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佐渡島連続殺人事件  作者: iris Gabe
出題編
23/35

22.秘密

 金子亨が会場へやって来た時、式はすでに始まっていた。旧新穂にいぼ村地区にある日蓮宗の大本山、根本寺こんぽんじからほど遠くない葬儀場で、前浜小学校教諭、市橋斗馬の葬儀が、しめやかに行われていた。

 市橋斗馬は、川茂小学校、赤泊小学校、松ヶ崎小学校、そして、前浜小学校と、四校を歴任しており、島内に同業者や教え子たちも多くいるのに加え、凄惨極まる事件の大々的なマスコミ報道もあって、式が行われた中ホールは、人混みでごった返していた。

 入ると真正面にたくさんの献花が飾られており、中でも一番大きく目立つのが、若林酒造代表取締役、若林航太から送られた献花であった。

 若林は同じ川茂小学校の生徒で、学年こそ二年違ったが、クラスがいっしょにされたこともあり、色々と話を交わした人物だ。同じくらいの児童に、本間柊人や臼杵梢もいたが、本間柊人は、秀才オーラが強すぎて、とてもじゃないけど、声など掛けることもできず、臼杵梢は、向こうからは話しかけて来るのだが、女の子ゆえに、話しかけられたところでどう対応して良いのか分からず、たいていは何も言葉が返せなかった。そんな中で、若林航太は、比較的話しやすい相手だったし、向こうからも良く声を掛けてくれたので、亨にとっては、とてもありがたい存在であった。


 市橋斗馬先生のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申しあげます。

 川茂小学校の時は大変お世話になりました。本日は所要があり、お別れにも伺えず残念でなりません。心から哀悼の意を表しますとともに、安らかにご永眠されますようお祈りいたします。


 ありきたりの弔電メッセージが献花の横に添えてあった。それにしても、献花もこれだけ大きいものとなると、値段も相当するのだろうが、若林は今や順風満帆、飛ぶ鳥を落とす勢いの酒造会社の社長さんだ。このくらいの出費は、かゆくもなんともないのだろうと、亨は一人で納得をしていた。

 前浜小の現校長から、長めの弔辞が述べられると、参列者たちの焼香が始まったが、何しろ人数が多いので、ものすごく長い行列ができたうえに、一部の参列者が、遺体の顔を見た瞬間に号泣してしまい、しばしば進行がとどこおってしまうから、しびれを切らした亨は、焼香だけを済ませて、遺体との顔合わせはパスすることにした。どうせ、顔を見たところで、号泣するほどの親密な関係でもなかったし、生前の市橋が、亨のことを覚えていたのかどうかさえも、はなはだ疑問であった。

 亨が川茂小学校へ入学をした年に、市橋も新任教師として赴任したらしく、一年生と二年生の時には、市橋は亨の担任であった。でも、一つ上の学年だった臼杵梢も一緒のクラスだったが、市橋は梢にはよく声を掛けるものの、亨には、まるで空気のように、特に必要に迫られなければ、話しかけて来ることはなかった。

 今、棺の前で号泣している女子三人組は、おそらく市橋が担任をしていた児童たちなのだろうけど、さっきからずっとその場を動かないから、後ろに並んでいる参列者たちも相当にいらついている様子だが、なすすべなしといった感じだった。

 そうはいっても、よく泣くよなあ。だいたい市橋って、そんないい先生だったのかなあ。

 もっとも、あれから長い年月が経っているから、今ではベテランの先生になっているはずだし、昔のようではなかったのかもしれないけど、川茂小学校勤務時の市橋は、えこひいきばかりする先生で、亨はあまり好きではなかった。

 そういえば、一度だけ市橋が亨をかまってくれたことがある。亨が左利きであることを知った市橋は、それを矯正しようとしたのだ。

「お前なあ。ぎっちょって、何かと苦労するもんだぞ。先生が責任を持って見てやるから、今日から右手で字を書きなさい。それと、箸も右手で持つんだぞ」

 最初こそ、市橋は熱心だったが、二週間たっても、亨が右手で文字が書けないのを知ると、あっさりとあきらめてしまった。所詮はその程度の責任なのだから、やらない方がましだったのにと、亨はその時に思った。

 三年生になって、担任が計良美祢子に変わり、市橋は上級生クラスの担任となった。亨が三年生の時は、四年生の臼杵梢とともに二人で低学年クラスを構成し、驚くべきことにその年の川小には、一、二年生の児童が一人もいなかったのだが、担任は計良美祢子だった。そして、その翌年になると、臼杵梢が上級生クラスとなり、四年生の亨は、一年生でその年に入学してきた本間桃佳といっしょに低学年クラスへ配置された。上級生クラスの担任が市橋で、低学年を受け持ったのが計良である。市橋は、上級生クラスの担任に昇格してからは、たまに低学年クラスへ用事で顔を出すのだが、その際に声を掛けるのは決まって、臼杵梢であり、本間桃佳であった。まあ、考えてみれば何もしゃべらない亨より、可愛げがある臼杵梢や本間桃佳の方が、話していて楽しいことは、大いに納得できる。

 しかしながら、いくら臼杵梢や本間桃佳が可愛くても、あの人には到底及ぶまい。

 神楽澪――。亨よりも学年が三つ上の、清楚な女の子。長い黒髪に端正な顔立ち。ピアノがとても上手で、彼女が弾く調べを遠くからこっそり聴くことが、亨は好きだった。もちろん、梢や桃佳でさえも話しかけられなかった亨が、神楽澪に声を掛けるなど、一度たりとてあり得なかった。

 あの時までは……。


 あの時に交わした一語一語の会話文を、金子亨は脳裏にしっかりと記憶している。おそらく一生死ぬまで、それを忘れることはないだろう。亨にとって、人生で最も至福のひと時であり、なおかつ、最も切ないひと時であった。

 あの日はこれまで見たこともないほどのひどい豪雨だった。それなのに、なぜか亨は、朝早く起きてしまい、バスも始発のに乗ってしまう。学校へ着くと扉の鍵は開いていたものの、当時の川茂小学校は夜間に誰もいなくても鍵を掛けることはなかったのだが、教員はおろか用務員さえ、まだ誰も来てはいなかった。

 まるで何かに惹き付けられるように、あてどもなく、校舎中央にある階段を、亨はとぼとぼと上っていった。すると、窓にたたきつける雨粒の音に入り混じって、上の階からピアノの音色が聴こえてきたのだ。あの人の調べだ……。でも、たしかこの前、川茂小学校を卒業していったはずなのに……。

 あの日は、そう、忘れもしない、平成十四年の六月十日。時刻はまだ七時前であった。


 音楽室の戸をそっと開ける。長い黒髪の神楽澪が、ピアノを弾いていた。もっと近づきたいと思った亨は、緊張していたためか、引き戸のレールにスリッパを引っ掛けてしまい、つんのめりながら、がたんと大きな音を立ててしまう。それに気付いた神楽澪が、すっと顔をあげて、こちらを振り向く。透き通った美しい瞳。じっと見つめられていると、まるで魔法にかけられたように、全身が硬直した。その様子を見ていた澪が、口元をふっと緩めた。

「金子君じゃない。どうしたの、そんなところで。こっちへいらっしゃい」

 いつもなら、何も告げずにその場から逃げ出していただろうが、この瞬間はなぜか、亨は吸い込まれるように、澪が座っているピアノへ自然に近づくことが出来た。

 神楽澪は、壁時計に目を向けると、そっといった。

「あまり時間はないわね。じゃあ、トロイメライでも弾こうかしら。さあ、そこへ座って。私の最後のお客さん」


 ゆっくりと流れるきれいな調べ――。この曲は何度も聴いたことがある。そうか、トロイメライというんだ……。

 演奏が終わると、神楽澪が椅子から立ち上がった。

「金子君、聴いてくれてありがとう。これで気も晴れたわ。

 さあ、もう教室へ戻りなさい。これからここでしなければならないことがあるのだけど、あなたがここにいるとちょっと迷惑なのよ」

「お姉さんは、どうしてここにいるの?」

 亨自身、この質問をいえたことを、正直、奇跡だったと記憶している。いつもなら、心臓がどきどきして、声にならないはずなのに。

 澪は少し驚いたように、上目遣いで亨のほうを見つめてきた。

「さあ、どうしてかしら。そうよね、私はもう卒業しちゃっているもんね」

 そう告げて、澪はくすくす笑いながら、窓の外へ目をやる。晴れていればだいぶ明るくなっているはずなのに、まだ真っ暗だ。

「金子君。あなたが今、ここへ来てくれたのも、何かの縁かもね。だから、あなたには教えてあげる」

 亨はドキッとした。

 神楽澪との秘密……。別に、澪から愛の告白を受けることを期待していたわけではない。そもそも、そんなことがあり得るはずがないのだから。今伝わってくるのは、そのような甘美なたぐいのものではなく、何かぎすぎすしたような違和感であった。いてもいなくてもさほど影響を及ぼさない、空気のような亨に対して、澪がどうしても語りたい秘密とは、いったいどんなものなのだろう。

「そうよ。あなたには教えてあげる……」

 澪は繰り返した。形の整ったくちびるが、ゆっくりと動き出す。

「この学校にはね、ふふっ。悪魔がいるのよ――」


 告げられた瞬間、亨の頭の中は真っ白になった。何か得体の知れないものがぐるぐると回っていて、自分の身体が真っ逆さまにひっくり返されたような感覚に陥った。

 この学校には悪魔がいる……。澪はいったい何を訴えたいのか。

「どうして、そんなことを、僕に……」

 訳も分からず、亨は口ごもった。

「あら、ごめんなさい。急にそんなことをいわれても、金子君、きっと混乱しちゃうわよね。

 さあ、いいから、教室へ行きなさい。もう、時間がないのよ」

 澪の顔から笑顔が消えていた。何か怒られているような気がしたから、いわれるがままに引き下がろうと思ったが、気になることがあったので、最後の勇気を振り絞って、亨は尋ねた。

「お姉さんは、これからどうするの?」

 なんでこんな質問をしたのか、今でも不思議に思っているが、何か霊感インスピレーションじみたものを、この時の亨は感じ取っていた。

「私はいいのよ。もうすぐ消えちゃうんだから。そうね、あえて付け加えるとすれば、何もかも疲れちゃったってことかな。

 ああ、あなたは何も気にする必要はないわ。別にこの島に来た時から、私はすでにもぬけの殻だったの。今さら何の未練もないんだけど、でもちょっとだけ悔しいことがこの前あってね。その恨みをこの手紙にしたためてみたのだけど、最初はこの音楽室のどこかへ隠しておこうかなって思っていたわ。あとになってからこれがふっと見つかって、公表されるようなことがあったら、ふふふっ。面白いじゃない。

 でも、あなたを見て気が変わった。この手紙はあなたに託すことにするわ。だから、しばらくのあいだは大切に保管しておいてね。そして、ある時期が来たらこの手紙を開封して中身を読んでちょうだい」

「中に悪魔のことが書いてあるの?」

「ふふっ、そうかもしれないわね。さあ、もう行きなさい。これは私からの命令よ」

 亨は、封がされた封筒を受け取ると、逃げるように階段を駆けおりた。誰もいない教室へ入ると、二つしかない児童机の片方に、もちろんこちら側が亨の机である、腰を下ろすと、腕の中に頭をうずめて、机に突っ伏した。不意に涙が込み上げてきた。何か大変なことが、これから起こってしまうような気がしたが、もはやどうすることもできなかった。


 しばらくすると、廊下を誰かが歩いていった。用務員の見回りだろう。さらに、どれくらい時間が経ったのだろうか。

「あら、金子君、早いわね」

 計良先生の声がしたが、おっくうだったから、亨は顔をあげずに無視をした。やがて、本間桃佳が部屋に入ってきたが、何も声は掛けてはこなかった。もっとも、こうして机に突っ伏されてしまっては、声の掛けようもないのであろうが。

 さらに、少しだけ時間が経過したような気がする。

「金子君、起きなさい。朝の会を始めますよ」

 計良先生の声が、また聞こえた。ああ、始業の時間なんだ……。顔を上げて、亨は椅子から立ち上がろうとした。

 すると、上級生クラスで朝の会をしているはずの市橋斗馬が、真っ青な顔をして、低学年クラスの教室へ飛び込んで来た。

「計良先生。大変なことが起こっています。すぐに来てください!」

 それから、しばらくどんなやり取りが交わされたのか、亨は全く覚えていない。ただ、ポケットの中に入れてある封筒が、何か急に、石のように重たくなったような気がしてならなかった。


 神楽澪が音楽室で自殺をした――。 

 その日は学校の授業が中止されて、児童たちは強制的に帰宅をするように指示された。とはいっても、この時間帯になるとバスは走っておらず、外は土砂降りであったのだが……。

 帰り道の途中、いつもはのどかな小川が、今日は洪水のように荒れ狂っていた。亨は澪から受け取った封筒を、くしゃくしゃと丸めると、轟々と音がする濁流の中へ投げ込んでしまった。身に付けているのが、とても重苦しくて、怖かったからだ。


 そう、これが二十歳はたちを過ぎた今でもひた隠している、亨の秘密の全貌である。でも、この秘密を知る者は、もはや誰もいない。神楽澪はすでに死んでいる。どう考えたって、バレるはずはないのだ。

 ただ、大人になった今、亨はちょっとだけ後悔をしていた。あの時どうして、悪魔が誰なのかきちんと確認をしてから、手紙を捨てなかったのだろう……。

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