24.最有力容疑者への訊き込み
隔離された寝床の中で、高熱にうなされながらも、鴇松はずっと考え続けていた。その主な内容は、計良美祢子殺しの時刻における若林航太のアリバイについてである。死亡推定時刻から想定される犯行時刻は、深夜の十二時から二時までのあいだ。これに関しては、疑う余地のない事実といえよう。しかし、ドライブ中のカップルが不審な鬼の姿を目撃した時刻は、まだ宵の口の八時であった。状況証拠をかんがみれば、鬼が犯行に絡んでいることは間違いないのだが、ならば、鬼は八時から十二時までのあいだ、いったい何をしていたのだろう。さらには、どうやって計良美祢子を現場までおびき寄せることができたのか。いや待て。八時にいったん通行人に姿を見せておいてから、改めて、計良美祢子と会い、現場まで美祢子を連れて来た可能性は考えられないか。でも、仮にそれが出来たとして、そんな七面倒くさいことを行うメリットが、果たして、鬼にあったとでもいうのか。ああ、考えれば考える程、推論は底知れぬ泥沼の深みに嵌っていく。
そして、計良美祢子殺しの最有力容疑者たる若林航太には、犯行が行われた十月十二日から十三日に至る夜間に、完璧なるアリバイが存在する。彼は佐渡島を離れ、本州の対岸に位置する新潟市にて、昔仲間たちと飲み会をしていたのだ。その後、ホテルに宿泊するのを、ホテルの従業員がはっきりと目撃している。
したがって、八時に沢崎鼻灯台へ現れたが鬼が、若林航太でなかったことや、さらに、十二時から二時のあいだに計良美祢子を手に掛けた犯人が、若林航太でなかったことも、立証されてしまっているのである。
それにしても、あまりにも出来過ぎたアリバイ……。
もしかしたら、想像を絶するトリックによって構成された、虚構なのではあるまいか。
とにかく、もう一度、若林航太の証言を思い出してみよう。鴇松は手帳を取り出した。
十月十二日は土曜日であった。若林航太は、母校である県下ナンバーワンの進学校、新潟第一高校での同期生五人らといっしょに、新潟市内にある繁華街で飲み会をしていた。場所は万代橋の近くにある『なじらね』という居酒屋で、六時に予約が取ってあり、予定通りに会は開始され、八時前に解散をしている。たしかに、その時刻に若者が数人集まってワイワイやっていたと、二人の店員が別々に証言をしているし、同期生と称する五人のめいめいが、若林航太がその会に最初から最後まで、途中で抜けることなく、参加をしていたと、口をそろえて答えている。
その後、同期生たちと別れた若林航太であるが、そこから少し離れた『スノウ・イリュージョン』というラブホテルに、八時十五分に姿を現して、チェックインをしている。スノウ・イリュージョンのフロントにいた従業員は、訊き込みの際、若林の顔写真を見て、当日にチェックインしていた人物であったことも認めているし、若林は酔っ払っていたのか、ご丁寧に、従業員にみずからの免許証を提示したそうであるから、極めて信頼のおける証言となっている。
一方で、佐渡汽船は、午後七時半に出航した最終便を最後に、営業を終えている。もちろん、その時刻になれば、航空便だってあるはずもないから、事実上、佐渡島へ移動するもっとも早い手段は、翌朝の七時二十分新潟発、八時二十七分両津着の、ジェットフォイル、ということになってしまうのだ。
まさに、蟻の入る隙間もない、鉄壁なるアリバイである……。
しかし、鴇松には一縷の望みがあった。それは、若林航太がスノウ・イリュージョンをチェックアウトした時刻が、あいまいであったことである。極論をいってしまえば、十二日の八時半に、ルームキーを所定のボックスへ放り込んで、ホテルから抜け出すことだってできたはずだ。そこから、何らかの手段で、佐渡島の沢崎鼻灯台まで移動することはできないか。いいや、やはり無理だろう。新潟と佐渡のあいだには、広大なる日本海が立ちふさがっているではないか。仮に若林航太が、オリンピック選手級の泳ぎの達人であったとしても、夜間に泳いで海を渡ることなどできっこない。実に、ナンセンスだ。とどのつまり、若林航太に計良美祢子が殺害できなかったことになる。やはり、この結論に行き着いてしまうのか……。ああ、頭がますます痛くなってきた。
どれだけまどろんでいたのだろう。ふと気づくと、身体がだいぶ楽になっていた。体温計で測ってみると、36.8度だった。熱が下がっている。今の時刻は? 夜の八時か……。なんだ、丸一日、俺は寝ていたってことか。そういえば、今日は市橋斗馬の葬式の日だった。事件の手掛かりがなにか見つかりそうな大事な日なのに、何もできず、烏丸巡査部長には大いに迷惑をかけたな。
事件の捜査は完全に硬直状態だ。あの方だったら、こんな時、どうするのだろう……。
鴇松はある人物のことを考えていた。愛知県警に勤務していた先輩、如月惣次郎、――当時の肩書は警部補だった。
名古屋にしては珍しく大雪が降った翌日の早朝に起こった、テニスコートでの怪事件。あの難事件を、鮮やかに解き明かした警部補の艶姿は、鴇松は今でも鮮明に覚えている。現場に残されたわずかな異変も見逃さず、誰もがそんなこと思い浮かばないであろう緻密かつ大胆なる推理。鴇松が新潟県警へ転勤となったあとも、犬山で起こったカルタ会での殺人事件や、名古屋大学の研究室で起こった服毒事件など、如月警部の颯爽たる活躍は、鴇松の耳に常に届いている。
鴇松はスマホを取り出すと、烏丸巡査部長へ電話を掛けた。
翌朝、烏丸巡査部長を伴って、鴇松警部補は若林酒造を訪れた。ところが、お目当ての若林航太はそこにはおらず、代わりに石塚が現れて、鴇松たちに応接した。
「社長は、今日は年休で休んでいますよ。なんでも熱を出したとかで。珍しいですね、あの社長は超人だから、てっきり病気知らずと思っていましたのでね」
そういって石塚は、若林が寝泊まりをしている借家の場所を教えてくれた。そこは借家といっても立派な一戸建てで、若林酒造から歩いてすぐのところにあった。
隣の敷地が、丸々更地となっていて、コンクリートが貼られ、十台ほどが停められる共同駐車場となっていた。そこに置かれたスポーティな赤い国産高級車が、若くして社長となった若林航太の愛車であろうと、鴇松は即座に判断した。
呼び鈴を鳴らすと、少しの間をおいて、インターホンから若林航太の声が聞こえた。
「はい、どなたですか」
「ああ、警察の鴇松です。少々、お話をお伺いしたいと思いまして」
「刑事さんですか。今、ちょっと体調を崩していましてね。ええ、すぐに開けますよ」
玄関口に顔を見せた若林はマスクをしていて、熱にうなされているのか、ほてったような赤ら顔をしていた。
「少々寒気がするんでね、戸を閉めていただけませんか」
若林が要求した。
「これは申し訳ありません。お風邪を召されたのですか」
「どうやらそのようです。季節外れのインフルエンザでしょう。あんまり近づくと、刑事さんにもうつしてしまいますよ」
「私も昨日まで寝込んでおりましてね。病み開けなんですよ。
では、手短に話を進めましょう。市橋斗馬先生はご存知ですよね。川茂小学校で、たしか、あなたの担任をされていたと伺っております。その先生がこの前にお亡くなりになって、昨日、お葬式がすぐそこの会館で行われました。でも、恩師の葬式というのに、あなたは式に参加をされませんでしたね」
「刑事さん、僕の今の様子を見れば分かるでしょう。熱を出してしまい、とても式に参加できる状態ではなかった、ということですよ」
若林がぶっきらぼうにいい返した。
「ほう、そうですか。では、もしもご体調を崩されていなければ、ご参加されていたと……」
「もちろんですよ。小学校の時に色々とお世話いただいた恩師ですからね」
「でも、あなたは式に出ない代わりに、ものすごく高価な献花を、式場に送られていましたね。部下の烏丸から伺っております」
「それはまあ、ほんの気持ちに過ぎません」
「さすがは、今をときめく酒造会社の社長さん、といった感じがありありと醸し出される、さぞかし豪華なお花だったみたいですなあ」
「刑事さん、何か嫌味でもいいたいんですか」
「いえいえ、ただ少々気になったことがありましてね。というのも、市橋先生のお葬式は昨日の土曜日の四月十八日に行われました。お亡くなりになられてから実に一週間もの日にちが経過してしまったのは、警察の検死が行われたためで、それはまあ、致し方ないところですがね。ところがですよ、あなたが献花を手配された花屋さんに確認を取ってみましたら、あなたがご注文されたのは、四月十三日の月曜日だったそうじゃないですか。式がいつになるのかはその時点では未定だったはずですが、式が行われた際に献花を送るよう、あなたはすこぶる柔軟なご指示をなされていたみたいですな。もちろん、十三日の月曜日には、市橋先生の巻き込まれた事件の報道を各マスコミがしていますから、それに目を通したあなたが、恩師のために豪華なお花を用意するのは、別に不自然な行為ではありません。でもですよ、その献花にあなたは弔辞の文章を添えられていましたよね。それには、『本日は所要があり、お別れにも伺えず残念でなりません』と書いてあったそうじゃないですか。つまり、月曜日の時点で、大切な恩師のお葬式に参加されるご意思は、あなたにはさらさらなかったことにはなりませんかねえ」
発熱のため元気がなかった若林の表情が、苦笑いをしたのか、一瞬でほころびた。
「はっはっは。ブラボー、刑事さん。またもや、嵌められてしまいましたね。いやあ、あなたは見かけによらず、とっても恐ろしい人だ。
おっしゃる通り、僕は最初から市橋の葬式に参加する意思はなかったんですよ。ええ、たとえ、風邪をひかなかったとしてもね。何か仕事で忙しいからと、適当に欠席の口実を繕うなんて、たやすいことですしね。
市橋には、四年生から三年間担任をしてもらいましたが、あいつは教師としては最低でしたね。僕は何の感謝の気持ちも抱いてはいません。頭は悪いし、理不尽に怒ったかと思えば、感情に任せて僕たちを殴ることもありました。新米教師だから馬鹿にされてはまずいとでも思っていたのでしょうね。僕と柊人はしょっちゅう叱られていましたから、いい迷惑ですよ。あいつがドヤ顔をするのは、体育の授業の時だけ。普段の勉強となると、僕たちが何か質問しても、ちっとも答えられずにあたふたしているから、仕方なく僕たちがあきれて席へ戻ると、お前ら馬鹿にしているのか、と勝手に怒りだすしまつ。まあ、あいつとのやり取りのおかげで、柊人も僕も、人間力が鍛えられていったかもしれませんね。なにしろ、世の中のありとあらゆる不条理に対する対処法を、小学校の時から実体験させてもらったわけですから」
「そんなにひどい先生でしたか。その、市橋先生は、いろんな方のお話からは、児童たちから慕われるとても良い先生だった、と伺っておりますが」
「あいつが慕われているのは、一部の児童たちからでしょう。そして、そのたいていは女子児童ですよ。あいつは、女子には寛大だった。いわゆる、えこひいきってやつですかね。
好きな児童には、親切で優しい先生を振舞い、気に入らない児童には、感情の赴くままに怒りをぶつける。まあ、あれから月日も経っていますし、今ではましになっていたであろうことを祈りますがね。とにかく、川茂小学校の時は、ひどかった。相棒の計良校長は、見てみぬふりをするだけ。小杉先輩だって二、三度は殴られていますけど、とにかく、一番の被害者は、僕と柊人の二人でしょうね。
だから、僕はあいつの葬式になんか、何があっても行く気などありませんでしたよ」
「なるほどね。いろいろと人間関係に深いものがあるようですな。ところで、若林さん。あなたは、先週の十一日の土曜日の午後に、何をなされていましたか」
単刀直入に、鴇松は踏み込んだ。頭脳明晰な若林を相手に、小細工など無用だ。
「それを訊きたくてここへいらしたんですよね。おめでとうございます。僕にその日のアリバイはありませんよ。
その日は一日中、ここでテレビを観ていました。ちょうど仕事も休暇が取れましてね。まあ、たまたまですけど」
「どなたか、それを証明なさってくれる方はいませんか」
「残念ながら、いませんね」
この事件で最もあやしい容疑者、若林航太。離婚訴訟のため妻からの依頼を受けた敏腕弁護士、本間柊人に、何らかの弱みを握られてしまい、にっちもさっちも行かなくなって、挙句の果てに、本間柊人を殺害したのだろうか。動機としては十分にあり得るシナリオだ。それに、今はまだ判明していないが、川茂小学校へ通っていた少年時代に、当時の教員であった計良美祢子と市橋斗馬に、何らかの私怨を抱いていた可能性も、否定することはできない。
鴇松は玄関の戸を開けると、外の様子を何気なく観察した。借家とはいえ庭があって、道路から玄関まで来ようとすれば、庭を横切らなくてはならない。逆にいえば、この家の中に、誰かがいようと、いなかろうと、外を通行する人が中の様子を確認することはできない構造となっていた。
「でもね、刑事さん。今回の事件に関しては、残念ながら僕のアリバイはありませんけど、計良美祢子先生の事件の時には、たしか、僕には鉄壁のアリバイがありました。まあ、いっちゃあなんですけど、たまたまできちゃったアリバイに過ぎませんがねえ。それでも僕は、まだ事件の容疑者であり続けているのですか」
若林が挑発的な口調で、鴇松に詰め寄った。
「若林さん。たしかに、計良先生の事件におけるあなたのアリバイは完璧です。とどのつまり、そのアリバイが崩れない限り、あなたをこの陰惨なる連続殺人事件の犯人として逮捕することはできません。でもですね、この際ですから、はっきりと申し上げます。
私はこの事件の真犯人をあなただと確信しております。あなたの鉄壁のアリバイは、やがて必ずや、この私が崩して見せますよ」
うしろで二人のやり取りを聞いていた烏丸は、鴇松が正気でなくなってしまったのかと、一瞬たじろいだ。気が付けば、いつも冷静な鴇松が、爛々と若林航太の顔をにらみ返していた。
その勢いに気圧されたのか、若林航太は、右手で後頭部を押さえる仕草をして、痛みをこらえるかのように、顔をしかめた。
「すみません、刑事さん。ちょっとめまいがしたみたいです。どうもこのところ忙しくて、ろくに眠れてはいないんですよ。へへへっ。
というわけで、今日のところはこれで勘弁してください。もう話すことなどありませんから、お引き取りを……」