20.アリバイ無き者は?
市橋斗馬が殺されてから三日が経過した四月十四日に、ようやく、鴇松警部補は佐渡警察署へやって来ることができた。というのも、本土の三条市で変死事件が生じて、そちらの捜査にかなり手間取っていたからだ。
今回の姫崎灯台で起こった殺人事件では、さすがにマスコミも騒ぎ始め、本土からもすでに大量の記者たちが押し寄せていた。なにしろ、今回は変死ではなく、リアルタイムの目撃者もいるし、どう見たって殺人であることが明白なのだ。警察がいくら事を荒立てないようにしようとしても、もはやどうすることもできなかった。
佐渡の水津祭りで、児童たちから人気があった小学校教諭が殺される。殺人犯は、大きな鉈を振り回す鬼であった――。
残虐非道な殺人事件の報道に、世間の人々は大いに震撼した。
午後になってから鴇松は、姫崎灯台で起こった事件の詳細報告を、烏丸巡査部長から受けた。
被害者は、市橋斗馬、四十三歳。旧新保村地区出身の小学校教諭で、現在は佐渡市立前浜小学校で勤務しているが、実は、かつての川茂小学校で、計良美祢子と共に、教壇へ立っていた人物でもある。
「やはり、川茂小学校が絡んでくるか……」
思わず鴇松がつぶやいた。この事件で、つねに背後を付きまとうのが、今は無き川茂小学校なのだ。
まず、市橋の勤務校歴が報告された。それによれば、初任から四年間を川茂小学校で勤め、川茂小学校が閉校すると、赤泊小学校へ転任し、そこで二年間を過ごしてから、次に松ヶ崎小学校へ移動して、七年間を勤務した。現在は前浜小学校で、この四月からは在校勤務九年目を迎えている。前浜小の校長の話では、仕事ぶりはいたって真面目で、熱血漢な一面もあり、児童たちから慕われていた先生であったそうだ。
事件当日の四月十一日は、土曜日だったので学校への勤務は無かったが、地元の水津祭りが開かれており、市橋斗馬は、青年会の一員として、みずから鬼の面をかぶり、奉納の舞を踊っていたそうである。最近の水津地区の若手不足は相当に深刻で、青年会には、学校の教員や駐在所の警察官も駆り出されているのが、実状のようである。
市橋斗馬の遺体が見つかったのは、姫崎灯台の真下に当たる地面で、時刻は午後四時頃とされている。偶然にその場所を通りすがった男女の大学生四人組が、犯行の一部始終を直接目撃していたというのだ。特に、リーダー格の関口という男子学生の証言によれば、実のところ、四人がした供述ということにはなっているが、その大部分は、この関口という学生がしたものであったらしい。その話しぶりは、かなり興奮気味であり、いくぶん大げさに話を誇張してしまう癖があるように、烏丸は薄々感じていたそうだが、その関口の話によれば、灯台の上で、被害者と犯人がもみ合っているうちに、犯人が懐からいきなり鉈を取り出して、あろうことか、被害者の脳天に打ち下ろしたかと思うと、まだ息の根が絶えない被害者を、落差十メートルはあろうかという直下の地面へ、無残にも、突き落したとのことであった。
しかし、四人も目撃者がいたというのに、肝心の犯人の容姿となると、四人とも口をそろえて、犯人は鬼の面をかぶっており、人相などは全く分からなかった、と述べた。それに、中肉中背で肉体的な特徴も特に見られなかった、というのも、四人の見解で一致した意見であった。
検死解剖の結果、直接の死因は、地面に激突した衝撃による頸椎骨折であったが、とにかく脳天からの出血もひどく、たとえ首の骨を折らなかったところで、いずれにせよ被害者を助けられる見込みは皆無であったとのことだ。実際には、犯人からの襲撃を怖れた学生たちが、県道まで一斉に避難をしたので、被害者の発見は、それから一時間以上も後のこととなってしまった。その時には、被害者はとっくにこと切れており、犯人はすでに現場から姿を眩ませていた。逃避経路は、海岸線伝いに歩くことができる余地があって、どうやらその手段で、到着した警察の包囲網をかいくぐって、犯人はまんまとどこかへ逃げてしまったみたいである。
市橋斗馬の体内からは、大量のアルコールが検出された。しかし、それ以外には、たとえば、睡眠剤や薬物などの成分はいっさい検出されなかった。水津の祭りで鬼になって踊っていた市橋は、青年会が催した打ち上げ会なるものに参加しており、そこで出された日本酒を思いっきり飲んで、すっかり酔っ払っていたそうだ。さらに、その場に参加していた複数の人物からの話を総合すると、打ち上げ会の途中までは、市橋は仲間と一緒にわいわいと騒いでいたそうだが、三時過ぎになって急に、用事があるといい残して、公民館を立ち去ると、それからぱったりと消息が途絶えてしまっている。誰かから電話で呼び出されたのではないかと、証言する者もいたが、実際に呼び出されていたのかどうかまでは、はっきりとしていない。
「さっそくですが、烏丸巡査部長。若林航太、臼杵梢、金子亨、本間桃佳の四人の川茂小学校の関係者のアリバイを、片っ端から当たってみてください」
捜査の指揮を執る権限を持った鴇松が、烏丸へ指示を出した。
「金子亨と臼杵梢には、すでにアリバイ確認の聞き込みをしております」
鴇松が来るまでの三日間を我々は決して遊んでいたわけではない、とでもいいたげな様子で、烏丸が答えた。
「ですが、まず、金子亨の方ですけど、彼の場合は例のごとくといってしまえばそれまでですが、土曜日の夕刻のアリバイはありませんでした。その日の漁師の仕事は、朝のあいだに終わっていて、翌朝の仕事も早くなりそうなので、あのほったて小屋で、一人テレビを見ながら、のんびりと過ごしていたそうです。そして、それを証言できる人物も、誰もいないみたいです」
「彼が住んでいる場所は、松ヶ崎ですから、姫崎までは車で三十分くらいですかね」
「いえ、今では長いトンネルもできたし、道路も広くなりました。昔と比べれば、格段に走りやすくなっていますから、もっと早く行けると思います」
金子亨――。アリバイだけを考慮すれば、彼こそが最有力容疑者だ。本間柊人、計良美祢子、市橋斗馬のいずれの事件でも、彼には明確なアリバイが存在しない。しかし同時に、心情的にはもっとも犯人ではなさそうな人物が、金子亨なのだ。あまり物事の先を考えずに行動するタイプで、今回の犯人像とはまるでシンクロしない。動機にしても、これといった理由が見つからない。もっとも、小学校時代にも友達もおらず、人と話すのが苦手な児童が、長年のうっ憤が積もり募って、爆発してしまった、という可能性は、まんざら否定ができなくもないのだが。
「臼杵梢は?」
「はあ、その臼杵梢ですけども……」
烏丸が急に口ごもった。
「どうかしましたか?」
烏丸の変調に気付いた鴇松が、穏やかに尋ねた。
「我々警察の度重なる訊き込みに、いよいよ嫌気がさしたみたいでして、昨日、本人と会いまして、四月十一日の午後のアリバイを訊ねたところ、何を話しても自分が容疑者扱いをされてしまうのなら、もうあなたたちに話すことなどありません、と、かなりヒステリックに応接されましてね。そのあとは自宅へ閉じこもってしまい、どうにも会ってくれないのですよ。同居しているおばあさんが説得をこころみてくれたのですが、頑として受け入れてもらえませんでした」
「もともと精神的なプレッシャーには強そうな女性では、彼女はなさそうですからね。仕方ありません。でもそれでは、臼杵梢にもアリバイは成立していない、ということになってしまいますな」
鴇松がため息を吐いた。
「まあ、そういうことになってしまいますが、そもそも、市橋の事件に関していえば、犯人はあの屈強な市橋と格闘をしたのちに、鉈を市橋の脳天に叩き下ろしたということですから、相当な腕力を有していたことになります。犯人はまず男と断定して良いのではありませんか」
烏丸が付け足した。
「市橋はアルコールをかなり飲んでいたそうですから、もしかしたら腕力のない人でも対等に戦えたのかもしれませんね。それに、犯人は中肉中背ということですから、犯人が女性であった可能性も、依然として捨てられません。臼杵梢も本間桃佳も、背丈だけでしたら160センチ以上ありますからね」
「それから、若林航太ですけど、彼を当たってみる必要はありますかねえ。たしか、計良美祢子殺害の時間帯には、彼は鉄壁なアリバイを持っていましたけど」
烏丸が、控え気味に、本音を打ち明けた。
「私は、計良美祢子殺害時の若林のアリバイは、なんらかの巧妙なトリックが用いられたものと、今でも信じております。私にとって、彼は依然として、最有力容疑者の一人です」
鴇松はきっぱりといい切った。
「そうですか。分かりました。若林航太への訊き込みもしてみましょう。
とはいうものの、まずは本間桃佳から当たってみますかね。たしか彼女は土曜日が勤務日だということですから、犯行時刻にはおそらく観光センターで仕事をしていたはずです。職員にちょっと聞いてみれば、すぐに彼女のアリバイは確認できることでしょう」
烏丸の意見に、そうだと思います、と鴇松はあまり深く考えずに答えた。
旧小木町地区は、佐渡島の西南の端っこに位置している。街の中心にはフェリーのふ頭があって、旅館や飲食業店もそろい、そこそこにぎわっている。ふ頭から車で十五分ほど走れば、宿根木という有名な観光集落があって、狭い土地ながらも、船大工によって作られた当時の面影を色濃く残すユニークな家々が立ち並び、国の重要伝統的建造物群保存地区にも認定されている。
鴇松と烏丸は、小木湾のターミナルと建物でつながっている、有名な土産物売り場を訪れた。本間桃佳が、このショッピングセンターで売り子として働いているのだ。直接、桃佳に会って話を聞こうと思って、ここへやってきたのだが、今日は風邪をひいて仕事を休んだ、とのことだった
店主と名乗る男が、鴇松たちを出迎えた。四十前後の、ちょっと中年太り気味な人物である。
「ようこそ、刑事さん。私は、このセンターで責任者を務めます、菊池と申します」
「新潟県警の鴇松警部補です。こちらは佐渡警察の烏丸巡査部長。
実は、こちらで仕事をされている、本間桃佳さんのことについて、少々お伺いしたいことがありまして……」
「桃花ちゃんですか。いい子ですよ。はい、とっても」
間髪を入れず、店主はほめたたえた。
「今日はお休みですか」
「はい。朝に電話がきちんとありまして、桃佳ちゃんは、今日はちょっと熱を出してしまったようですね。可哀そうに」
「いつごろから、こちらでお仕事をされているのですか」
「ちょうど一年前の四月からですかね。大学を出てからすぐにここへ就職してくれまして、いやあ、本当に助かっておりますよ。
なにしろ、彼女が来てくれてからというもの、うちの売り上げは倍増していますからねえ。
そりゃあ、売り子がおばさんであるよりも、若い娘さんの方が、お客さんもうれしいでしょうし、なによりも、桃佳ちゃんと来たら、とびきりの美人ですからねえ。それだけじゃありませんよ。桃佳ちゃんは、痒い所に手が届くというか、細かいことまで本当によく気が利くんです。一例をあげれば、お客さんが品定めで悩んでいる時には、桃佳ちゃんはむやみにお客さんへは近づいていかず、お客さんからの視線を受けてからようやく、何か御用でしょうか、とさりげなく声を掛けて、それから、お客さんの要望に丁寧かつ的確な応対をするんです。頭だってとってもいい子ですから、お客さんを怒らせるような態度を取ってしまうことは、まずありません。皆さんにこにこしながら、おみやげをたくさん買って行かれますよ」
とにかく店主は、桃佳のこととなるとべた褒めだった。
「先週の四月十一日、土曜日のことですけど、たしか以前に、彼女は土曜日が勤務日だと伺っておりますが、桃佳さんは、こちらでお仕事をされていましたか」
「先週の土曜日といえば、水津の殺人事件がありましたよね。まさか、桃佳ちゃんが警察から何か疑われているのですか」
「いえ、詳しくは申せませんが、これは形式的な訊き込みに過ぎません。桃佳さんがこちらでその日の夕方にお仕事をされていたことさえ確認できれば、我々はそれで満足して引き下がりますよ」
「そうですか。さっそく調べてみましょう」
菊池は奥へいったん引っ込むと、出勤簿を手にして戻ってきた。
「お待たせしました。ええと、十一日の土曜日でしたよね。私はその日たまたま出張で、外へ出ておりましてねえ。まあ、桃佳ちゃんのことですから、仕事をサボるようなことは絶対にありませんからねえ。きっと、出勤しているはずですよ。
おや……」
「どうかされましたか」
「いえ、おかしいなあ」
そう一言残して、菊池は売り子をしている中年の女性のところへ走っていき、なにやらやり取りをしてから、慌てて戻ってきた。
「刑事さん。そのお、桃佳ちゃんですが、十一日の土曜日は、そのお、たまたまですけど、その日だけは出勤をしておりませんでして、なんでも、その日は高校時代の友達に会うということで、年休を取っていたみたいです」
蒼ざめた顔をしながら答えた店主の返事に、鴇松と烏丸は互いに顔を見合わせた。
「刑事さん。桃佳ちゃんは、とってもいい子です。身内の私がいうのもなんですが、決して、そんな残酷な事件にかかわるような子じゃありませんよ。
ニュースの報道によると、犯人は鬼の面をかぶっていて、何者かは分かっていないそうですが、被害者とさんざんな格闘をしたのちに、挙句の果てに鉈を振り回して、脳天を叩き割ったというじゃありませんか。そんなことができるのは絶対に男だけですよ。桃佳ちゃんのようなか弱い女の子に、そんな残酷なこと、とてもできるはずがないじゃないですか」
必死になって部下をかばう店主の姿に憐れみを感じたのか、鴇松は、「直接本人に聞いてみればアリバイがきっと確認できることでしょうね」と、最後は逆に彼を慰めていた。