3.二ツ亀海水浴場
本間柊人の遺体は、遺族の了解を得てから、解剖をするために検死へ回された。通夜が数日は遅れてしまうであろうことを告げられた母親は、しばし放心状態になっていたが、娘にささえられて、ようやくたどりない足取りで歩き始めた。
母娘から聞いたことを総括すると、本間柊人は、中学・高校と成績優秀で、新潟大学の法学部へ進学をし、首席で卒業をすると、司法試験に一発合格して、一年の司法修習期間を経たのちに、晴れて弁護士となり、さらにはタイミング良く、ある個人事務所を経営する弁護士が急逝したのを機に、ただ同然の金額で金井町にあった建物や物件を買い取って、若くして個人事業の法律事務所を開いた、スーパーエリートであったらしい。
「ペリイ・メイスンのような法廷弁護士にあこがれて、弁護士になる若者は多いですが、佐渡のような離れ小島で弁護士事務所を開いたところで、せいぜいやって来る客なんて、浮気調査か、債務不履行の後始末くらいなもんですよ」烏丸がさりげなく皮肉を唱えた。
「すると、万事が順風満帆に進んだ本間柊人であっても、しかりということですか」鴇松が聞き返すと、烏丸は黙ってうなずいた。
本間母娘が帰ってしまうと、鴇松は鑑識官の中川を再度呼び寄せた。
「遺体がどこか別の場所で殺されて、あとからここまで運んでこられた可能性はありませんかねえ?」
「どうして警部補はそのように考えられたのですか?」逆に中川が訊き返してきた。
「いやね。こんなさびしい最果ての地までやって来て、わざわざ自殺をするのも、どうもしっくり来なくてねえ……」
「同感ですね。これが殺人だとすれば、なんらかの事情で、被害者はここで犯人と人目を忍んで密会を行い、そこでなにかがこじれて殺されてしまった、というシナリオも考えられますが、自殺となるとねえ。まあ、被害者がどこか別の場所で殺されて、遺体がここへ運び込まれた可能性は否定できませんよ。すべては解剖の結果次第ですけどね……」
「とにかく待つしかないということですか」そういって、鴇松は苦笑いをした。
「まずは本間柊人の法律事務所へ行ってみたいな。何か事件の手掛かりが見つかりそうな気がするんだ」鴇松が烏丸に声をかけると、
「本間柊人の弁護士事務所には、すでに警官数名を送り込んでいまして、一般人は立ち入り禁止にしてあります」と、烏丸巡査部長が答えた。
「さすがですね……」鴇松は烏丸の手際のよさに感心した。「それではさっそく行ってみませんか」
「分かりました。では、パトカーまでまいりましょう」そういって、烏丸は先導して歩き始めたが、突然、内ポケットのスマートホンが鳴り出した。
「烏丸です。ああ、なにか分かったのか?」スマートホンを耳にかざした烏丸が問いかけた。「なに? 場所は? ふむ。二ツ亀海水浴場……。なんだ、すぐ近くじゃないか。ただちに行くから、待機させておけ。そうだな、二十分と掛かるまい」
通話を切った烏丸は、慌てて、前を歩く鴇松を呼び止めた。
「鴇松警部補。たった今、部下から電話がありまして、昨晩、犯人らしき人物を目撃したと証言する男性が見つかりました。目撃者がいる場所は二ツ亀海水浴場で、ここから目と鼻の先ですから、急いでそちらへ向かいましょう」
弾崎灯台から西へ二キロほど進んだ先、車で行けばほんの一瞬なのだが、そこには人気の海水浴場がある。
二ツ亀海水浴場――。
大きな地図で見れば、弾崎灯台と並んで、ここも佐渡の北端を担っているといえよう。こんな北の端っこに海水浴場があったところで、さぞかし寂れたところであろうと、誰しも思うことだろうが、驚くなかれ。ここは日本の海水浴場百選にも選ばれており、先ほどの、最寄りの県道での車の通行が皆無であった弾崎灯台から、わずか二キロしか離れていない広い駐車場には、なんと満車と表示された紙が、白昼堂々貼りだされてあるのだ。今日は天気も良いからなおさらで、駐車場の手前で空きを待ちながら並ぶ数台の車を、サイレンを鳴らしながら一気に追い抜いて、駐車場へ入場する気分は、まさに痛快極まりなかった。
パトカーから降りてみると、赤いとんがり屋根の特徴的な建物が見える。二ツ亀ビューホテルである。晴天の青い空と、きれいに手入れがなされた芝生の緑を背景に、赤い建物が美しいコントラストを解き放っている。建物の脇を通り抜けて、先へ進むと、長い石段が横たわっていた。少し下りていくと、キャンプ場にぶち当たる。すでにいくつかのテントが張られてあって、子連れの若い夫婦がいそいそと食事の支度をしていた。
キャンプ場の広場は小高い丘となっていて、先端が切り立った断崖となっている。断崖へ近づいて、海を見下ろすと、二ツ亀と呼ばれる大きな二つの岩が、海岸の白い砂浜から少しばかり海へ入ったところに、悠然とした姿でたたずんでいる。大岩といっても、それはもはや小さな山であって、下半分は荒波に削られた茶色い岩肌を露出しているが、上半分は鮮やかな緑の草原となっている。二ツ亀岩と海岸砂浜との合間に横たわる海は、太陽光の当たり方のせいなのか、見事なまでのエメラルドグリーンになっていて、ピカピカと輝いていた。その美しさたるや、まるで万華鏡を見るがごとしといった感じであった。
海水浴客たちが開くたくさんのカラフルなビーチパラソルが、まるで満開の花園のように、砂浜で咲き乱れている。断崖絶壁の急斜面を、ジグザグに折り返しすように設置された石段を下っていくと、途中で、海岸から上ってきた海水パンツ姿の男とすれ違った。背こそ小柄だが、胸板の筋肉はなかなかのものであった。かなり急いでいる様子で、上り坂がきついのか、ぜいぜいと息を切らしていた。
ようやく砂浜まで下りてきた。腕時計を見ると、時刻はもうすぐ四時を示そうとしている。下り坂しかなかったのに、鴇松の背広の中は、汗でだくだくとなっていた。砂浜はまだ多くの海水浴客でにぎわっている。丸い黒縁眼鏡を掛けた巡査が、鴇松らに気付いて、駆け寄ってきた。
「鷲崎交番勤務の加藤巡査であります。お待ち申し上げておりました」巡査が鴇松に敬礼をした。
「それで、目撃者はどこにいる?」烏丸巡査部長は、周りの海水浴客たちの視線に気遣いながら、小声で加藤巡査に訊ねた。
「はい、今さっきまでこちらで泳いでおりましたが、たった今、用事があるとかなんとかで、急ぎ足で泊まっている宿へと戻っていきました」巡査があっさりと答えた。
「なんだって? すぐに行くから待たすようにと、さっきいっておいたじゃないか?」でかい図体の烏丸が威圧的に怒鳴りつけたので、がたいが小さな加藤はさらに委縮した。
「申し訳ありません。でも、しかし、目撃者から連絡先はちゃんとうかがっております。藻浦部落にある『夕凪荘』という民宿旅館で滞在中とのことです」
「藻浦か……。じゃあ、来た道のまた引き返しですね」烏丸がため息を吐いた。
「でも、ここまで来た道に、家など一軒もなかったですよね」
思わず鴇松が訊ねてしまったのも無理もなく、弾崎灯台から二ツ亀海水浴場までの道中は、海と田んぼと雑木林しか、鴇松の目には入ってこなかった。
「それがあるんです。善は急げと申します。早速行ってみましょう」
いま下りて来たばかりの石段に、鴇松は再度目をやった。ほぼ垂直に切り立った断崖は、こうしてみると、50メートルほどの高さがあるように見えた。鴇松たち一行は、石段を上って駐車場へ戻ったが、さすがに最後は三人ともへとへとになっていた。
藻浦集落は、来る途中の、指摘されなければ気付かなかった細いわき道から、海へ向かって少し下った先にあった。実際に、二ツ亀海水浴場にあった断崖は、このあたりまでずっと続いていて、その断崖と海岸との間にできた猫の額ほどのわずかなすき間に、へばりつくように細長くたたずむ漁師集落であった。
集落全体は軽くカーブを描いており、北側には荒波の海が延々と横たわり、背後の南側には高さ50メートルの断崖絶壁がでんとたたずんでいる。折り重なるような家々の中、夕凪荘はすぐに見つかった。
「あちらに二ツ亀の岩が見えますな」額に手を当てて西日をさえぎりながら、鴇松は海を見つめた。夕凪荘に入ると、宿主が目撃者の男を呼びに二階へ行ってくれた。階段から降りてきたのは、なんと先ほど鴇松たちが二ツ亀海岸へ下りる途中ですれ違った男ではないか……。
「ああ、刑事さん、もうやって来たのですか」男は呑気な返事を返した。ついさっき、鴇松たちとすれ違ったことには、全く気付いてはいない様子であった。
「新潟県警の鴇松です。ちょっとお話を伺いたいのですが、お時間はよろしいですか」
「これからスポーツ中継を見たいと思って、急いで海からここまで戻ってきたんですけどね。でも、どうやらそんな悠長なことはいっていられなさそうですね」
「なんでしたら、ここで待たせていただきますよ」
鴇松が丁寧に返すと、
「いえいえ、それには及びません。こうなったらなんでもお話ししますよ」と、男は軽く答えた。
宿主の許可を得て、鴇松たちは玄関口の広間まで上がらせてもらい、そこで話を聞くことになった。広間は窓が開けっぱなしで、エアコンはなく、首振り扇風機の風が、時間差を置いて、ときおり顔に吹き付けてくる。
その時、鴇松の顔の前を、熊蜂のような大きな羽音を立てた虫が、一匹飛んでいった。鴇松が腰砕けになるのを見て、烏丸は必死に笑いをこらえていた。
「警部補、アブですよ。アブ……」
「アブですか? それって人を刺すんじゃないですか?」
「ええ、人や家畜の血を吸う時に、アブは刺します。おや、そこへ止まりましたね」
窓枠のカーテンに、ハエをどでかくしたような、不気味な茶色い虫が止まっていた。烏丸はそっと近づいて、右手を伸ばすと、背後から指でふっとつまんで、難なくその虫を取り押さえた。
「はははっ、アブは人を刺しますが、蜂のように飛びながら刺すことはありません。人の肌に止まって、少し間をおいてからでしか、刺すことができないのですよ。だから、こうやって捕まえてしまえば、ちっとも怖くはありません」
烏丸の説明に、鴇松は、間が悪そうに、待たせている男へ薄ら笑みを浮かべた。
男は高橋と名乗った。埼玉県在住の独身の会社員で、夏季休暇を利用して、ネットで知った佐渡の二ツ亀海水浴場へ、三泊四日の計画でやって来たとのことだった。
「本当に殺人だったんですか?」ソファーにでっぷりと腰かけた高橋が訊ねた。
「少なくとも、遺体は見つかりました」そういって、向かい合う椅子に鴇松もそっと腰を下ろした。
「そうですか……」高橋は、遺体という言葉にあまり過剰な反応を示す様子もなかった。
「あなたは殺人を目撃されたのですか」今度は鴇松が訊ねた。
「いえ。犯人と思しき怪しげな人物とすれ違っただけです」
「いつ、どこで?」
「昨日の深夜です。昨晩は、佐渡までやって来られたうれしさのあまり、布団の中でなかなか寝付かれませんでしてね。ふと時計を見たら一時半を過ぎていましたけど、いっそのこと外をぶらぶらと散歩でもしてやろうと、こっそり宿から抜け出したのです。
道路に車は一台も走ってはおらず、あたりはひっそりと静まり返っていて、虫の鳴き声しか聞こえてはきません。街灯などはなく、懐中電灯も持ってこなかったので、足元さえも良く見えないしまつでしたよ。でもね、刑事さん……。佐渡の夜空は本当にすごいですよ。なにしろ、アンドロメダ座がはっきりと見えるのですからね」
「アンドロメダ座?」鴇松はキョトンとした。
「あれ、刑事さんは知らないのですか。アンドロメダ王女は、ギリシャ神話に登場する絶世の美女ですよ。あまりに美しいので、母であるエチオピアの王妃カシオペアが、『我が娘は、女神ヘラよりも美しいことでしょう』とうっかり失言をしてしまったため、女神ヘラの怒りを買ってしまい、ヘラは海の神ポセイドンに命じて、怪物カイトスを解き放たせて、エチオピアに洪水を引き起こさせたのです。そして、ヘラはエチオピアに次なる神託を告げるのです。『神をも恐れぬいやしき人間どもよ。さらなる災いを鎮めるためには、王女アンドロメダを鎖でしばって海の岸壁へつなぎ、カイトスの生贄として捧げよ』とね」高橋はふんと鼻を鳴らした。
「アンドロメダ座は、鎖でつながれてあおむけに横たわるうるわしき処女、アンドロメダ王女を表現した形状をなしているのですが、なにぶん暗い星が多くてね。都会では明るい星がせいぜい一、二個見える程度ですが、いやあ、佐渡の満天の星は素晴らしいですよ。手足の先の隅々まで、なまめかしい姿をしたアンドロメダ座の全貌が、ありありと拝めましてね。思わず僕は興奮していましたよ」
話しぶりからして、この男、相当の星座マニアか、女神フェチのようである。いずれにせよ、精神年齢こそ実年齢より幼稚かもしれないが、知的水準もそこそこで、利害関係的にも第三者である高橋の証言は、十分に信頼ができそうだと、鴇松は直感で感じていた。
「灯台がすぐ近くにあるというので、ちょいと見てみたくなりましてねえ。よしとけばいいのに、真夜中なのにのこのこと見に行ったんですよ。どうせ誰もいないだろうと高をくくっていましたが、灯台の灯りを目指して雑木林の合間の小径を歩いていくと、灯台のほうから一人、誰かが走って来る姿が見えて、びっくりしましてね。思わず木陰へ隠れました。どうして隠れたのかと聞かれても、さあて、どうしてですかねえ。なにしろとっさのことでしたから。まあ、こういう場合って、相手の素性が知れぬ以上は、むやみに挨拶を交わす必要はないですしね」
「やって来た人物はどんなでしたか?」鴇松が訊ねた。
「男が通り過ぎていきました。かなり急いでいる様子でしたよ。木陰に隠れた僕に気付いた様子はありませんでしたね。そのまま道路に停めてあった車に乗って、さっさといなくなってしまいました。
車の車種ですか。いや、すみません刑事さん。全然覚えていません。形状からさっするに、普通の車だったような気がしますけど、あまり注意を払ってはいなかったのでね。色ですか? そうですね。白ではありませんでした。そいつは間違いありませんよ。わりと濃い感じの色でしたけど……」
どうやら、高橋はしゃべり出すと止まらないタイプのようであったが、おかげで鴇松は昨晩の高橋が見たものを鮮明にイメージすることができた。
「刑事さん、勘弁してくださいよ。なにしろ、星の光しか灯りがない、漆黒の闇夜ですからね」高橋は車の色の判別ができなかったことの言い訳をこぼした。
「えっ、男かどうかですか? そいつは間違いなく男でしたよ! どうして、はっきり断言できるかですって? それは……、どう見たって、あれは男に違いありませんよ。なにしろ、僕よりも背が高かったですしね」
高橋はさほど背が高い方ではなかった。それに話の内容から察するに、高橋と謎の人物との距離はいくらか離れていたことになる。
「男に扮装した女性ではなかったかですって。いやいやいや、刑事さん。さすがにそれはありません。でも、断言できるかといわれれば、断言はできません。90パーセント以上の確率で、男であろう、とでも受け取ってください。こんなことで偽証罪を押し付けられてはたまりませんからね。まあ、そいつが故意に男装をしていたというのなら、通りすがりの僕に見抜けるはずもありませんからねえ。
でも、刑事さん。逆に問い返しますけど、誰も通行するはずのない深夜のさびれた灯台で、そんなことに気づかって変装などする価値が、どれほどあるのでしょうかねえ」
たしかにいわれてみればその通りだと、鴇松警部補は思った。
「では、せめてその人物の人相くらいは、分かりませんかねえ」
いよいよ最も重要な質問だ。とにかく、犯人の人相がはっきりしさえすれば、この暗闇の沼地を手探りで進むような難解な捜査も、一気に全貌が見えてくるかもしれない。期待のあまり、鴇松は身を乗り出して訊ねたのだが、
「残念ですが、刑事さん。僕には犯人の人相がきちんと説明することができないのです」
想定外の高橋の答えに、鴇松は一瞬困惑を来した。
「刑事さん。無理なものは無理なんですよ。
だってね、向こうからやって来た男の顔は、目玉を爛々と光らせ、口をかっと開いた、鬼だったんですから……」