7.鴇松警部補の推理
本間柊人が謎の不審死を遂げた八月八日から、はやひと月が経過している。しかし、懸命な警察の捜査にもかかわらず、鬼の面をかぶった謎の人物の情報は、何ひとつ得られなかった。
警察が頼りにしているのが、本間柊人の事務所にあったケースファイルの資料である。そこに記された十五の案件に関与している人物を片っ端から調べあげれば、そのうちいつか、有力な容疑者が浮かび上がるであろう、というのが当初の見解であったが、鴇松はその捜査方法に関して、少なからず疑念を抱いていた。というのも、ファイルの資料には、7番と15番の案件が抜け落ちているからだ。そしてそれは、八月八日の午後八時頃に事務所で本間柊人と会話を交わしていた人物が持ち去ったから無くなっているわけであって、つまり、残った十五の案件の資料をいくら調べてみたところで、謎の人物の手掛かりが見つかるとは、とうてい期待が持てないのだ。
九月十三日の金曜日、もう日も暮れかけようとしている夕刻に、鴇松警部補は佐渡警察署へやってきていた。廊下に設置してある自動販売機から缶コーヒーを買って、ちかくの長椅子に腰をかけて、ちびりちびりとやっていると、それを見つけた烏丸巡査部長が、さっそく声をかけてきた。
「警部補、お久しぶりです」
「ご無沙汰していました。ところで、本間柊人の事件はあれから何か分かりましたか」
「いや、恥ずかしながら、めぼしい進展はありません」
「そうですか……」
何事もなかったかのように装って、鴇松はコーヒーを一口飲んだ。
「事務所のファイルに記載されていた人物の訊きこみは、ほぼ全員終わっています。にもかかわらず、有力な容疑者が出てこないのをかんがみると、やはり、持ち去られたファイルの中に犯人の手掛かりはあったのでしょうね。
そいつさえ見つかれば、と思いますが、まあ、ないものねだりに過ぎません。はははっ」烏丸がそうそうに白旗宣言を出した。
まあ、考えようによっては、持ち去られた7番と15番の案件が、犯人にとって重要な内容であったことを裏付けたわけで、やみ雲に行われた警察の捜査も、あながち無駄ではなかったことになる。それが分かっている鴇松は、気遣いながら烏丸へ意見を返した。
「私は、本間柊人の知人を調べるべきだと考えています……」
「ほう、知人ですか……」
「はい。事件当夜に本間柊人と事務所で話をしていた人物は、本間柊人の知人である可能性が極めて高いからです」
烏丸巡査部長が目を丸くする。「どうして知人であると、警部補はお考えになられるのですか?」
「そうですね、一言で説明するのは難しいです。とはいえ、ここまでに私が気付いている犯人の人物像ですけど、これからそれをお話しいたしましょう」
穏やかな口調で、鴇松がみずからの推理を語り始めた。
「本間柊人が殺害されたのであれば、その犯人は、八月八日の午後八時に、本間柊人といっしょに事務所にいた人物であり、さらには、翌九日の未明に、弾崎灯台で鬼の面をかぶって目撃された人物であることになります。
さて、ここまでの状況証拠から、この犯人の人物像をどこまで絞り込めるでしょうか?」
鴇松が静かに笑みを浮かべると、烏丸は首を傾げた。
「さあ、なにか分かりますかねえ」
「まず、犯人は本間柊人の知人であると推測されます。理由は、事務所で殺された時に、本間柊人は、Yシャツにスラックスと仕事着姿でした。つまり、仕事の関連で、犯人との話し合いが行われたことになります。
一方で、八日の八時に事務所にいた犯人は、事務所までどのような移動手段でやって来ていたのでしょうか。近隣住民の証言では、その時刻に不審な車はどこにも停車していませんでした。
この事実は、犯人が自家用車で事務所までやって来たのではないことを示唆しています。となれば、犯人が歩いて事務所までやって来られる隣人でもない限り、事務所までやってくるのに、バスかタクシーを利用するしかありません。そこで私は佐渡のタクシー会社全部に問い合わせましたが、八日の夕刻に本間柊人の事務所まで誰かを乗せたと証言するタクシー運転手は、誰もいませんでした。また、バスを利用したとしても、本数も少なくて不便ですし、夜になればすぐに便がなくなってしまいます。バスでしか訪問できない人を相手に、よほどの急な用件でもない限り、夜の会談は開かないでしょう。しかるに、犯人はバスで来たとも思えない。
という理由で、どう考えても自家用車を利用するのが自然なのに、いったいなぜ、犯人は自家用車で本間柊人の事務所を訪問しなかったのでしょう?」
鴇松が烏丸に問いかけた。
「それは……、単純ですけど、犯人が運転できない人物だったからではないですか」
「いいえ、犯人は運転ができる人物です。現に、金井の事務所から弾崎灯台までの長距離を、車を運転しながら、どうどう往復していますよね」
「なるほど」
「そこで、次なる結論が導かれるのです。
犯人は、本間柊人の事務所から七キロほど離れた場所に住む住民で、本間柊人とは仲が良かった人物です!」
「どうして、そんなことまで断定できるのですか?」あまりの突飛な結論に、烏丸は狐につままれたような顔をしている。
「なぜなら、仕事であるにもかかわらず、事件当夜に事務所へ来ようとしていた犯人を、本間柊人は、みずから車を運転して、迎えに行っているからです!」
「ちょっと待ってください。どうして、本間柊人が車を運転して犯人を迎えに行ったなどと、大胆な推測ができるのですか。ましてや、犯人が事務所から七キロ離れた場所に住んでいる人物だなんて……」
「本間柊人は、八日の午後四時四十七分に、事務所のそばのガソリンスタンドで、車に給油をしました。それから、翌日に車庫で見つかった車の車内メータには、九十キロの走行がされた表示が残っていました。しかし、金井の事務所から弾崎灯台を往復しても、だいたい七十五キロほどにしかなりません。九十キロの走行距離から差し引くと、さらに十五キロほど、給油されたのちに、車は走行をしていなければならないのです。
弾崎灯台を往復した犯人が、それからさらに寄り道をする理由はありませんから、必然的に、十五キロの走行は、犯人が遺体を移動するために車を使用した以前に、すでにされていたことになります。つまり、ガソリンスタンドで給油を済ませた本間柊人が、そのまま直接、往復で十五キロかかる場所にいる何者かを、車で出迎えたのです。そう考えれば、すべてのつじつまが合います」
「なるほど……」烏丸は、あらためて鴇松の推理力に感服していた。
「さらには、仕事中の本間柊人が、わざわざ出迎えに行くほどの人物ですから、顔見知りであった可能性が高いというわけです」
「すごいですね、鴇松警部補。見事な推理です」
烏丸の賞賛に気を良くしたのか、鴇松はしだいに饒舌になっていった。
「まだありますよ。犯人は、右利きです!」
「えっ、どうして分かるのですか?」再度、烏丸が目を丸くする。
「それを教えてくれたのは、事務所にあったカレンダーです」
「カレンダー?」
「ほら、事務所の壁に掛かっていた、月めくり式でメモが書き残せるタイプのカレンダーですよ。
我々が捜査をした日は八月九日でしたけど、その時点で、なぜか九月の紙面が表示されてありました。つまり、八月上旬であるにも関わらず、八月の紙面がめくられてしまってあったのです。仕事上必要であるから掛けてあるはずのカレンダーを、本間柊人がそのようないたずらをするはずもないので、八月の紙面をめくったのは、必然的に犯人であったことになります。
犯人は、八月八日のカレンダーのメモ欄に、面会予定の人物として自分の名前が記されてあったのを見つけ、やむなく、八月の紙面をめくって廃棄したのだと考えられます。ところが、その際にうっかり、犯人はみずからの臭跡も、同時に現場へ残してしまったのですよ」
「もしかして、犯人の指紋が、カレンダーから発見されたのですか」
「いえ。残念ながら、カレンダーには本間柊人の指紋しか見つかりませんでした。犯行後に行った証拠隠滅の作業中に、どうやら犯人は手袋をはめていたみたいですね。洗面所の棚の上に、消毒作業用の使い捨てのビニール手袋の箱が置いてありました。それに気付いた犯人は、そこから一組を拝借したのでしょう」
「指紋ではないとすると、いったい何が残っていたのですか」
「それはですね……。そうだ、烏丸巡査部長はカレンダーをめくる時、どうやって紙面をめくりますかね」鴇松がくすくすと笑って、訊ねてきた。
「それは、普通に……、ミシン目の端をちょいと切り裂いてから、綴じ代の部分を壁に押さえつけて、あとは一気にビリっとめくりますね」
「巡査部長は右利きですよね。綴じ代を押さえるのは、どちらの手になりますか?」
「それは、左手で押さえますよ。だって、めくるのが右手ですから」
「そうです。右利きの人はカレンダーをめくる時、紙面の方を右手で持ちますよね。さらには引っ張る方向へ破りますから、その結果、カレンダーのミシン目は、左端から右端へ向かって引きちぎられます」
「それは、まあ、そうですね……」
「通常、出だしは、ミシン目に少し切り目を入れて、破りやすくしておいてからめくります。その際、切り目が丁寧にちぎられるから、出だしの紙面はミシン目にそってきれいに破られます。つまり、右利きの人が破った紙面の左端は、ミシン目通りにきちんと破られているはずなのです。
しかし、そのあとを雑にめくってしまえば、反対側となる右端には、ミシン目通りに破られなかった紙の切れ端が、若干残ってしまうことが、往々にして起こります。
私は事務所にあったカレンダーの綴じ代に注目をしました。すると、直前に破られた八月の紙面の一部が、少しだけミシン目からはずれて、綴じ代にくっついたままの状態で残っていました。そして、それは綴じ代の右側の部分に残っていたのです。
つまり、カレンダーの八月の紙面は、左側から右側へ向けてめくられたことになります。カレンダーは引き手でめくるのが普通ですから、すなわち、八月のカレンダーをめくった人物は、右利きであったことが判明します。
さらに、先ほどの説明で、八月の紙面をめくった人物は、犯人でなければなりません。
ゆえに、犯人は右利きであった、ことが結論付けられます!」
「なるほど。全く気付きませんでした……」
鴇松は満足げに飲み干したコーヒー缶を回収ボックスへ放り投げた。缶は大きな弧を描いて、見事に回収ボックスに収まった。
「ほかにも面白いことがありましてね。ほら、事務所の壁のフックですけど、我々が踏み込んだ時には何も掛かっていませんでした。帽子を掛けるには、少々位置が高過ぎるように思いましたけど、ではいったい、そこに何が掛かっていたのでしょうか?」
「さあて、分かりません……」
「鬼の面ですよ。本間柊人の遺体を別な場所へ運んで、事件の混乱を企てた犯人ですが、いくら真夜中であるとはいえ、遺体を遺棄しているところを、誰かから顔を見られてしまえば、それは破滅を意味します。そこで、壁に掛かっていた鬼の面を、これ幸いと、一緒に持ち去ったのですよ」
「どうして鬼の面が壁に掛かっていたのでしょうかね」
「単なる飾りでしょうね。鬼太鼓の面――、いかにも佐渡らしい趣がある装飾品じゃないですか」
「まあ結果的に目撃者がいたわけですから、鬼の面も役に立ったわけですけね」烏丸がふっと口元を緩めた。
「しかし、顔を隠すためなら、あらかじめ覆面マスクなどをポケットに入れて準備しておけばよかったのに、犯人はそれをせずに、あえて、犯行現場に置いてあったアイテムを使って、顔を隠すという芸当を行いました。
それが示唆するのは、この犯行が犯人にとっては計画的なものではなく、想定外の突発的に起こってしまった事件であったということです。
本間柊人と会話をしていた犯人は、最初は本間柊人を殺す意思はなかったのですが、何らかのこじれから、本間柊人を殺してしまいます。それから慌てた犯人は、洗面所に置いてあった手袋を見つけ、指紋を残さないように手にはめると、カレンダーをめくって、ケースファイルから自分に都合の悪いファイルを抜き取り、さらには高い場所に掛けてあった鬼の面を盗んだのです」
「そうですか。しかし、だとすれば、これ以上の新しい手掛かりは何もなさそうですね」
「いえ、よく考えてみてください。犯人は、最初から本間柊人を殺害するつもりはなかった。ですから、途中から手袋をはめましたが、話し合いが始まった頃には、手袋をはめていなかったはずです。ですから、事務所から見つかったいくつかの指紋の中に、犯人の指紋が紛れ込んでいる可能性は、まだ否定できないのですよ!」
「ということは、本間柊人の知人で、事務所で見つかった指紋と一致する人物が、万が一にも見つかった場合には……」
「その人物は、犯人である可能性が極めて高い容疑者であることとなります」
表情を変えずに、鴇松は静かに肯定した。
「鬼の面と同様に、もう一つ気になるアイテムがあります。それは、リコーダーです。
弾崎灯台で遺体のそばに落ちていましたけど、それには本間柊人の名前が書いてありました。おかげで、遺体の身元が本間柊人だと判明して、捜査が大きく進展したわけです。さらに、リコーダーは本間柊人が小学校時に使っていた品物であり、妹の桃佳の供述によれば、本間柊人にとってとても思い出深い、掛け替えのない品物だったみたいですね」
「でも、それだけのことで、何か分かるのですか」
「分かります。なぜなら、リコーダーを弾崎灯台まで持っていったのは、犯人だからです。
先ほど推理したように、今回の事件で、犯人は事務所にやって来た時分には、本間柊人を殺害するつもりはありませんでした。にもかかわらず、本間柊人のリコーダーを弾崎灯台まで運んでいます。明らかに何らかの意図が、そこには存在したはずです。
さて、肝心のリコーダーですが、犯人はどうやって手に入れたのでしょう?
そうです。リコーダーは、本間柊人の事務所に置いてあったのです。おそらく、思い出の品ということで、どこかに陳列されてあったのではないかと思われますが、私の記憶では、サイドボードのガラス戸棚の中に、不自然な空間がありました。もしかしたら、リコーダーはそこに飾ってあったのではないでしょうか」
「たしかに、そのような空き場所がありましたね」
烏丸もサイドボードのガラス棚の中に何も置いてないスペースがあったことはうっすらと覚えていた。リコーダーが楽器用の飾り箱へ入れられて、そこに展示してあったと考えれば、なるほど、すっきりする。
「問題は、犯人がなぜリコーダーをわざわざ遺体のそばへ置いたのか、です」突然、鴇松が考え込むようなそぶりを見せた。
「理由が分かりませんか?」
「ええ、そこはさっぱり……」
烏丸の問いかけに、答えを用意していないことを鴇松は素直にみとめた。「ただ、犯人にとっても、リコーダーが何らかの意味を持つアイテムであった可能性はあります。
いずれにせよ、犯人は、本間柊人が小学校時代の思い出の品として、リコーダーを事務所のサイドボードで大切に保管している事実を、知っていた人物です」
「鴇松警部補、ありがとうございます。おかげで、また明日から捜査に集中できそうですよ」
烏丸が目を輝かせながら、礼をいった。それを見て、鴇松は嬉しそうにうなずいた。
「それは何よりです。まだ先は長いですが、わずかながらも、犯人像の片りんが見えてきましたね。でも、それらを考慮すればするほど、どうしても気になってしまう人物が、私にはひとり浮かんでいるのです……。
今日はもう遅いからやめておきますが、どうです、烏丸巡査部長、いっしょに明日の土曜日に、その人物を訊ねてみませんか?」
「もちろん、ご同行させていただきますよ」
突発的な鴇松の提案に、烏丸は快く承諾した。