5.捜査会議
「きつね、たぬき、さる、ねこ、つばめ、かえる、とんぼ……」
紙くずに書かれた文字を、鴇松は繰り返した。
「しりとりではありませんね。何かの暗号でしょうか?」烏丸も腕組みをしたまま、首をかしげている。
「執筆に使用されたのは、おそらく、デスクのペン立てにさしてあったペンですね。それと、鑑定にかけなければいけませんが、筆跡から判断するに、本間柊人本人が書いたものでまず間違いなさそうです」鴇松が憶測を述べた。
「すると、何かメモを残したくて、本間柊人はこの紙くずに書いたんですかね」
「そうですね。ただ、ファイルがきちんと丁寧な文字で書かれてあったのに対し、この紙に書かれてあるのは殴り書きっぽいですし、終わりに書かれた数文字のインクがにじんでいます。きっと、書いてからすぐに丸めて、くずかごへ捨ててしまったのではないでしょうか」
「もしかすると、ダイイング・メッセージかもしれませんね」烏丸が意気込んだ。
「さあ、どうでしょう。ダイイング・メッセージなら、もう少し分かりやすい言葉を選ぶでしょうし。これじゃあ、いっちゃあなんですが、判じ物ですよね」そういって、鴇松はため息を吐いた。
翌日十日の訊き込みで、有力と思われる情報があった。事務所近隣の住民が、事件が起こった八日の午後八時頃、飼い犬の散歩がてら事務所前を通行していて、その時には車庫のシャッターが開いていて、中に本間柊人の車が一台だけ停めてあった、と証言したのだ。あたりにほかに車がなかったか、と訊ねられると、路上に見知らぬ車は一台もとまっていなかった、と住民は強く断定した。さらに住民は、事務所はカーテンが閉められていたが、なにやら人が話し合う声が聞こえてきた、とも証言したのだが、本間柊人の相手の人物の声の特徴はなにか分からないか、と問われると、話し合いをしていたのは間違いないが、もう一人については、男女の判別さえも確信が持てないと、その点に関しては、極めてあいまいな返事しかなされなかった。
八月十一日の午後二時、旧真野町地区にある佐渡警察署の会議室にて、鴇松と烏丸をはじめとする捜査一課の刑事や鑑識課の代表者らを交えて、弾崎灯台の不審死事件に関する会議が行われた。
「ええ、亡くなっていたのは、本間柊人――。年齢は二十九歳。職業は弁護士で、金井町で法律事務所を開いており、同時にそこに住んでいます。妻子はなく独身。若くしてワンマン法律事務所を経営する、いわばスーパーエリートです。仕事ぶりはそつがなく、おおむね順調だったようですね。
事件が発覚したのは、八月九日午前七時二十分頃、遺体発見現場近くの住民が、弾崎灯台の真下に転がっている遺体を発見しました。遺体の後頭部には打撲痕があり、それが直接の死因であったと、鑑識からは報告されています。解剖の結果から推定される死亡時刻は、前日八日の午後八時から九時のあいだです。
遺体はYシャツとスラックスを着用しており、現場には本人の所持品と思われるリコーダーがひとつ落ちていました」
烏丸がリコーダーを話題にすると、かすかに聴衆がざわめいた。
「ええ、小学校の授業で使われている、ごく普通のリコーダーです。
さらに、有力な目撃情報がありまして、九日の深夜、午前一時半から二時のあいだだったそうですが、灯台の方から不審な人物がやってきて、県道に停めてあった車で、現場から立ち去る姿を、近くで宿泊していた第三者が目撃しております」烏丸がここまで説明した時に、若手刑事から質問が飛んだ。
「ちょっと待ってください。それだと、犯人は九時に犯行を終えてから、二時まで現場で居残ったことになってしまいますが……」
「それに関しては、我々は独自の見解を持っておりまして、これから説明いたします」烏丸は冷静に応対した。
「さらに、目撃者の話によれば、不審な人物は鬼の面をかぶっていたそうです」
「鬼の面ですか?」先ほどの刑事が思わず声を発していた。
「はい、鬼太鼓で使う面でして、どうやら身元を隠すためにかぶっていたみたいです」
この発言と同時に、やけに用心深い犯人だな、と笑い声が聴衆たちから巻き起こった。烏丸は咳払いをすると、話を進めた。
「先ほどのご指摘に対する答えですが、我々は、犯行が金井町の法律事務所で行われたのちに、犯人によって、遺体が弾崎灯台まで運ばれたものと、推測しております」
「何か、それを裏付ける根拠があるのですか?」
「はい。まず、死亡推定時刻から犯人の姿が目撃されるまでの五時間ほどのタイムラグが、合理的に説明が付きます。ほかにも、金井町の事務所内で本間柊人の血痕が見つかっておりまして、さらにはガレージにあった車のトランクの中からも本間柊人の血痕が見つかりました。これら事実は、ガレージにあった車で、犯人が犯行後に遺体をトランクに詰めて移動したことを裏付けるものであります。車内の距離メータには、給油後に九十キロを走行した痕跡が残っておりまして、それは金井町から弾崎灯台を往復した距離とだいたい一致します」
「しかし、それだけでは、確定的な根拠にはならないでしょう?」
「もう一つ、決定的と思われる事実があります。県道45号線の交差点に設置された路上防犯カメラに、本間柊人の車庫にあった車が走行しているのが写っていました。残念ながら夜間でもあって、運転している人物の姿までは確認できませんでしたが、通過時刻は行きが零時三十三分で帰りが二時五十一分でしたから、弾崎灯台への往復の途中だったとすれば、どちらもピッタリつじつまが合います」
「なるほど。でも、なぜ犯人はそんな遠くまで死体を移動させるような、わざわざ面倒なことをしたのでしょうね」
「さあ、それは分かりません。もしかしたら、犯行現場が事務所である事実を隠したかったのかもしれませんね」烏丸は、軽くかわした。
「容疑者はいないのですか?」
「今のところ、有力な容疑者はおりませんが、今後の捜査しだいで出てくることでしょう。
なお、被害者の身内ですが、妹である本間桃佳、二十三歳と、母親の本間和代、五十三歳の二人しかいません。赤泊村の川茂部落に二人で住んでいますが、父親は七年前に病気で亡くなっています。
そのほかで気になることといえば、被害者の事務所の業務ファイルから一部が盗まれた形跡がありまして、犯人が持ち出したのかどうかまでは分かりませんが、犯人にとって都合の悪いことが書かれていて、隠滅目的で持ち去られた可能性は十分に考えられます。
あとは、くずかごの中から奇妙なメモも見つかっております。本間柊人の筆跡で書かれた文字で、きつね、たぬき、さる、ねこ、つばめ、かえる、とんぼ、と、七匹の動物が羅列されていました。この文章と事件とが直接関連しているかどうかは、まだ不明です」
会議はこのあともしばらく続いたが、決定的な決め手も見出せぬまま、ほどなく幕を閉じた。
通夜の会場でたまたま出会った計良美祢子から車で送ってもらい、里子と梢が家へ到着した時刻は、八時をもう過ぎていた。
梢の家は、最寄りの舗装道路から分かれて軽い下り坂となっている砂利道をすすみ、大きなユズリハの木の下で静かにたたずむ五段の石段をおりると、母屋のほかに、蔵と納屋と農機具小屋の合わせて四つの建物で囲まれた日当たりの良い庭を突っ切って、ようやく玄関口までたどり着く。背の高い防風林と竹やぶが敷地の四方を完璧に取り囲んでいるので、外の舗装道路から屋敷の中の様子を垣間見ることはできない。
小さな鍵穴になかなか鍵がさせなくて、玄関の開錠に里子がもたつくのも、いつものことだ。年のせいで目も相当悪くなっているし、ましてやこの暗闇ではいたしかたなかろう。梢は黙ってうしろから様子を眺めているが、もし代わって自分が開けると申し出れば、里子が機嫌を悪くして、かえって事態がこじれることは長年の付き合いで分かっている。
そもそも梢が子供の頃には、外出する時に家の鍵など掛けなかった。近所にそんな悪さをする者はいないはずだし、面倒くさくもない。ただ、梢たちが女の二人暮らしであることは、部落内の周知の事実だし、万が一をも考慮して、留守に鍵をかける習慣が最近は定着している。
「梢、こずえー」里子の部屋から梢を呼ぶ声がする。
母屋の一階には、囲炉裏がある大きな台所のほかに、全部で八個の部屋がある。一番大きな十八畳の広間が、玄関から入ってすぐのところにあるのだが、太い梁が天井をささえていて、はるか遠くに見える天井は黒く煤けている。最近は全く使っていないが、昔使っていた囲炉裏から立ちのぼる煤がこびりついた名残だそうだ。
広間で一人テレビを見ていた梢は、やれやれとばかりに立ち上がると、廊下を歩いて、祖母の部屋をのぞき込んだ。ここにもテレビは置いてあるのだが、今はついていなかった。
「どうしたの、おばあちゃん?」
「梢か。今日の新聞はどこにあるっちゃ?」
ああ新聞か……。そういえば、今日は通夜に行かなきゃとそればっかり考えていたから、すっかり取りに行くのを忘れていた。
「もう遅いし、明日取って来るわ」と、梢は答えたが、
「いや、今取ってこいさ。すぐそこじゃけ……。
新聞がねえと、今日見るテレビが分からんちゃ」と、里子から軽くたしなめられた。
新聞は、集落の入り口にある『甚五郎』という屋号の民家の軒端に、置かれてある。
新聞配達員は、集落の契約者全員の新聞を甚五郎まで届ける。そして、それぞれの家々が、好き勝手な時間に、甚五郎の家まで新聞を取りに行くのだ。一軒ごとに新聞が配達されるという世間の一般常識が、ここ佐渡の田舎では通用しない。島内で新聞が発行されているわけではないので、新聞は本土から毎朝フェリーで島まで運んできて、それから各地区へ仕分けされて配達されるのだ。だから、甚五郎の家に朝刊が届くのは、だいたい十一時頃となる。ちなみに、このシステムゆえ、配達されるのは、夕刊がなくて朝刊だけのバージョンの新聞である。
味噌舐め地蔵の前を、いつもどおりに左へ曲がって、鍛冶屋のバス停へ向かって少しだけ道を進むと、間もなく甚五郎へ出る。一つだけ残った新聞が、マジックで『采女』と書かれたビニール袋に入って、置いてある。采女とは、梢の家の屋号のことだが、同時に、この集落の部落名にもなっている。つまり、梢の家はこの部落を代表する豪家なのだ。
祖母の話によれば、梢の祖父は豪家の跡取りで、医者でもあったが、梢の母が生まれてすぐに、若くして病気で他界した。祖母は元々相川町の出身だったが、ここ赤泊村まではるばる嫁いできたそうだ。一方で、梢の両親は、梢を祖母に預けたまま、海外の勤務先でたまたま乗り合わせたバスが事故に巻き込まれて、二人ともあっけなく死んでいる。
取ってきた新聞を祖母に手渡そうと部屋まで行くと、祖母は机に突っ伏したまま、すやすやとうたた寝をしていた。祖母の背中にそっと毛布を掛けてやると、梢は広間へ戻って、テレビをつけた。なにげなく新聞を眺めた梢であったが、ある記事に目が止まり、驚愕のあまり、思わず声を張り上げそうになる。
記事には、金井町の若手弁護士の遺体が弾崎灯台にて発見される。自殺・事故・事件の可能性を視野に、警察がただ今捜査中。弁護士の名前は、本間柊人(29)――、と書かれてあった。