21.幼き未亡人
小木の土産物売り場を出るとすぐに、本間桃佳の自宅を訪れたものの、玄関口へ出てきた母親からは、娘は今熱を出しとりまして、ちょっとお話しすることができんちゃと、あっさり面会を断られてしまい、仕方なく鴇松と烏丸は、桃佳への訊き込みを後日へ後回しすることとした。となると、次に行くべきところは、被害者の遺族ということになろうか。
市橋斗馬の家があるのは、月布施という集落である。小木から佐渡島の南の海岸線を、東へひたすら突き進むと、途中に、羽茂、赤泊、松ヶ崎、岩首、と集落が次々と流れては去っていき、やがて水津へ至るのだが、水津の手前に最近できた新しいトンネルがあって、そのトンネルの手前にあるのが月布施集落だ。となりの赤玉集落と共に、狭くて急な山岳傾斜地を開墾した美しい棚田が有名で、海沿いに二十軒ほどの家々が立ち並び、小さいながらもささやかなる賑わいを見せている。
市橋斗馬の家は海岸通りから少しだけ内陸へ入ったところにあり、見た感じ、かなり立派な家であった。のちに聞いた話によると、もともとは妻の両親が住んでいた旧家であったが、娘が市橋と結婚するのを機に、両親は島の中央部にあたる国中平野に小さな新居を立てて、そこへ引っ越していまい、娘夫婦に、先祖代々受け継いできた屋敷を譲ったのであった。一方で、市橋斗馬の実家はもともと小作人であり、しかも斗馬自身が公務員という安定した職に就いていたこともあって、嫁の家の養子となることに関して、彼はあまり嫌悪感を持たなかったみたいである。
鴇松たちを出迎えてくれた市橋の未亡人は、見た感じはかなり若くて、まだあどけなさを残す女性であった。
「小田心愛です。市橋斗馬の家内です。あの、警察の方ですか」
どうやら市橋夫妻は、夫婦別姓で生活をしていたようである。これもあとから分かった話であるが、市橋斗馬は、小田家の養子になることに関しては、露ほどの異存もなかったのだが、苗字が変わってしまうのには、自分が教壇に立っていることもあり、どうにも気まずい、ということだったらしく、そこで提供された妥協案が、夫婦別姓での暮らしであった。
妻の小田心愛は、臼杵梢や本間桃佳みたいに、すれ違った瞬間に誰もが振り返るような、派手な美人ではないが、おっとりと奥ゆかしく、一見目立たないようで、妻にするならこういうタイプの女性こそが理想的だ、といわれそうな美人である。
縁側に腰を下ろした鴇松が、挨拶をするために帽子を取ると、奥の間で子供が騒いでいる声がして、そばで座りかけてようとしていた心愛が、慌てて立ち上がると、奥の間に駆け込んでいって、なにやら叱っているような小声が聞こえてきた。
「すみません。まだ幼くて、ちっとも落ち着きがないんです」
戻ってきた心愛は、あらためて膝をたたんで座り直すと、鴇松へ頭を下げた。
「元気なお子さんじゃないですか。おいくつですか」
「上の長男が五歳で、下の長女はまだ三歳です」
少しうつむきながら、小田心愛は答えた。
「この度はまことに残念なことでして。なんと申し上げたらよろしいのか、心よりお悔やみ申し上げます」
まずは、お決まりの文句で、鴇松が話を切り出した。
「こういうのもなんですけど、もう涙も枯れ果てましたわ。今は子供たちをどう育てていけばよいのか、それだけを毎日考えています」
小田心愛はふっとため息を吐いた。
「刑事さん。斗馬君を殺した犯人を、絶対に捕まえてくださいね」
斗馬君……。心愛が亭主のことを『君付け』で呼んだので、鴇松は一瞬拍子抜けした。
「はい、警察の威信にかけて、必ずや犯人を逮捕してみせます」
またもや、お決まりの言葉で、鴇松が返答した。
「そのためには、奥さんの知っていることを、なんでもいいから、話してください」
「そういわれましてもねえ……」
「ご主人はどういう方でしたか。その、お人柄というか」
「斗馬君はイケメンだけど、とっても可愛いところもあるのよ。まだ子供っていうか、おつむはちょっと弱いのが玉にキズかなあ。ああ、一応学校の先生はしているから、教壇に立っている時は格好つけているみたいだけど、本当は気が小さくて、いつも人の目をこっそりとうかがっているのよ。でも、みんなからおだてられれば、引くに引けなくなっちゃう性格だから、結局はなんでもやっちゃうの。それで熱血漢だと勘違いされているのよね。
水津の祭りだって、斗馬君は四十歳を過ぎているんだから、鬼太鼓の舞なんて体力的に無理なのに、若手がいないからどうしても、といわれて、それで断り切れずに参加をしたのよ。だから、こんなことになっちゃって……」
ここで心愛は一瞬言葉を詰まらせた。
「ごめんなさい。つい、感傷的になってしまって。
ずっと昔のことなんだけど、ある日小学校の校庭に猪が出ちゃってね。児童たちが危なくて運動場へ出られないから、誰か猪を追い払ってこい、って話になったらしく、若手男性教員だった斗馬君は、刺股を手にして、ひとりで猪と対峙したんだけど、追い詰めた最後のところで、猪から体当たりをされちゃって、その際に膝を痛めてしまったんです」
「膝をどう痛めたのですか」
どうでもいいことだと思ったが、つい勢いで、鴇松は問いかけてしまった。
「膝の関節を痛めたみたいよ。十字なんとかだって……」
前十字靭帯の損傷か。完治が難しい部位だな、と鴇松は腹の中でひそかに思った。
「だから、いまでも後遺症が残っているんです。歩いている時は普通に見えるけど、全力で走ったり、踊りを踊ったりすると、どうしてもぎこちない動きが出ちゃうみたいで、だから、そもそも祭りの舞なんて無理なのに、おだてられると断れずに、ノリでやってしまう人でした」
「ご主人はとてもいい人だったのですね」
鴇松は、未亡人に優しく声を掛けた。
「斗馬君はもともと運動神経が抜群なんです。なにしろ、高校時代には陸上の選手として県大会で三位に入っているんですからね。あら、何の種目だったっけ。
だから、あの時、猪に体当たりされたのも、ちょっとした油断があっただけなんです。まんまと母猪を校庭の隅っこまでは追い詰めたところまでは良かったんですけど、その時に怯えた子猪が横へ走り出しましてね、それに目を取られた瞬間に、母猪が突進してきたんです。だから、除けきれなくて。それがなければ……」
「そうですか。それにしても、まるであなたがそばで見ていたかのような語り口ですなあ」
鴇松が歯を見せて笑った。
「ええ。だって、私、その様子の一部始終を、間近で見ていましたもん」
「なんですって?」
「当時、私は松ヶ崎小学校に通う六年生でした。斗馬君はその時の担任の先生です」
教師と教え子の結婚……。世間ではよくある話なのかもしれないが、さすがに鴇松も驚愕の念を隠せなかった。
「ええと、奥さんは年齢がおいくつで?」
「二十四です」
「ということは、ご主人がたしか……」
「四十二の厄年でした。ああ、先日誕生日を迎えたから、今は四十三になっています。ええ、その通り、私たちの年齢差は、十九歳もあります。まさに年の差婚ですわね」
鴇松は、懐からしわしわのハンカチを取り出すと、額の汗をぬぐった。
「そのお、ご結婚をなされたのが?」
「六年前です」
「はあ……」そうつぶやいて、鴇松は指を追って何かを数えると、顔をあげて心愛へ振り返った。「となるとですね、まことにお聞き苦しいことなのですが、ご結婚を決意されたきっかけは?」
「斗馬君が直接私に告白をしたんです。結婚をしてくれ、ってね」
「それはいつのことでしたか」
「結婚する三月前ですわ」
鴇松が思わず声を詰まらせる。それを見て取った心愛が、続けた。
「ええ、別に隠すことではありませんからね。
そうです。私たちが付き合い始めたのは、私が高校三年生の秋が暮れる頃でした。そして、私が高校を卒業した翌日の三月四日に、私たち二人は、佐渡市役所へ行って婚姻届けを提出したのです」
幼き未亡人は、臆することなく、堂々と返答した。
「ところで、ご主人が殺された時に、奥さんはどちらにいらしたのですか」
さりげなく、鴇松は市橋心愛のアリバイを確認することにした。もちろん、今回の犯人が心愛であるなどとはひとかけらも思ってはいないのだが、あとになって捜査がどう動いていくのかがまるで予測がつかない現情勢では、聞いておく必要があると判断したからだ。
「あの日は家にずっといましたよ」
心愛が素っ気なく答えた。
「ご主人と一緒に水津のお祭りへ行かなかったのですか」
「私、あんまりお祭りとかが好きじゃないんです。それに、あの日はたまたま高校時代の友達がやってきまして、ついついお昼過ぎまでいっしょにお話しをしてしまいましたわ」
「そうですか。高校時代のお友達ですか。良いですなあ」
「ええ、本当に久しぶりだったから、とっても懐かしくてね」
「それは楽しんだことでしょう。それで、そのお友達はいつまでここへ見えたのですか」
「たしか……、三時頃に帰っていきましたわ」
「そうですか……」
午後三時に友人がここを去ったということは、小田心愛がその気になれば、四時に姫崎灯台まで出向いて犯行が行えたことになる。残念ながら、彼女のアリバイは不成立ということだな、と鴇松は口には出さずに、そう納得をした。
「よろしければ、お友達のお名前を教えていただけませんかね」
その友人から話を聞いたところで、殺された被害者の情報が得られるとは、到底期待できないのだが、何事にも念には念を入れるのが鴇松の主義だった。しかし、このあと小田心愛が告げる人物の名前は、鴇松の度肝を抜くには十分過ぎるほどの衝撃があった。
「本間桃佳という子なの――。
佐渡中央高校でクラスがずっと一緒だった、一番の仲良しよ」