理の地に芽吹くもの
その都市には、王も議会も存在しない。
法なき理想郷。魔術という言葉に憧れを抱く者たちの、果てなき欲望と叡智が集う場所。
名を――アルザリア。
大陸中央、魔力地脈が交差する地に広がるこの都市には、地図すら曖昧な“迷都”という異名がある。
そこに集うのは、魔術を信じ、魔術に生きる者たち。
素材商、研究者、術師、時に盗人まで。
それぞれが自らの理を求め、ただ“魔術”という名の灯火を掲げて、この地に身を置く。
アルザリアには法律がない。
だが秩序はある。
それは――たったひとつの掟によって成り立っている。
深淵に至る道を、誰も邪魔してはならない。
この一文がすべてを統べる。
破った者には、都市に巣くう無数の魔術師が牙を剥く。
それは正義のためではない。ただ、己の探求を守るため。
それが、この都市の“倫理”であり、“共通の祈り”なのだ。
この街では、魔術を扱う者はすべて――**魔術師**と呼ばれる。
だが、その中にただ一人だけ、特別な名を冠される者がいる。
魔導師。
その存在は、確かに“いた”と語られる。
だが名前を知る者は少ない。
キアラ=レーヴェンという名も、今や古い伝説のひとつに過ぎず、
都市の片隅で静かに語り継がれているにすぎない。
「この地に最初に建てられた家は、木と石でできた小さな小屋だった」
「そこに住まっていたのが、魔術を極め、魔術を導いたたった一人の者――魔導師だった」
それは遥か昔の話。
誰が語り始めたのかも定かでなく、真偽すら問う者はいない。
だが、魔導師という存在がこの都市に根ざしているのは、疑いようのない事実であった。
いまも誰かが言う。
「たまに、“魔導師の店”に入ったって噂が流れるんだ」と。
そして誰かが答える。
「へぇ。じゃあ、その人はもういないね」と。
それが何を意味するのか、語り部は語らない。
都市は今日も、“理”と“混沌”の間で、静かに息をしている。
そしてそんな魔術都市の片隅で――
魔導師は、今日も眠っていた。
それは、まるで時間という概念そのものから逃れるかのような、長いまどろみ。
都市の喧騒が届かぬように拡張され、歪められた空間の奥、
昼の陽が天井の星に触れてもなお届かぬ、薄暗い一室の中で。
柔らかい寝具が、ふわふわと浮かんでいた。
重力すら気まぐれに失った部屋。布団の端が宙に揺れている。
その中心で、青い髪の女が丸まっていた。
「……んぅ。夢の続き、まだ……」
キアラ=レーヴェン。
かつて“魔術を極め導いた者”とされる彼女は、今やただの店番である。
いや――今日もきっと“ただの寝坊”である。
棚に置かれた時計は三つとも異なる時間を指していたが、
一番落ち着いた針が、昼の十二時半を示していた。
コンコン……。
入口の鐘が鳴らないのは、音が今日は“眠っている”からだ。
代わりに木の扉が控えめに叩かれた。
「……うーん、誰かが現実から来た気がする……やだなぁ……起きたくないなぁ……」
もそもそと布団が動き、スリッパが意志を持ったように勝手に近づいてくる。
キアラは片目だけを開き、天井の星に愚痴をこぼす。
「もうちょっと夢見てたかったのに……“猫が喋る商店街”の特売日だったのに……」
重力がようやく元に戻り始める頃、キアラは寝巻きのまま扉を開けた。
「……ほら、やっぱり寝てたね。昼よ、昼。太陽、真上よ、キアラちゃん」
そこに立っていたのは、よく来る常連のリツ婆さんだった。
腰は曲がっているが目は鋭く、手には**魔術具・洗浄壺**がぶら下がっている。
「むぅ……夢の特売が……リツさん、現実の使者としては手厳しいですねぇ……」
「はいはい、甘いお茶いれてくれたら許してあげる。今日は《ブクブク》が泡立ちすぎて大変だったのよ」
「それは、壺が喋るようになる前兆かもですよ。魔術具も年頃になると反抗期がくるんです……きっと」
「寝ぼけた頭でそういうこと言わないの。ほら、直して」
二人は、慣れた調子で店内へと入っていく。
店の内部は今日も歪んでおり、階段が一段だけ宙に浮かんでいた。
「ほい、そこに置いてくださいな〜……っと」
キアラが指差した棚の上。そこはただの木の卓――だが、
その木目には不思議な渦模様が浮かび、周囲の空気がわずかに揺れていた。
魔術具を“視る”ために調整された特殊な場所だが、
キアラにとっては、別段意味はない。ただの“習慣”だ。
リツ婆さんが《ブクブク》を置くと、壺はぷるりと身を震わせ、
中から“ぴゅう”という情けない泡音が漏れた。
「ふむふむ……ふぁ〜……ふむ……」
キアラは椅子にも座らず、あくびまじりに壺をのぞき込む。
その目には、眠たげながらも、魔術の構造が層として浮かび上がっているようだった。
「……あ〜、泡生成部位の術式が、ズレてますねぇ。昼寝の夢みたいに」
「また寝言みたいなこと言って……直せるんでしょうね?」
「えぇ、もちろん。簡単簡単……うーん、“こう”ですかね」
キアラは指先で“空気をつまむ”ような動きをし、
目を細めて、壺に向かって一言だけ、小さな言葉を囁いた。
「泡よ、泡よ。居場所を忘れずに膨らみなさい──」
それだけで、壺の表面を包んでいた淡い魔力の揺らぎがピタリと止まり、
次の瞬間、壺は嬉しげに“ぶくぶくぶくっ”と、整った泡を生み始めた。
「……ほら、元通り。ちゃんと礼儀正しくなりましたよ、リツさん」
「相変わらずねぇ……あんた、やっぱり普通の店主じゃないわよ」
「ん〜。普通ですよ。ほら、よく寝て、よく食べて、よく忘れる。これぞ人生」
「忘れる、のと、魔術具の構造再構成を数秒でやるのは、どう考えても釣り合ってないけどねぇ」
リツ婆さんは壺を大事そうに抱えながら、ため息まじりに笑った。
店の奥では、天井の星がひとつ、瞬いた。
リツ婆さんは《ブクブク》を抱えて、口元に微笑をたたえながら帰っていった。
扉が閉まる音は静かだった。鐘は今日も鳴らなかったが、それもまたいつものこと。
店内に再び訪れる沈黙。
空間は少しだけ歪んだまま、昼の光がゆるやかに入り込む。
キアラは、さっきまで泡を吹いていた壺の跡地をぼんやりと見つめて、
そのまま、天井の黒い帳へと視線を移した。
そこには、星がひとつ――不意に、ゆっくりと軌道を変えたように光を滑らせた。
「……へぇ」
彼女は、微笑んだ。
「今日は……面白い子が来るかもねぇ」
その声音は、冗談のようでもあり、
未来を知っている者のようでもあり、
そして何より――退屈を恐れる子どものような、無邪気な響きを持っていた。
その星は、まるで呼応するかのように、
再び、瞬いた。