27.台ヶ鼻灯台
鴇松警部補と如月恭助を乗せたパトカーは、大きなサイレン音を鳴らしながら、地元では『本線』と呼ばれている佐渡のメインロード国道350号線を突っ走っていた。日はすっかり暮れてしまい、辺りはもう真っ暗だ。台ヶ鼻灯台は、『佐渡一周線』と呼ばれる新潟県道の45号線沿いにあるのだが、ちなみに、『本線』と『佐渡一周線』は、佐和田町で接続をしている、鴇松たちが現場へ到着したのは午後七時十分になっていた。
現場周辺の道路には、停車したパトカーの行列が出来ていて、その両端で、片側通行規制となった道路の交通整理を行うために、巡査が非常信号灯を振り回していた。
パトカーから下りて、停車しているパトカーの横を歩いていくと、わずかに路側帯のスペースがあって、そこに人だかりができている。路側帯の奥には青い色で塗られたさび付いた柵があって、その柵の向こうにコンクリートの歩道が伸びていた。舗装されているとはいっても、ところどころにひびが入った、もはや崩壊寸前の小径である。人だかりの中心にいた烏丸巡査部長が、鴇松たちの到着に気付いて、こちらへやって来た。
「ご苦労さまです」烏丸が鴇松へ向かって軽く敬礼をした。
「殺害された被害者はですね……、酒造会社の若き社長、若林航太です――」
若林航太が殺された……。来る際のパトカーの中ですでに知らされてある事実とはいえ、こうして烏丸からあらためて報告を受けた時にも、鴇松は素直にそれを受け入れることが出来なかった。如月恭助が、四番目の殺人が起これば事件は一気に解決へと向かう、などと悠長なことを抜かしていたが、最有力容疑者が殺されてしまって、どう事態が収まるというのか。まるで最後の一縷の望みが絶たれてしまったかのように、鴇松は心底から焦心していた。しかしここへ来て、なおも残酷な連続殺人を繰り返す犯人の真の目的とは、いったい何なのだろう。まさか、当時の川茂小学校関係者全員の皆殺しを企てている、とでもいうのだろうか。
「遺体は、台ヶ鼻灯台の入り口となるその青い柵の向こう側で、大の字になった状態で倒れていました」
鴇松の憂いに気付くゆとりもなく、烏丸は淡々と事実を告げた。「台ヶ鼻の灯台自体は、青い柵の向こうに伸びる小径を歩いていけば、五分ほど下った場所にあります。ただ、途中が蜘蛛の巣だらけでしてねえ、観光目的でわざわざあの灯台まで歩いていこうと試みる物好きは、まずいないでしょう」
烏丸が茶化すようにいった。
「俺は下りていったけどね。去年の十月に佐渡を訪問した時にはさ。だって、佐渡島の四天王灯台だぜ。そいつらを全制覇するって、大きな意味があるんだよねえ」
後ろに控えていた恭助が返した。
「まあ、こういう人もたまには見えますけどね」
烏丸が苦笑いをした。代わって鴇松は何かをひらめいたみたいだった。
「そうか、恭助さん。あなたがかつて、第四の殺人が行われるはずだとおっしゃった理由は、まだ台ヶ鼻灯台だけが事件が起こらずに残っていたからなのですね」
「そうだね。佐渡島の輪郭を象徴する四端を担う灯台のうち、弾崎灯台、沢崎鼻灯台、姫崎灯台の三つでかつて殺人劇が演じられた。なのに、台ヶ鼻灯台だけが何も起こっていない。このまま上演が終わってしまうことは絶対にあり得ない、と単純に考えただけだよ」
「とにかく、遺体をご覧ください。今、鑑識の中川が調べています」
烏丸が二人をうながした。この青い柵はおそらく侵入者を拒むために設置されているのだろうが、柵の横にできているすき間を通れば、敷地内には誰でも簡単に入ることができた。
「リコーダーは遺体のそばに落ちていましたか?」
鴇松が訊ねた。
「ええ、遺体がしっかりと握っていましたよ。ただねえ……、まあ、警部補の目で直に確認してやってください。今回の事件における、遺体の姿の異様さをね……」
烏丸がなにやら謎めいたことを口走った。
遺体は青い柵をすり抜けて、二〇メートルほど進んだ小径上にあるみたいだ。ごった返す人だかりにちょいとどいてもらって、遺体のそばへ寄ってみると、なるほど、烏丸がこぼしたのも無理はない。両脚を開いてこちらへ向けながら、大の字にあおむけ状態で倒れている若林航太の亡骸があった。しかし、鴇松を驚かせたのは、その姿の異様極まりなさであった。若林航太は衣類をパンツ以外に何も装着していなかったのだ。
ボディビルダーとまではいかないが、胸板はしっかりとしているし、腹回りも無駄な贅肉が削ぎ落ちていて、腹筋が少しだけ割れていた。いかにも男性的な身体をしている。皮膚のムダ毛は男性なのに処理がきちんと施されているようであった。右手にはリコーダーを握りしめている。リコーダーはまだ買ったばかりの新しいものであった。いちおう、パンツは履いてはいるのだが、ブリーフ系の白の肌着が一枚だけなので、ここからでも布越しに股間のふくらみがはっきりと確認できる。今は夜だからまだしも、これが真っ昼間だったら、女性にはかなり刺激が強過ぎる光景ではなかろうかと、鴇松は勝手に杞憂した。
鑑識をしていた中川が振り返って、鴇松に一礼をした。
「なかなかセクシーな若者ですな。それはともかく、第一発見者は、たまたまここを通りかかったタクシーの運転手でした。発見時刻は午後三時頃。尖閣湾へ客を乗せていった帰りだったそうです。煙草が吸いたくなって、車を反対車線の路側帯へ停めてから、ぶらぶらと散歩をしていたら、柵の向こうに寝ころがっている遺体を見つけたそうです。
遺体が発見されるまでにも、何台もの車が県道を走っていたはずですけど、道路を走る車からは、遺体の場所は死角となって隠れてしまいますし、そもそもここは通行量も絶対的に少なく、通る車はみんな急いですっ飛ばしていますから、昼間であっても誰も遺体の存在に気付かなかったみたいです。まあ無理もありませんよ。ましてや、この灯台への小径を歩いていこうと試みる者などは、めったにいませんからねえ」
「では、遺体はいつからここにあったと推測されますか」
鴇松の質問に、中川は少し考えてから答えた。
「死後硬直がかなり進んでいます。殺されたのはおそらく、昨日の四月三十日の晩でしょうな」
「だとすると、遺体は今朝からずっとここにあったこととなってしまいますが……」
鴇松の疑問に、中川は軽くうなずいた。
「後頭部に打撲痕がありました。本間柊人の時とよく似ていますね。それが直接の死因がどうかはまだ分かりませんが、解剖へ回せば、それも判明すると思います」
「ほかになにか死因らしき痕跡は、見つかりませんか」
「ええ、なにも……」
鴇松の問いかけに、中川は淡々と答えた。
「打撲痕はどうやって付けられたとお考えですか」
「そうですね。第一の可能性は、何らかの鈍器で後頭部が殴られたというもの。そしてもう一つは、突き飛ばされたか何かで、後頭部をどこかへ打ち付けたという可能性ですな。これも、本間柊人の事件と全く酷似します」
「もっとも、本間柊人の場合は、犯行現場が弾崎灯台ではなく、金井にある本間柊人の事務所でした。そこで頭を打ち付けた血痕も見つかりましたからね」
鴇松が本間柊人事件のいきさつを述べた。もちろん、このことは今となっては、中川も十分に承知の上だ。
「そうですね。その可能性は十分に考えられますよ。若林はどこか別の場所で殺されていて、ここへ遺体だけが運び込まれたのかもしれない。ただ、若林の遺体は、本間柊人とは違って、後頭部からの出血がありません。内出血をして患部は腫れ上がっていますけどね。ですから、仮に別の場所が犯行現場だったとしても、そこに若林の血痕が残されていることは、まず期待できませんな」
「では逆に問いかけます。犯行がここで行われた可能性は、どのくらいあるでしょう」
「もちろん否定はできません。ここで犯行が行われた可能性も十分に考えられます。まあ、割合を問われているのなら、五分五分といったところですかな」
「どうして、犯人は犯行現場をここにしたんだろう。台ヶ鼻灯台は目と鼻の先なのにね」
恭助が議論に割り込んで来た。台ヶ鼻灯台は、ここから歩いてちょっと下ったところにあるのだから、灯台がある場所が犯行現場となっていないことに、やや不満があるみたいだ。
「目と鼻の先といっても、ちょっと距離がありまして、実際に歩いてみると、相当に面倒ですよ。道も分かりにくいですしね。ましてや、夜となるとね……」
烏丸が中川に代わって答えた。
「まあここならば、犯行が台ヶ鼻灯台で行われた、といっても文句を唱える者は誰もいないことでしょうね」
鴇松が保護するように代弁した。
「あと、昨日の夕刻に地元の住民がここを通りかかりましたが、その時には遺体はなかったそうです。つまり、遺体がここに倒れていたのは、昨日の宵の口から、今日の午後三時までの間だったことになります」
烏丸が事実の報告をした。
「しかしそうだとすれば、遺体が昨日から今朝に至る夜間のあいだに、ここへ出没した可能性が一番有力になってきますね。根拠は、遺体の死亡推定時刻が昨日の晩だったという話ですし、昼間の犯行は、なんだかんだで目撃されてしまう恐れがありますからね」
「朝から遺体がずっとここにあったとして、ひと気もない場所ゆえに、遺体発見が午後の三時になってしまっても矛盾はないと……」
恭助がみずからにいい聞かせるようにつぶやいた。
「恭助さん。遺体がパンツ一丁の素っ裸であったことに、なにか意味があると思われますか」
「ああ、大いに意味があると、俺は思っている……」
鴇松の問いかけに、恭助はきっぱりと断言した。
翌日の五月二日は土曜日だった。鴇松と烏丸、そして恭助の三人は、若林航太が一人で生活をしていた仮住まいを訪れた。若林航太の借家は、玄関の鍵が掛かっていたのだが、ベランダへ出るガラス戸が一部、鍵が掛けられていなかった。
「鍵の掛け忘れか……、もしかしたら侵入者がいたのですかね」
引き戸が外から開けられて、烏丸はちょっと驚いていた。
「しかし、荒らされた様子や格闘があったような様子は、どこにも見られませんね」
鴇松が部屋の中をのぞき込んでいった。
浴室わきに置かれた洗濯籠の中には、数日分の洗濯物がたまっていた。どうやら一人暮らしの若社長は、毎日洗濯をしていたわけではなかったみたいだ。断りもなしに恭助が、籠の中の洗濯物を調べ出す。
「洗濯籠の下着類は、シャツが四枚に、パンツが三枚、それに靴下が八枚とね……。
はははっ、トッキーって小学校の時に算数は得意だったかなあ。たしか、四引く三って、一になったよね」
恭助が上機嫌でわめき出した。
「つまりは恭助さん。その引き算で残った一枚のパンツが、台ヶ鼻で若林が履いていたパンツということですか」
鴇松が真面目顔で答えた。
「仮にその推論が正しかったとすると、現実は何が起こっていたんだろうね。さあ、カラッチはどう推理するかな?」
突然の質問に、烏丸はうろたえながらも答えた。
「そうですね。犯人から台ヶ鼻灯台まで来るよう指示をされた若林航太は、よほど慌てていたのでしょう。パンツ一丁で家を飛び出した……」
そう答えておいてから、烏丸は、そいつはあり得ないなと、自問自答していた。
「ふふふっ、おかしいだろ? それにさ、だとして、若林の車はとなりの共同駐車場に置きっぱなしだ。奴はどうやって台ヶ鼻まで移動することができたんだい?」
「それは……、犯人の車に乗せられて、ですか?」
鴇松も首をひねる。
「ねっ、考えれば考える程、おかしくなっちまう。逆にいえば、これらの問題がスムーズに説明できた時、霧の中に潜む犯人の真の姿が垣間見えてくる、ってもんだろうけどね」
そう告げる恭助の表情は、いつの間にか笑顔になっていた。
鴇松たちは、家の中を調べ尽くしたが、ここで格闘が行われた様子は何一つ見つからなかった。その上、硝子戸の鍵が掛かっていなかったこと以外に、特に不審な点は何も見つからなかった。外の共同駐車場へ停められている若林所有の赤い高級車の鍵はきちんと掛かっていたし、キーは若林の住居の鍵といっしょにされて、居間にあるサイドボードの上にそっと置かれてあった。
「どうやら、犯行現場はここではなさそうですね。いちおう、警官を立たせておきましょう」
家から出るタイミングで、烏丸が鴇松へ呼びかけた。