間は少しだけ歪んだまま、昼の光がゆるやかに入り込む。


キアラは、さっきまで泡を吹いていた壺の跡地をぼんやりと見つめて、

そのまま、天井の黒い帳へと視線を移した。


そこには、星がひとつ――不意に、ゆっくりと軌道を変えたように光を滑らせた。


「……へぇ」


彼女は、微笑んだ。


「今日は……面白い子が来るかもねぇ」


その声音は、冗談のようでもあり、

未来を知っている者のようでもあり、

そして何より――退屈を恐れる子どものような、無邪気な響きを持っていた。


その星は、まるで呼応するかのように、

再び、瞬いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ