8.酒造会社
「おやおや、刑事さんでしたか……。社長は新商品の宣伝で、ただ今外出をしていますけど、もうすぐ戻りますから、ちょっとそこで待っていてください」
三十代に見える作業着姿の落ち着いた雰囲気の男が、鴇松と烏丸の二人のアポなし訪問者に応対した。
九月十四日の土曜日は、からっと晴れた青空が広がる、気持ちの良い日であった。真夏のじめじめ感がすっかりなくなっていて、佐渡は静かに秋を迎えようとしている。両津の市街地から少し外れたところに、『若林酒造』と入り口に大きな看板をかかげた酒造会社があった。敷地の中をまっすぐに進んで行くと、土曜日なのに数人がいそいそと仕事をしている建物があったので、鴇松はずかずかと入っていって、たまたま近くへいた者にたずねたら、この男が紹介されたのだが、少なくともここにいる職人の中では一番年配である感じがした。
そして、鴇松がわざわざ足を運んでまで会いにやって来た、この酒造会社を取り仕切る若き経営者こそが、若林航太――、である。
「社長はいい人でねえ。それに、肝っ玉もたいしたものですよ。この会社は、元は佐渡を代表する酒造の老舗でしたが、しだいに経営が厳しくなってきましてね、後継者もいなくなって、前の経営者がさじを投げかけたところを、うちの社長が借金をしながら、会社を丸ごと買い取ったんです。いやはや、なかなか勇気ある行動じゃないですか」
「社長さんのお歳はおいくつですか」
「僕よりも若いですからねえ。まだ、三十手前です」
「ほう。それで社長にね……」
「経営の面でもしっかりしていますよ。
うちの杜氏が、前の会社からの居残りでね。腕は確かだが、古い気質の人で、簡単にいえば、頑固でしてね。なかなか今の合理化システムに理解を示してはくれない中、社長はいうべきところはいい、杜氏を立てるべきところは立てて、うまくやっていましてね、いやあ、たいした人物ですよ」
「今、皆さんはお酒を造られているのですか」
数人が忙しそうに動いているので、気になった鴇松が訊ねると、
「いえ、酒造りはまだしません。仕込むのはもっと寒くなってからです」と、男が静かに答えた。
「ほう、そうですか。それにしても、皆さん、なにかとお忙しそうですね」
鴇松は、周りをきょろきょろ見回しながら、いった。
「今は酒造りの準備をする期間です。なにしろ、いろいろな装置や道具がありますからね。それらを一つ一つ点検しているのですよ」
「酒樽などをですか?」
「樽だけじゃありませんよ。ホースや接続用のバルブに各種カートリッジ、除菌洗浄剤や防カビ剤、洗米機にろ過機、冷却装置に空気輸送装置、製麹装置、搾り機など、挙げだしたら切りがありませんからねえ」
その時、若い社員の一人が男に声をかけてきた。
「石塚さん、もうこの『きつね』は駄目ですよ。ほら、見てください。ここから沁みだしているでしょう」
若い社員が差し出した桶の底からは、水がぽたぽたとしたたり落ちていた。
「こいつはひどい。古い道具だから仕方ないけど、修理をすればかなりかかりそうだな。捨ててしまいたいけど、うちの杜氏ときたら、木の道具にはとことんこだわるからなあ……」
石塚と呼ばれた男が、ふっとため息を吐いた。
「ちょっと待ってください……。『きつね』って、何ですか?」
鴇松が、思わず大きな声で叫んだ。
「この桶ですよ。ほら、先がとんがっていて、まるで狐みたいでしょう」
少し驚いた表情をしながら、石塚が答えた。
「どうして桶に、動物の名前なんかが付いているのですか?」
「だって、覚えやすいでしょう。逆に、名前を付けないと、あの先が細くなっている桶はどこにあるんだっけ、ってことになりますけど、それじゃあ分かりにくいじゃないですか。
桶をひとつ取っても、ここにはいろいろな形の品物がありますからねえ。片っ端から名前を付けて区別をしなきゃ、やってられんのですよ」
「なるほど、すると、きつねのほかに、もしかして、『たぬき』なんてありませんかねえ」鴇松が身を乗り出した。
「ありますよ。丸い注ぎ口が付いた桶がね。うちには今はありませんけどね」石塚が淡々と答えた。
「それでは、『さる』は?」
「ああ、窯から立ち上る蒸気を分散させるための蓋のことですね」
「『ねこ』は?」
「踏み台です」
「『つばめ』や『かえる』、それに、『とんぼ』はありますか?」
「驚いたな、刑事さん。それ、全部ありますよ。酒造りに使う道具です……」そういって、石塚は目を丸くした。
やはり、ここへやって来たのは間違いではなかった……。口には出さずに、胸の中で、鴇松はひそかにガッツポーズを取っていた。
「お待たせしました、刑事さん。随分と前から、ここにいらしたそうですね」
若林酒造の若き経営者、若林航太は、目鼻立ちの整った美青年だ。茶髪のショートヘアは今風だが、清潔感にあふれ、嫌な感じはしない。服はスーツ姿で、むしろさわやかな好印象を受ける。
「お得意先へ宣伝に行っていましてね。申し訳ありませんでした」
「いえいえ、こちらが勝手に押し掛けただけですから、お気遣いなく」
型通りのあいさつが鴇松と若林航太のあいだで交わされる。若いけど物怖じせず、自信に満ちあふれている感じの青年だ。
「ところで、僕に何の用事でしょうか……」
「ああ、たいしたことではないのですよ。ですが、ここで立ち話というのもなんですから、どこか適当な場所はありませんかねえ。そうだ、角にあった喫茶店などではいかがでしょう」
鴇松の提案に、若林は、「角の喫茶店というと、『潮騒』のことですね。いいですよ。あそこの珈琲はこのあたりの店にしては、まあまあですからね」といって、快く応じた。
海が見える小高い丘の上にある喫茶店『潮騒』で、鴇松はホットコーヒーを、烏丸と若林の二人はアイスコーヒーを注文した。
「なるほど、実に美味しい珈琲ですな」一口すすって、鴇松は笑顔を浮かべた。
「ところで、刑事さん。何の用件で僕に会いに来たのですか。まさか、何か事件の容疑が掛けられているのではないでしょうね」
「いえいえ、決してあなたに容疑が掛かっているわけではありません。ある人物が先月に不審死を遂げていましてね。その人物をあなたがご存知かと思いまして、伺ったわけですよ」
「それは、本間柊人のことですね」
「おや、察しが着きましたか」
「それは分かりますよ。なんでも、鷲崎で死んでいたらしいじゃないですか」
「そうです。最近、本間さんとのお付き合いは?」
「いえ、何も……。彼とは小学校は一緒でしたが、その後となると、中学も別々でしたからねえ」
「ほう、小学校が一緒なのに、中学校が別ですか?」
「ええ。川茂小学校――、僕と柊人が卒業した小学校ですが、ちょうど僕たちが卒業するタイミングで廃校となりましてね。平成十五年でしたから、今から十六年前になります。
川茂小学校は、赤泊村と羽茂町の両行政区にまたがった、特殊な小学校区でしてね。僕は赤泊村で、柊人は羽茂町に家がありますから、中学が赤泊中と羽茂中とに分かれてしまったのですよ」
「すると、それから彼とお会いされてはいないと……」
「はい……。ですから、葬儀の通知を受けた時には、正直、びっくりしましたよ」
「そうですか。小学校の時は、どんな少年でしたか。本間柊人さんは」
「ふふふっ、それはもう、腹が立つほどの秀才です。勉強ではさっぱり歯が立ちませんでしたからね」
「お若くして社長さんになられたあなただって、きっと、聡明なお子さんだったことでしょうね」
「ええ、僕だって、中学へ入ってからはずっと成績トップでしたからね。まんざら馬鹿でもなかったのですよ。でも、相手が悪かった。本間柊人は、悪魔のごとき頭脳の持ち主でしたからね」
「悪魔のごとき、ね……」そういって、鴇松はコーヒーをまた一口すすった。
「ところで、会社の経営はうまく行っているのですか?」鴇松がさりげなく話を切り替えた。
「ええ、ぼちぼちです」水滴が付いているアイスコーヒーのグラスを、右手で持ちながら、若林が照れくさそうに答えた。
「なんでも、前任者が経営で行き詰ったところを、あなたが丸ごと会社を買い取ったという話ですが」
「そういうことになりますかね」
「だとすると、同じように経営していても、やがては行き詰ってしまう。あなたは、経営を立て直すために、何か起死回生の手立てを打たなければならなかった……、違いますか」鴇松が踏み込んだ質問を意図的に繰り出した。
「前の経営者は実に有能な人でした。この会社で作っていたお酒は、品質の上では申し分なかったのですが、宣伝にはあまり力を入れていなくてね。結局は、もっと質が落ちるのに、ここよりも高い金額で販売しているエセ商品に、いつも負けてしまっていました。
ですから、僕は、ここで作っているお酒が、宣伝にさえ手を加えれば、間違いなく売れる名酒であることを、当初から確信していたのですよ」
「なるほど、目の付けどころが良かったということですね」
「でも、問題はそれだけではありませんでした。酒工場の老朽化もかなり進んでいましてね。酒樽をはじめ、さまざまな道具のメインテナンスも不十分でしたから、出来上がる酒の品質も、年々低下せざるを得ない状況になっていました。
木製の道具は、維持するのにも費用が掛かるので、この際、道具も金属やプラスチック製品に転換したかったのですが、杜氏がそれを嫌がりましてね。僕はその落としどころを、常に四苦八苦しながら探っているわけですよ。いえ、うちの杜氏は、腕は本物です。そいつは太鼓判を押しますよ。彼の尽力なしに、我が社の再建はあり得ません。そして、その仲介役を上手にこなすことが、僕の腕の見せ所というわけですよ」
身振り手振りを織り交ぜながら繰り広げられる若林の語り口には、相手の心を惹き付けるなにかがあった。
「今日も宣伝で忙しかったわけですな」
「そうですね」
「ところで、先月の八日の夜ですけど、あなたはどこで何をしていらしたか、思い出せませんかねえ」顔色を変えることなく、鴇松が穏やかに訊ねた。
「八月の八日ですか。刑事さん、それって柊人が死んだ日ですよね。つまり、僕が犯人として疑われているということですか」若林は、笑顔を浮かべながらも、警戒心を示した。
「いえ、刑事という職業の悲しい性でしてね。いちおう、会った人には全員、確認を取っているのですよ」
「そういうことですか。それなら、八月八日ですよね。うーん、なにぶん先月のことですからねえ。何曜日でしたっけ?」
「木曜日です」
「ウィークデイですか。ますます分からないなあ。刑事さん、一月も前のことなんか、思い出すのは無理ですよ」
「そうですか……。まあ、分かったら、ぜひ教えてください。それでは、今日はありがとうございました。
ああ、ここのお代は我々で払いますよ。わざわざ来ていただいたのですからね」
テーブルの上に置いてあるレシートを手に取ろうとした若林をさえぎって、鴇松がいった。
「はははっ、刑事さん、僕はもういっぱしの社会人です。自分が飲んだコーヒー代くらい、自分で払いますよ」
そういって笑いながら若林航太は、自分の分のレシートを手に取り、レジで代金を支払うと、店から出ていった。残された鴇松と烏丸は、しばらく考え込むように、何も話さずにいた。
『潮騒』のウェイトレスがテーブルへやって来て、若林が飲んだアイスコーヒーのグラスを片付けようとしたその時だった。鴇松の左手がさっと伸びて、ウェイトレスの動きを制止した。
「お嬢さん、このグラスには手を触れないでください。私は警察の者です。このグラスは今から証拠品として、持ち出させていただきます」
九月二十日――、久しぶりの大雨で、外の通りを歩く人の姿もまばらになっていた。仕事を終えて、帰ろうとしている若林航太を、会社の敷地の入り口に当たる、『若林酒造』の看板下で、こうもり傘を左手で差しながら、ずっとたたずんで待っていた人物がいた。鴇松警部補だ。
「ああ、若林さん。お久しぶりですね」
鴇松からの呼びかけに気付いた若林は、眉間にしわを寄せた。
「なんだ、刑事さんですか。久しぶりといったって、まだ一週間しか経っていませんよ。何か御用ですか」
「若林さん、いけませんねえ。この前、あなた、嘘を吐かれていましたね」
「唐突ですね。いったい、何を根拠に?」
「あなた、本間柊人さんとは、小学校を卒業して以来、会ったことがないといわれていましたが、それは真っ赤な嘘です。
我々が捜査をしたところ、本間柊人さんの弁護士事務所に、あなたの指紋がいくつか見つかりましてね。本間柊人さんが事務所を購入したのは、たしか数年前ですから、あなたの指紋がそこにあるはずがないのですがねえ……」
「なるほど、刑事さん、この前の面会の目的は、僕の指紋採取だったわけですね。こいつは一杯食わされましたね」若林航太があっさりと両手をあげた。
「あなたは最近、本間柊人さんの事務所へ行ったことがありますね。さらにはそこで、本間柊人さんとも話を交わしておられる」
「もう隠せないみたいですね。たしかに僕は最近になって、柊人と会っています」
「それはいつですか?」
「八月のはじめです」
「八月八日ですか?」
「いえ、もっと早かったです。八月五日――。たしか月曜日だったように思います。合っていますか?」
「ええ、八月五日は月曜日ですよ。何時頃でしたか?」
「午後でした。詳しい時間は覚えていませんが、たぶん三時前後のことだったと思います」
「何のお話をされたのですか」
「刑事さん。プライバシーに関わる話なので、捜査目的以外には口外しないでいただきたいのですが」
「お約束します」
「実は、僕は今、家内とは別居しています。離婚調停中でしてね。いろいろと駆け引きが繰り広げられている真っ最中なのですよ。
家内の方で、僕の浮気調査を、柊人へ依頼をしたらしく、それに気付いた僕が、柊人のもとへ直接掛け合ったというわけです」
「あなたに、何かやましいことがあったのですか」
「浮気に関してですか? とんでもない、僕は無実潔白ですよ。なにしろ毎日が忙し過ぎて、浮気なんかしている暇がありませんからね。むしろ、家内の方に非があるくらいですよ」
「それで、掛け合った時の本間柊人さんの反応は?」
「のらりくらりとかわされました。まあ、職業がら当然の応対ですけどね。とにかく、事実無根のことをでっち上げられて、家内に余分な慰謝料をふんだくられるのだけはご免なので、僕は柊人に正直に気持ちを打ち明けましたよ」
「なら、それで話はまとまったわけですね」
「さあ、どうでしょうか。なにしろ、本間柊人は先日話しましたように、悪魔のごとき頭脳の持ち主です。あいつがその気になれば、事実をねじ曲げて僕をおとしめることなど、いとも簡単にできてしまうことでしょうからね」
「それを怖れたあなたが、本間柊人さんを手に掛けた、という可能性も、まんざら考えられはしませんかねえ」
「直球で来ますね、刑事さん。それをいわれては、僕に返す言葉はなにもありませんよ。僕には立派な殺人の動機があったことになります。それは認めます。
相手が柊人でなければ、別に怖れることなどありません。やましいことがないのですからね。でもね、刑事さん。相手があの本間柊人なんですよ。分かりますか。僕が必死になって、どんなに遠くへ逃げたところで、依然としてお釈迦様の手のひらの上にいるしかできないのですから。実際、泣いて頼むしか、することはないじゃないですか」
若林航太が本間柊人に対してトラウマのような強烈なコンプレックスを抱いているのが、鴇松にもひしひしと伝わってきた。
「時にあなた、酒造りの道具の話を、本間柊人さんにしませんでしたか」
「そういえば、しましたよ。ちょっとだけですけどね」
「『きつね』とか『たぬき』とか……」
「ええ、桶にそんな種類がありましてね。柊人は面白がって聞いていましたよ。でも、どうしてそれが分かったんですか」若林がきょとんとした。
「くずかごの中に奇妙なメモが捨てられてありましてね。丸めた紙くずでしたが、机の上に置いてあったペンで書かれてあって、筆跡は本間柊人さんのものでした。
書かれてあった内容は、『きつね、たぬき、さる、ねこ、つばめ、かえる、とんぼ』でしたね」
「きっと、柊人が僕の話を聞きながら、メモを記したのでしょうね。たしかに、僕がその時にしゃべった酒造りの道具ばかりですよ。いったんは書いて見たものの、別にどうでもよいことだから、すぐに丸めて捨ててしまった、そんなところじゃないですか」
「なるほど、それでつじつまが合いますね」
鴇松がうなずく仕草を見せた。
「そしてその紙くずが、僕を疑う手掛かりとなってしまったわけですね。いやはや、因果なものです」皮肉を告げる若林の顔には、まだ一抹の余裕が残っていた。
「では、話を変えましょう。あなたの八月八日の夜のアリバイをお伺いしたいのですが、何をされていましたか。
このような事態となった以上、あなたにとっては深刻なことであるはずです。どうにかして、思い出せませんかねえ」
「そういわれてもねえ。ちょっと待ってください。手帳を調べてみますから。
ええと、八日といえば、そうか……。八月十日に日本酒の品評会が東京でありまして、我が社の渾身の商品の宣伝に、僕ははるばる東京へ行っていましたよ。
前日の九日の十一時十五分に、両津港発のジェットフォイルに乗っていますから、乗船名簿を調べてもらえば。僕が乗っていたことが証明されますよ。
でも、そのさらに前日の夜となりますと……」ここで若林航太の声が止まった。じっとなにかを思い出そうとしている様子だった。
「そうだ、その前の夜だったら、いますよ! 僕の無実を証明できる人が……」
そう口に出した若林であるが、直後に顔色を急変させた。
「いや、すみません……。前日は東京行きの支度を整えてから、そのまま一人、自宅で寝てしまいました」と、返ってきたのは、いかにも歯切れの悪い返事であった。
「先ほど、どなたかのお名前を挙げようとなされてはいませんでしたか」
鴇松が慌てて問い返すも、若林は、
「いえ、僕の思い違いでした。今のはぜんぶ忘れてください……」とだけ、小声で付け足した。