2.弾崎灯台
八月九日の正午、両津ふ頭に乗り入れたジェットフォイルから降り立った鴇松警部補を待ち受けていたのは、無精に顎髭を伸ばし、熊のようにごつい身体つきをした大男だった。とっさに防御の姿勢を取って身構える鴇松であったが、意外にも熊男が丁寧な言葉遣いで話しかけてきたのには、さすがに拍子抜けした。
「遠路はるばるご苦労様です。佐渡警察刑事課の烏丸巡査部長です」きちんと背筋を伸ばした熊男が、敬礼をした。
「新潟県警捜査一課警部補の鴇松です」鴇松は、自らの名を名乗ってから、軽く会釈を返した。
「さっそくですが、事件現場までお送りしましょう。まだだいぶありますからね」そういって、巡査部長は停めてあるパトカーの運転席へ乗り込んだ。
「場所はどちらですか?」
「鷲崎です」
鷲崎ね……。はじめて聞く地名だ。もっとも、新潟県警に五年も勤務しながら、鴇松はいまだ佐渡島を訪問したことがなかった。それ以前は、太平洋沿岸の愛知県警に所属していて、いうなれば、彼は土地の人でもなかった。警部補への昇進を機に、見知らぬ日本海に面した新潟県警へと配属されたのだが、鴇松自身からしてみれば、正直なところ、晴れの昇級というよりも、事実上の更迭に等しい待遇というか、無理やり地方へ飛ばされてしまった感が、どうしてもぬぐい切れなかった。たしかに新潟市が、言わずと知れた、日本海側での最大人口を誇る、屈指の地方都市であることは認めるが、毎年当たり前のごとく容赦なく降り積もる、真冬のドカ雪にはつくづく閉口した。愛知県だと、雪が降ること自体が珍しいのである。
「その鷲崎という場所は、佐渡島のいったいどのあたりになるのでしょうか」とりあえず話すネタも見つからないので、鴇松は率直に質問をしたかったことから訊ねてみたのだが、巡査部長から軽く苦笑をされてしまった。
「そうですか。警部補は佐渡のことをあまりご存知なさそうですね。鷲崎は佐渡島の一番北の端っこにある集落ですよ」
「ほう、佐渡一番の北限に位置する集落ですか……。なかなか乙な感じがしますね」
佐渡島といえば、アルファベットのSの文字を彷彿させる、中心点を固定して180度回転させれば元々あった形とほぼ重なってしまいそうな、いわゆる点対称に近い形状をした島であるのだが、その上部を『大佐渡』、下部を『小佐渡』と呼ぶことくらいは、さすがの鴇松でも知っていた。とにもかくにも、これから行こうとしている事件現場は、大佐渡の最先端部ということだ。
「両津ふ頭が、たしか佐渡島のちょうど真ん中あたりですよね。だとすれば、鷲崎までは車でだいたい二十分くらいかかりますかな」軽い気持ちで、鴇松は問いかけたのだが、
「いえ、それではとてもとても。いちおうサイレンは使いますけど、それでも一時間近くかかってしまうでしょうね」と、烏丸からあっさり否定された。どうやら、佐渡島というのは鴇松が想像していたよりもはるかに広い世界のようである。
「こちら側の海岸は、内海部と呼ばれていましてね。反対側にある外海府海岸と比べると、これといった名所もなくて、かなり地味なんですけど、佐渡の荒波に削られた奇岩はまさに絶景、それは見事ですから、警部補もぜひ爽快な風景をご堪能ください」
佐渡を語り始めた烏丸巡査部長は、しだいに饒舌になっていった。
鷲崎部落の先端にある弾埼灯台は、荒涼とした大地にポツンとたたずんでいるだけの、とうてい観光地とは呼べない、さびしい場所であるのだが、同時に、佐渡島の最北端を担うランドマーク的な存在でもある。
「さあ、警部補。ここからは歩いてもらいますよ」
助手席でなかばうとうとしかけていた鴇松は、烏丸から身体を揺さぶられて、はっとした。どれくらいパトカーに乗っていたのだろうか。車から降りると、真夏の強い日差しが照り付ける。パトカーが停められた場所はとても狭い県道で、路側帯もなかったので、道路の片側半分がほぼ停車したパトカーによって占拠されていた。しかも、ほかにも三台のパトカーが縦列駐車をしており、通常であれば交通渋滞を引き起こす要因にもなりかねない行為なのだが、なにしろここは孤島佐渡の北のはずれとあって、車の通行はほぼ皆無であったから、そんな心配はいらなかった。
ミンミンゼミの鳴き声が潮の香りに入り混じって耳につんざいてくる。いたるところに好き勝手に生い茂った低木の藪を横目に見ながら、ところどころに割れ目ができた、薄いコンクリートが貼ってあるだけのたよりない小径を、少し歩いて行くと、間もなく、八角形のユニークな形をした灯台が、姿をあらわした。
灯台のすぐ手前に男女二人の銅像が立っていた。鴇松は最初、男の像が来ているのは学生服だと思ったが、よく見れば、それは灯台守の制服であった。女の像は髪を結った着物姿で、二人はどうやら夫婦のようである。台座のすぐ隣に角材を立てただけの簡素な標識があって、『佐渡北端 弾埼灯台』と書かれてあった。
灯台の真下に当たる地面には、すぐに死体であると一目で分かる黒い物体が横たわっており、そばで数人の警官と鑑識官がせわしく動いていた。一人だけ白髪の鑑識官が、鴇松に気付いて、そろそろと近づいて来た。
「鑑識課の中川です。いいタイミングで見えましたね。ちょうど現場での鑑識が終わったところですよ」
「新潟県警の鴇松警部補です。それで、仏さんは?」
「まだ二十代と思われる男性ですね。頭蓋骨の後頭部が陥没しており、何か強い打撃をうけています。もしかしたら後ろ向きに倒れてできたものかもしれませんが、他人から鈍器で殴打された可能性も十分に考えられます。まあ、いくら平和な佐渡とはいえ、たまには人殺しもありますからねえ」この中川という鑑識官、話しぶりから推察するに、意外と気さくな人物のようである。
鴇松は、ちらりと遺体へ目を向けたが、Yシャツにスラックスと、いたってノーマルな仕事着姿であった。
「灯台へのぼって、上から飛び降りた可能性はありませんかねえ」鴇松が訊ねると、「そうですね。自殺も否定はできませんね」と、鑑識官が答えた。
「遺体の第一発見者は?」鴇松が型通りの質問をすると、烏丸巡査部長が代わって答えた。
「この灯台の最寄りとなる『藻浦入口』というバス停がありまして、近くに休業中のキャンプハウスがあります。そこを管理している岩崎という人物が第一発見者ですね。なんでも、毎日の日課で、灯台近辺を散歩しているみたいで、今日の早朝、時刻は七時二十分頃と本人は証言していましたが、この場所で、今と同じ状態で倒れていた遺体を見つけたらしいです」
「その岩崎という人物ですが、なにか不審な点はありませんでしたか?」
「いえ、別に……。あえて挙げれば、訊き込みをしていた時には相当に怖気づいていましたけどね、まあそれ以外に特に変な言動もありませんでしたし……」と、烏丸が説明した。
「死亡推定時刻はどうなっていますか?」鴇松は、今度は中川へ質問をした。
「昨晩ですが、時刻をどこまで絞り込めるかどうかは、解剖の結果次第です。でもざっと見で、九時の前後二時間程度、つまり、午後七時から十一時の間とみて、まず問題ないと思いますよ」鑑識官である中川がはっきりと断言した。
「仏さんの身元は判明しているのですか?」鴇松が、烏丸と中川に向かって同時に問いかけると、
「名前は、『ほんま しゅうと』ですよ」と、中川が答えた。
「ええっ、どうして分かったのですか?」いともあっさり断定されたので、鴇松が慌てて問いただした。
「いや、なにね。実に単純なことでして、遺体のそばにリコーダーが落ちていましてね」
「リコーダー?」
「縦笛のことです。ほら、小学生で音楽の授業の時に吹いていたあれですよ」
「なんでそんなものが……?」
「さあ……。とにかく、そのリコーダーに黒いマジックで名前が書かれてありました。全部ひらがなで、『ほんま しゅうと』とね」
中川がビニール袋に入ったリコーダーを鴇松に手渡した。指で押さえる穴が八箇所ある、茶色い木目調のボディをした、ごく普通のアルトリコーダーである。ひっくり返してみると、演奏時に下になる部分に、たしかに、マジックでたどたどしく書かれたひらがなの名前があった。
「指紋は見つかりませんでした。布で意図的に拭き取られた形跡がありますね」念を押すように、中川がいった。
「ひらがなで名前がねえ。ということは、子供の頃に使っていたリコーダーなのかなあ?」
鴇松がつぶやくと、「そうかもしれませんね」と中川が相槌を打った。すると横から烏丸が口をはさんだ。
「そこで『ほんま しゅうと』という名前を島民の中で調べてみましたら、すぐさま『本間柊人』という人物が見つかりましてね。金井町で個人事業の弁護士事務所を開いていました」烏丸巡査部長は、手帳に殴り書きした本間柊人の漢字を鴇松へ提示した。
「それから、赤泊村の上川茂という集落に、ガイシャの妹と母親が暮らしていまして、どうやらその二人しか親族がいないようなので、さっそく連絡をしたところ、今こちらへ向かってもらっています。間もなく到着することでしょう」
佐渡島は、今でこそ一つの佐渡市となっているが、完全統合されたのは二〇〇四年に起こったいわゆる平成の大合併というやつで、それまでは、両津市、相川町、佐和田町、金井町、畑野町、新穂村、真野町、小木町、羽茂町、赤泊村の、合わせて十もの市町村が存在した。いまでも、佐渡島の細かい場所を示すには、旧行政区の町村名が便利なので、使用されている。
「その二人から遺体を確認してもらえば、身元が判明することになるのか……」鴇松がポツリとつぶやいた。
「そのとおりです。そのあとで、遺族から許可がいただけたなら、ただちに遺体を解剖してみます。なにしろ、殺人の可能性も依然としてありますからねえ。いやはや、因果な商売ですよ」そういって、中川はくすくすと笑った。
しばらくして、本間柊人の母親と妹と名乗る二人の女が現場に到着した。母娘そろって、色白で、うりざね顔の美人であったが、母親は表情がおとなしくて従順そうであるのに対して、娘の方はかなり気が強そうだった。
さっそく遺体の身元確認を頼んだのだが、亡骸を見た途端に、娘の方はワンワン泣いてしまって、とにかく手が付けられなかった。一方で、比較的冷静さをとどめていた母親も、突然の息子の死にかなりのショックを受けていることは明らかだった。
「ご遺体は、息子さんで間違いはありませんか」鴇松が訊ねると、母親が申し訳なさそうに答えた。
「はあ。間違いねえです。だども、なして柊人はこんなんむげえことになってしもうたのでしょうか……」そういうと、ついにこらえ切れなくなって、母親もしくしくと泣き始めた。
三十分ほど、何も進展を見せず、ただ時間だけが無駄に経過していったが、さすがに真夏の炎天下、日陰とはいえ冷房も効いていない屋外にいれば、気合も自然と失せてくる。いくら悔しいからといって大声で泣き喚いても、これくらい長時間が過ぎれば、そろそろ飽きてくるものだ。
娘はようやく泣き止むと、自らの名前を桃佳と名乗って、素直に質問に応じるようになった。
「お兄ちゃんは、小一の時に買ったリコーダーを、ずっと大切にしていたの」
鴇松からリコーダーのことを訊ねられて、右手に持った白いハンカチで目元を拭いながら、桃佳は小声で答えた。
「そのリコーダーがここにあるもので間違いありませんか」鴇松はビニール袋に入ったままのリコーダーを桃佳に見せた。
「ええ、そうです……。
川茂小学校が閉校する時に、体育館で全校児童がそろってリコーダーの合奏をしたんです。お兄ちゃんは当時六年生で、私は一年生でした。下級生の私には一番簡単なパートが割り当てられましたけど、お兄ちゃんは一番上手だったから、ソロ演奏もあったのよ」
「だから、お兄さんにとって、このリコーダーは思い出深くて特別な存在だったということですね」鴇松が確認を取ると、桃佳は黙ってうなずいた。
「まことにぶしつけな質問で申し訳ないのですが、お兄さんがここで自殺をなされた可能性は考えられませんかねえ」
「お兄ちゃんが自殺をするはずはないわ。絶対に」
「すると、誰かに殺されたことになってしまいますが、その際には、犯人に心当たりはありませんか」
「それならきっと……」と、桃佳はいったんつぶやいてからしばし考え込むと、「いえ、なんでもありません」と静かに付け足した。