4.法律事務所
「灯台の方から走ってきたのは、人ではなくて、鬼であったと……」思わず、鴇松が身を乗り出したのも無理もなかった。
「そうですよ。なにしろ真夜中のことですからね。刑事さん。僕がどんなにびっくりして寿命を縮ませたことか、想像できますか?」
大真面目な顔で、高橋は受け答えた。
「それは察するに余りありますよ。しかしながら、この世の中に実際に鬼などというものが存在するなんて、私にはにわかに信じられませんが」
「正確にいうと、鬼の面をかぶった人だったのですけどね……」
「鬼の面?」
「ええ、たしか、佐渡でよくお祭りの時にかぶっている、あの鬼の面だと思います」
高橋のあいまいな返答に、烏丸巡査部長が横から反応した。
「それは、おそらく『おんでこ』の面でしょうね」
「おんでこ……?」鴇松が聞き返す。
「鬼に太鼓と書いて、鬼太鼓と呼んでいます。太鼓の勢いある音に合わせて、鬼の面をかぶった若者が舞を踊って、五穀豊穣の祈りや厄払いをするのです。春から秋にかけて各地の部落で催される、佐渡の伝統芸能ですよ」
「つまり、灯台から走ってきた人物が、鬼太鼓の舞で使われる鬼の面をかぶっていた、ということですね」鴇松はようやく納得をしたようだ。
「要約すれば、そうなります。でもね、刑事さん。鬼の面をかぶった男が、仮に殺人をやり遂げたばかりで、ちょうど逃げる途中であったとしましょう。だとすると、もしもばったり出くわしていたなら、僕は間違いなく殺されていたことでしょうよ」
「あなたが物陰へとっさに隠れたのは、すこぶる賢明なご判断だったということですね」鴇松が軽くなだめた。
「それにしても、犯人はどうして鬼の面などかぶっていたのでしょう」烏丸が訊ねた。
「少なくとも、予期せぬ通行者に素顔を見られてしまうことを、未然に防いだ行為にはなったようですね」鴇松が冷静に答えた。「ところで、鬼太鼓の鬼の面って、誰でも簡単に手に入れられるのですか。その……、各集落の催事に用いられるものであれば、公民館とか神社で普段は大切に保管されているはずですよね」
「鬼太鼓は、もはや佐渡の代名詞となっていますからね。お土産屋などで、鬼の面も普通に販売されています。誰でも簡単に手に入れられますよ」と、烏丸が答えた。
「かなり高価なのでは?」
「それもピンキリでしょうね。いいものになると、マニアにはたまらない品物なんじゃないでしょうか」
「それにしても、普通に歩いていただけで鬼に出くわすなんて、まあ、いっちゃあなんですけど、そんな物騒なことが起こり得るのは、佐渡か秋田くらいしかないですよね。はははっ」
高橋が急に冗談めいたことをいい出した。愛知県の奥三河地方でも普通に鬼が現れてきそうな雰囲気がありますよと、喉元まで出かかったコメントを、鴇松は我慢して飲み込んだ。もっとも、車に乗って現場から立ち去ったという事実から、少なくともこの謎の不審者が本物の鬼でないことは、鴇松は確信していたのだが……。
高橋の話を訊いたあと、鴇松たちはとって返して、金井町にある本間柊人の弁護士事務所までやってきた。大佐渡と小佐渡にはさまれた佐渡島の中央部の土地は、真っ平らな平野となっている。そこを横断する国道350号線から少し脇道へそれた、比較的にぎわっている場所に、本間柊人の事務所はあった。事務所は、二階のある一戸建てで、玄関口に掲げられた法律事務所の看板がなければ、普通の民家と区別ができなかった。間取りは極めて狭く、一階の半分が車庫で占められていた。もう半分が接客室となっていて、二階は寝泊まりなどの生活の場として使われていたみたいだった。
秘書を雇うこともなく、経営は完全なワンマン体制だったようである。
鴇松が駆けつけた時には、すでに二台のパトカーが正面の細い道路に停められていて、見張りの巡査が立っていた。鴇松と烏丸が事務所へ入ると、中では数名の警察官が指紋の採取など現場の調査にいそしんでいた。
「複数の人物の指紋が見つかりました。もっとも多いのが、たぶん被害者本人のだと思われますが」鑑識警察官の一人が、烏丸に現状を報告した。
「弾崎灯台にあった遺体の指紋を調べれば、それもすぐに判明するだろう。とにかく、全部を控えといてくれ」と、烏丸は部下に指示を出しておいてから、「指紋はいちおう取り終えたみたいですが、その辺のものを手に取っていただく時には、必ず手袋の着用をお願いします」と、鴇松には注文を加えた。
鴇松は部屋の中をぐるりと見まわした。入ってすぐのところに大きなコピー機がある。奥の突き当りには、大きなデスクが置いてあって、ステンレス製のレターケース、それにペン立てが乗っていた。その背後の壁には、大きな額縁に入れられた司法試験の合格証書が飾ってあった。発行日はおととしとなっている。中央には小さなテーブルがあって、向かい合ってはさむようにソファが配置されている。片方は二人掛けで、もう片方には一人掛けが二つ並んでいた。
側面の壁には、二人掛けソファの真正面に、油絵の絵画の額が飾られてあったが、そんなに高価なものではなさそうだ。おそらく模写であろう。反対側の、一人掛けから真向いとなる壁には、月めくり式のカレンダーと振り子時計が掛けてあって、時計の時刻は午後八時を刻もうとしていた。カレンダーは曜日と日にちのみが記されたシンプルなものだが、各日にちの枠ごとに短いメモが残せるようになっている。ただ、今日は八月九日なのに、なぜかカレンダーが九月になっていて、メモ欄には何の予定も書かれてはいなかった。
時計から少し離れたところに、何かを引っ掛けるためのフックが取り付けられてあったが、今は何も引っかかっていない。
「なにを引っかけるためのフックですかな。帽子を掛けるには、少々高い位置のようですけど」壁のフックを見上げながら、鴇松が首を傾げると、
「そのようですね」と、烏丸が淡白に答えた。
デスクのすぐとなりに、台の上に置かれた小型のプリンターがあり、さらにその横に背の高い本棚があって、上部には法律関連の書物が多数並んでいた。本棚の下半分にはガラス扉が付いており、鍵が掛けられるようになっている。
「ここの鍵は、閉まっていましたか?」
鴇松がガラス扉を指さすと、「いえ、こちらへ来た時には、すでに開きっぱなしでした」と、鑑識警察官が答えた。
「扉の鍵は?」
「デスクの上に置いてありましたよ」
ガラス扉の中をのぞき込むと、とじ込みがパイプ式となっているぶ厚いケースファイルが七つしまってあって、そのうちの三つは書類が綴じ込んであったが、残りの四つは空の状態で、これからの依頼のために準備されているといった感じであった。
「そういえば、まだ事業を始めてから一年くらいしか経っていなかったんだったな……」と、鴇松は独り言をつぶやいた。
三つのケースファイルに束ねられたおびただしい用紙には、本間柊人が仕事で依頼をされた案件に関する詳細な調査内容が、活字で印刷されており、ところどころにカラフルな仕切りカードがとじ込まれていて、きちんと案件ごとにファイリングされていた。仕切りカードには、各案件のファイル番号と依頼された日付などが、手書きで記されてあり、中の用紙一枚一枚にもそれぞれのページ番号が、やはり手書きできちんと書かれてあった。
「ファイル番号は全部で17番までありますね。まだ開業して一年ちょっとくらいでしょうから、持ち掛けられた案件もせいぜいこの程度だったのでしょう。それにしても、一件一件が克明にまとめられてあります。さすがは天下の秀才といったところでしょうか」ケースファイルをペラペラとめくりながら、烏丸がいった。
「気になる内容はありませんか?」鴇松が訊ねると、少しの間をおいて、烏丸が答えた。
「いやあ、中にはかなりの極秘事項もあります。事件捜査のためという大義名分がなければ、とても見られない貴重なファイルですよ」
ファイルの中身は、遺族間の相続問題、借金トラブル、夫の浮気調査、離婚訴訟、交通事故の処理、不動産賃貸のトラブルなど、内容も多岐にわたっていた。
「ファイル番号の7番と15番の案件が抜け落ちています。それ以外のファイルは健在ですけど。何かの理由で破棄されてしまったようですね」
「あるいは、ここへ進入した者が持ち去ったか……」鴇松が、額に人差し指を当てながら答えた。
「すると警部補は、やはりここへ犯人が侵入したと思われるのですか?」
「ええ。ここが犯行現場である可能性が極めて高いと思っています。犯人はここで本間柊人と対面をしていて、何らかの事情で話がこじれ、本間柊人を殺してしまった。そして、遺体を鷲崎まで運んだのです!」
「それにしても、なぜ、鷲崎まで?」
「さあ、それは分かりません」
「警部補はどうしてそのように考えられたのですか?」
「カレンダーが九月までめくられていたからです。おそらく、八月の日付メモ欄に何かが書かれていて、それが犯人にとっては都合が悪い記載であったのではないかと推測されます。消すわけにもいかなかったから、やむなく犯人は八月のカレンダーをめくって、そのまま持ち去ったのでしょう」
「なるほど、犯人の名前を直接記した面会予定などが書き込まれてあったかもしれませんね」
「ですから、犯人は本間柊人に何かの調査を依頼していた人物か、あるいは逆に、本間柊人から調査をされて、何らかの弱みを握られていた人物と考えるのが自然ですね」
「すると、7番と15番のファイルがない理由も?」
「おそらく、犯人が意図的に持ち去ったのでしょう」鴇松が見解を述べた。
すると、うしろにいた鑑識の警察官が、突如、大声を発した。
「烏丸巡査部長、テーブルの角からルミノール反応が出ました。どうやら、付着していた血痕が拭き取られたみたいです」
「よりによってこの重たいテーブルを、犯人は振りかざしたんですかね」烏丸がつぶやくと、
「あるいは、突き飛ばされて、被害者がテーブルに頭を強く打ち付けたかですね」と、鴇松が返した。冷静に考えて、そちらの方がありそうに思える。
鴇松警部補はしばらく部屋の中を行ったり来たりしながら、とぼとぼと歩き回っていた。烏丸巡査部長は、部下とのやり取りも同時にしながら、鴇松を見守っていたが、いつまでも黙っているのでだんだん心配になってきた。
「警部補、そろそろ引き上げましょうか。あとは部下に任せておいて……」
烏丸は気を利かせたつもりだったが、鴇松はくるりとこちらを向くと、「烏丸巡査部長。ここには、本来あるべきもので、ないものがありますよね……」といった。
謎めいた鴇松の問いかけに、烏丸が困惑した。
「なんですか、それは?」
「パソコンです。本間柊人はすべてのファイルを活字で残しています。つまり、パソコンで文書が作成されたはずなのに、肝心のパソコンがこの部屋には置いてない」
「犯人が一緒に持ち去ったのかもしれませんね。ファイルケースの書類を破棄しても、パソコンにデータが残っていたんじゃ、元も子もありませんからね。それにしてもパソコンを持ち去るとは、さぞかし重くて大変だったことでしょうけど」
「持ち去られたのは、ノート型の小型パソコン、あるいはタブレットパソコンだったかもしれません。だとすれば、運ぶのにもさほどの労力を要しません。本間柊人のような最近の若者は、デスクトップ型よりもモバイル型を好みますからね」と、鴇松が指摘した。
「ガレージも少し覗いてみたいのですが」鴇松の提案で、事務所のとなりに併設された車庫を調べることにした。シャッターは閉まっていたが、横壁のスイッチを押すと、自動でシャッターが開いた。
「鍵は掛かっていないのか……」鴇松が少し意外そうな顔をした。
車庫の中は車が二台並べて停められる程度のスペースで、ど真ん中に濃紺のセダンが一台駐車してある。手袋をした鴇松がドアハンドルを引くと、あっさりと開いた。
「なんと。車にも鍵が掛かっていないのか。不用心だな……」思わず鴇松は愚痴をこぼした。
「車内に鍵がさしっぱなしですよ。これでは盗難に遭っても仕方ないですね」烏丸もあきれていた。
ステアリング台座横の鍵穴に、鍵はそのままささった状態となっていた。鍵にはキーホルダーが付いていて、別な鍵がもう一つ束ねられていて、のちに判明したことだが、車庫のシャッターの鍵であった。
「丁寧なファイリングをしていたことから察するに、本間柊人はかなり几帳面な性格であったと推測されます。そんな彼が、鍵をさしっぱなしで車を放置するでしょうか」
「仕事には几帳面でも、プライベートでラフな人間はいくらもいますよ」鴇松の問いかけに、烏丸が反論した。
「でも、もう一つの解釈があります。それは、鍵をさしっぱなしで車から去った人物が、本間柊人ではなかった、という可能性です」
そういって、鴇松は車へ乗り込んだ。しばらく中を調べていたが、途中でエンジンを一回かけて、すぐに切った。やがて、車から出てきた時には、満面の笑みを浮かべていた。
「車内にこんなものがありましたよ」そういって、鴇松は小さな紙きれを烏丸へ手渡した。
「ガソリン給油のレシートですね。ひゃあ、七千八百二十円か……。46リットルも給油していますよ」
「レシートの日付はいつになっていますか?」
「ええと、八月八日の午後四時四十七分となっています」レシートに目を通しながら、烏丸が答えた。
「ガソリンスタンドの住所は金井町、ここからすぐのところです」
「それがなにか?」
「たしか、鑑識の中川氏の話では、弾崎灯台で見つかった被害者の死亡推定時刻は、八月八日の午後七時から十一時の間でした。そして、同じ日の午後五時に、被害者はここ金井町の事務所周辺にいたことになります」
「なるほど、少々おかしいですね」
「そこで、私は車内の距離メータを調べてみました」
「さっき、エンジンをかけられたのはそのためですね」
「そうです。距離メータのうち、好きな時にゼロにリセットできるサブメータを見ると、九十キロ走行した数値を示していましたよ」
「それが意味するものは……?」烏丸が首を傾げた。
「本間柊人は几帳面な人物です。彼は、おそらく、給油をするたびごとに、サブメータをゼロにリセットしていたのでしょうね」
「いったい、なんのために」
「給油の際にいつもガソリンを満タンにすることで、車の燃費を毎回確認していたのでしょう。気にする人は、とことん気にするみたいですよ」鴇松が笑いながら答えた。
「でも、どうして満タンにしたと確信できるのですか」
「46リットルも給油しているからです。おそらく、警告の赤ランプが点灯してから給油をしたのでしょうが、この車ですと、タンクの内容量はせいぜい50リットル程度ですからね」鴇松が答えた。
「なるほど。見事な推理です」烏丸が感心した。
「そして、サブメータが九十キロを示していた。すなわち、この車は給油をしてから、さらに九十キロも走行しているのです。本間柊人が給油してからわずか数時間後に殺されているにもかかわらずね」鴇松の声が一段と鋭くなった。
「そうですね。実におかしい……」
「ここから鷲崎までは、どのくらいの距離がありますか?」逆に鴇松が訊き返した。
「四十キロくらいでしょうか」
「すると、鷲崎まで往復をしてきて、ちょうど良い距離が九十キロですよね」
「つまり、犯行がここで行われて、被害者はこの車に乗せられ、鷲崎まで運ばれたと……?」烏丸巡査部長が目を丸くした。
「そう考えれば、すべてのつじつまが合います。車内座席とトランクのどちらかに血痕が残っていないか調べてみてください」
「はい、さっそく部下に手配いたします」
ちょうどその時、警官が一人、事務所から走って出てきた。
「烏丸巡査部長、見てください。
部屋のくずかごの中に丸められて捨ててあった紙くずですが、なにやらペンで書かれてあります」
警官はしわしわになった紙を、烏丸に手渡した。それを見るなり、烏丸は眉間にしわを寄せた。
「なにが書かれていますか?」鴇松が横からのぞき込んだ。
「それが、警部補、変なんですよ。
何かのメモのようですけど、ぜんぶ動物の名前ばかりが羅列されてあるのです」
「動物だって?」
受け取った紙くずを手で伸ばしながら、鴇松も中身を確認する。
そこに記されてあったのは、『きつね、たぬき、さる、ねこ、つばめ、かえる、とんぼ』と、何ともおかしな七匹の動物名だった。