28.一番得をする人物は
「解剖の結果が出ました。若林航太の死因が判明しましたよ」佐渡警察署の捜査一課室へ鑑識官の中川がやって来て、検死結果の報告をした。「死因は、打撲を受けたための後頭部損傷によるショック死か、あるいは、くも膜下での動脈瘤の破裂による突然死、いわゆるくも膜下出血というやつですな、その両方が絡んで亡くなっています。脳には動脈瘤の破裂箇所が見つかりましたよ。
もっとも、若くして社長となった若林ですから、仕事のストレスから来る睡眠不足や生活の不摂生も、尋常の人とは次元が異なっていたようですな。おまけに、超が付くヘビースモーカーと来ている。それらが祟って、このような結末となってしまったみたいです」
最後に若林に会って話をした時、たしかに、やっこさんは後頭部へ手を当てて顔をしかめていたな。若くしてすでに脳障害にむしばまれていたのか、可愛そうに。そう思いながら、鴇松は訊ねた。
「そのどちらで亡くなったのですか」
「それが、はっきりと断定できないのですよ。脳動脈瘤の破裂と、頭部の打撲損傷は、ほぼ時刻を同じくして生じたみたいで、どちらが先駆けであったのかが、なんとも判断しかねるのです。
頭部を殴打されたことが引き金となって、動脈瘤が破裂したのかもしれないし、動脈瘤が破裂した時に、よろけてしまい、どこかへぶつけて頭部を損傷したかもしれないし、脳動脈瘤が破裂してから、間もなく、意図的に殴打されて亡くなったかもしれないのです」
中川が即興で三つの可能性を示唆した。
「死亡推定時刻は、事件発覚の前の晩。四月三十日の午後九時から十時のあいだで、間違いありません。ただですね、遺体が死後に動かされたかどうかまでは、検死でははっきりと結論が出せませんでした。依然としてどちらの可能性もあり得るとしてください」
「くも膜下出血が直接の死因だったとして、出血した瞬間に即死ですか。それとも、しばらく息があったとでも?」
「それもまた、どちらもあり得るのです。ですから、遺体が移動されたのかどうかも、はっきりと断定できないわけですな。仮に犯行現場が台ヶ鼻灯台でなくて、遺体が別の場所から移動されていたとしても、移動の最中に若林がまだ生きていて、台ヶ鼻へ運ばれてから、あるいはその途中で、事切れた可能性もいっさいの否定ができないのです」
「なるほど、一筋縄では行かないようですな」
鴇松がため息を吐いた。
「若林航太は遺体の発見時に服を着ていなかった。すなわち、仮に台ヶ鼻灯台で事件が起こったと仮定すれば、犯人が若林の衣服を持ち去ったことになります」烏丸巡査部長が声を張り上げた。
「遺体から服を脱がすことは、存外、重労働です。現場からいち早く逃げ出したい犯人にとって、決してやりたくなるような作業ではありません。となると、なぜ、犯人は殺害した若林を、わざわざ裸にしなければならなかったのでしょうか。この謎めいた行為に犯人の意図があると断言された恭助さんに、ここはひとつご意見を伺いたいものですな」
烏丸が意地悪そうに恭助に目を向けた。
「そうだね。じゃあ、カラッチに逆に質問だ。若林の服を脱がせた犯人は、その服をどこへ処分したんだい?」
恭助がにやにやしながら、反抗してきた。
「それは……、服なんかどこにでも捨ててしまえば、それで問題はないでしょう」
トーンを下げながら、烏丸は答えた。
「そこで『四引く三イコール一』が問題となるんだよ。脱がせた衣類は、そのまま、ご本人のご自宅の洗濯籠の中へ、伝書鳩のごとく舞い戻ってきたのだろうか」
「そんな馬鹿げたことは……、あり得ませんよ。絶対に……。台ヶ鼻から若林宅まで、何キロ離れていると思っているのですか」
烏丸が顔を真っ赤にして反論する。
「そうなんだよなあ。洗濯籠の中のパンツが一枚足りなかったのは、たまたまの偶然に過ぎず、特に意味がなかった可能性だって、十分に考えられるんだよねえ」
そういって、恭助は再度頭を抱え込んだ。
「烏丸巡査部長の問題提起は、事件現場が台ヶ鼻灯台ではなかった場合にも懸案となってしまいますね。仮に、どこか別の場所で若林が殺されたとしても、犯人が殺害後に衣服を脱がせていることに変わりはありません。さすがに、パンツ一丁で街中を歩くことはできませんからね。それでは、いったいなぜ、犯人はそんな七面倒くさいことをしたのでしょうか」
鴇松が付け足した。
「服を脱がすためには、想像以上に無駄な労力と時間がかかる。そのリスクを冒してまで、犯人は若林を裸にした。なぜなんだ……?
ふふふっ、だけどさ、この問題が説明されれば、事件は一気に解決だ。だって、そうじゃない。トッキーは気付かないかなあ。若林を裸にせざるを得なかった謎って、これまでのと性格がちょっと違うんだよね。
犯人はなぜ灯台で犯行を繰り返すのか。犯人はなぜ現場にリコーダーを置いていくのか。これらの謎は、仮に説明が見つかったところで、おそらく、犯人を断定する手掛かりにはならないだろう。でもさ、若林を裸にした理由が説明できた時、そいつはそのまま、犯人を特定してくれそうな気がするんだよね。何となくだけどさ」
夢遊病者のように、恭助が意味不明な戯言をつぶやき出した。その頼りなさそうな様子を見て、烏丸はこれ以上の追求をあきらめた。
「ところでさあ、一つ確認したいんだけど、計良美祢子の愛車にはドライブレコーダーは付いていなかったの?」
恭助が話題をすっと切り替えた。
「ええ、ちょっと旧式の車でしたから、何もなかったですね」
烏丸が答えた。
「ふーん。じゃあ、本間柊人の車には?」
「ああ、あれも中古車でしたから、そのような最新器具のたぐいは装着されていません。職業が弁護士とはいえ、まだ駆け出しでしたから、中古車しか買う余裕がなかったのではないでしょうか」
「なるほどね……」
烏丸の返答に、恭助が軽くうなずいた。たしかに、二台のいずれかにドライブレコーダーが付いていれば、その記録を再生することで、運転していた人物、すなわち犯人を特定できたはずなのだ。運が依然として犯人側にあるような予兆を、鴇松は薄々と感じ取っていた。
五月三日に行われた若林航太の葬儀に参列したのは、職場の部下や業界関係者ばかりで、友人や知り合いはあまりいなかった。川茂小学校での同窓生である、臼杵梢、金子亨、本間桃佳の三人は、いずれも姿を見せなかった。もっとも、市橋の葬儀の時に警察関係者の烏丸が立ちはだかっていたので、またもや同じようなことが起きることに、嫌気がさしていたのではなかろうか。
酒造会社の社員たちは、そろって気の抜けたような暗い表情をしている。順風満帆に事業を展開する若林酒造を支えていたのは、紛れもなく、若くて聡明なエリート社長、若林航太がいたおかげだった。これからどうしたら良いのだろうと、誰もが途方に暮れていた。
妻であり、喪主である若林愛梨は、最初から最後までひたすら号泣状態で、よくもあんなに泣けるものだと逆に感心してしまうほどで、誰も声が掛けられなかった。夫婦仲は最悪の状態になっていても、やはりパートナーのことが忘れられなかった、ということなのだろうか。財産の分配でもめていた懸案は、夫の死によって、ほぼ間違いなく、裁判で要求しようと目論んでいた額以上の財産を、すでに愛梨は手にしているわけだが、だとすると、何が悲しくて泣いているのか、相変わらず女心というものは理解に苦しむ。
「いやあ、まいりましたよ。奥さんは酒造会社の繁栄にはいっさい関心はないらしく、社長の財産のほぼ全部を手にしてしまうんですからね。会社の運営資金が根こそぎ持っていかれてしまったといった感じです」
酒造会社の参謀である石塚知輝が、鴇松とすれ違いざまに、愚痴をこぼした。
「しかし、若林社長の意思としては、会社の存続こそが最優先課題だったと思うのですが」
「その通りです。しかしですね、社長はまだ若いから、おそらく、遺言状なんて用意していないと思います。そうなると、ご両親は死んでしまっているらしいし、子供もいないから、奥さんしか身内がいないんですよ」
「でも、奥さんに交渉して、遺産をいくらか回してもらうことも出来ませんかね」
「さあ、どうなることやら。いずれにせよ、法廷で戦うこととなりそうですね」
石塚は肩を落としながら立ち去った。若林愛梨が夫の遺産を全部持って行ってしまえば、栄華を極めた若林酒造は、倒産の一途をたどることとなろう。結局のところ、若林航太が殺されてもっとも得をする人物は、ほかでもない、妻の愛梨だったということだ。
何も得る物がないまま、葬儀会場をあとにした鴇松に、烏丸から電話連絡があった。何も期待せずに応対した鴇松であったが、烏丸から報告された内容は、まさに驚愕に値すべきものであった。
「あっ、鴇松警部補ですか。先ほど通報がありまして、見つかったんですよ……、ついに、あれが」
「なにが見つかったのですか?」
「鬼の面です。一連の事件で犯人が使用したと思われる鬼の面が、新潟県道81号線の道路脇に落ちていたんですよ」
「県道81号線というと?」
「通称、佐渡縦貫線とも呼ばれており、金井町と赤泊村を結ぶ、途中で経塚山という小佐渡で第二の高さを誇る峰を横目に横たわっている、峠道ですよ。でも、名前から想像されるような大層な道路ではなくて、車のすれ違いにも神経をすり減らす、とても狭い道路です」
「その道路のどこに落ちていたのですか」
「ちょうど峠付近といったところでしょうか。とにかく標高が一番高いあたりですね。
たまたま道路点検で土木技師が調査をしていたらしいのですが、偶然に発見したそうです。ちょっと高価そうな面だったために、落とし物として警察へ届けたみたいですね」
道端へ捨てられた鬼の面など、ゴミとしてその場で処分されるのが落ちで、警察へ届けられることなどまずあり得ない。そう思えば、これまで一方的に犯人側へ付きまとっていた幸運が、いよいよこちらへ巡ってきたのかもしれない、と鴇松は好意的に解釈した。
そういえば、台ヶ鼻灯台の事件では、鬼が現れなかったな……。
「その鬼の面ですが、ずっと以前からその峠へ捨てられてあったのですかねえ」
無駄とは思いつつも、鴇松は確認をしてみた。もちろん望むべき答えが返ってくるなんて、夢にも期待はしていなかった。
「いえ、それが違うんですよ。二人の土木技師の話のよりますと、おとといに同じ場所を通った時には、間違いなく、鬼の面はそこには落ちていなかったそうです!」
烏丸が思い出したように答える。それはまさに鴇松が望んでいた回答であった。
「それが本当なら、まさに奇跡とも呼ぶべき情報ですね」
興奮気味に返事をして、急ぎ足で鴇松は佐渡警察署へ向かった。