1.通夜
「おめが車さ運転しとりゃあ、こげえ酷な目に合わんで済んだっちゃに……」
里子からいつもの愚痴が飛ばされると、前を歩く梢は思わず眉をひそめていた。
祖母が免許を返納したのはおととしのこと。目が悪くなり、足も弱ってきたから、大きな事故を起こす前に運転は止めてしまおうと、祖母にしては潔い決断であったのだが、同時に、車の側面を一度こすった経験がある梢も、ちょうど運転に自信を失いかけていたところで、これを機に、祖母と孫娘の二人暮らしの臼杵家は、思い切って車を廃棄することにしたのであった。
ところが、廃棄してみればあらためて車の重宝さが身に染みてくるのが人の性というもので、後悔はしたけど、もはやそれもあとの祭りであった。
上川茂バス停で降りてから、かれこれもう十五分ほど歩いている。もっとも祖母は足が悪くて歩くのが遅いから、大した距離を進んでいるわけではないのだが、祖母からしてみれば、足の痛みに文句の一つもいいたい気持ちになるのも、おおむね理解はできる。
この辺りは民家もまばらで、見渡しても田んぼと藪しか見えない。街灯たぐいは皆無ゆえ、民家がなくなれば、すなわちそれは、灯りが途絶えることを意味する。灯りが途絶えれば、あたりは漆黒の闇に包まれる。そんな闇夜は、満天の星が街灯の代わりとなって、地面を照らすのだ。
「ああ、また落ちたよ、ばあちゃん。これで四つ目だね」
少しでも気を紛らせることができるならと、声をかけてみたのだが、それにしても今夜の流れ星の数は異常だった。そういえば朝のニュースで、今夜はペルセウス座流星群が極大を迎えます、とアナウンスされていたっけ。
流れ星といえば、落ちるまでに願い事を三回唱えることができればその願いが叶う、と俗にいわれている。日本では、幸運をもたらす象徴の流れ星であるが、三国志では、司馬仲達が大きな流れ星が落ちるのを見て、諸葛孔明の死を確信したとされてあるように、どちらかといえば縁起の悪いものとして扱われている。もっとも、これだけたくさんの流れ星が一度に落ちてしまうと、司馬仲達もにわかには孔明の死が信じられなかったかもしれないが、などと、くだらないことも考えてしまう。
ようやく、次の民家の灯りが見えてきた――。
本間柊人の家は、小学生の時に一度訪ねたことがあり、たしか上川茂集落の一番奥にあったように、梢は記憶していた。今が二十七歳だから、それも十六年前のこととなる。それにしても、こんなに遠かったっけ?
「あの、すみません。本間柊人さんのお宅は、この近くではないでしょうか?」
見ず知らずの民家の戸を叩いてみると、中からかっぽう着姿の小太りな女が現れた。
「本間柊人?」
まもなく奥の方から、「そりゃ、滝下の長男じゃねえのけ」と、男の声がした。
「ああ、滝下かあ」女はポンと手を叩いてうなずく。「じゃったら、この道をまっすぐ行けば、じきに着くっちゃね。ちょうど五分くらいかなあ」
「ありがとうございます」
安堵した梢が頭を下げると、長い黒髪がさらりと前へ垂れ下がる。その様子を見たかっぽう着姿の女は、えらいべっぴんさんやなあと、口には出さずに感心していた。
「おれは卒業したら羽茂中だからな。梢ちゃん、お願いだから、赤泊中なんか行かんと、羽茂中に来んかね」
十六年前に柊人から聞いた言葉が、ふいに梢の脳裏をよぎる。
川茂小学校が閉校した時に、本間柊人は六年生で、臼杵梢は五年生だった。同じ小学校に通っていたのに、中学校区が別々になってしまうのだから、このような会話が交わされたのだろう。閉校直前の川茂小学校の在校児童数は、たったの五人であった。
学年が違うにもかかわらず、本間柊人と臼杵梢は同じクラスだった。児童数が少ない過疎地の学校では、このような事例は茶飯事だ。そして、梢のクラスにはもう一人男の子がいた。名前は若林航太、閉校時には六年生だった。
学年が一つ上だったからそのように感じたのかもしれないが、本間柊人と若林航太は二人とも成績優秀だった。少なくとも、梢にとって、二人は神童であった。ただ、どちらかといえば、本間柊人の方がより抜きん出ていたように思う。
教室や授業科目は同じでも、五年生と六年生では作業するメニューが違う。柊人と航太は同じテキストで、いつもやり終えるのを競争して火花を飛ばしていたが、たいていは柊人の方が早かった。柊人は作業をやり終えると、まっさきに梢のテキストをのぞき込んでくる。梢が困っている箇所を見つけては、さりげなく要点をアドバイスをしてくれた。梢が嬉しそうに笑顔で返すと、それを見ていた航太が、いつも苦虫をかみつぶすのであった。
五分で着くといわれたけど、十分ほど歩いたところで、ようやく低い丘のてっぺんにポツンと小さな灯りが見えてきた。とその時、うしろからヘッドライトが照らされて、砂利道を掻き進むタイヤ音を残しながら、白いセダンが梢たちを追い越していった。
灯りの近くまで来て見ると、それは掲げられた提灯で、御霊燈と文字が書かれてあった。いくら佐渡が田舎とはいえ、さすがに、日常生活で電灯代わりに提灯を使っているわけではない。
今夜は、本間柊人の通夜なのだ……。
玄関口には鍵が掛けられていたが、案内板が表示されている。指示に従って庭へ出ると、縁側の両脇に大きな行灯が二つ置いてあって、周りを明るく照らしていた。
屋根がなくて外へ飛び出した縁側のことを『濡れ縁』と呼ぶ。本間家の縁側はまさに濡れ縁であった。でも、縁側に近づいて行灯を見ると、光源はろうそくではなく、電灯であったので、梢は少し落胆した。虫除けのために撒かれた樟脳のにおいと、家の中から流れ出る線香の香りとが入り混じって、つんと鼻を突く。足場には、普段は置かれていなかろう木板が敷いてあり、女性の茶色いの皮靴が手前に一足そろえてあった。どうやら、先客がいるらしい。
縁側に面したたたみ部屋が、通夜の場となっていた。正面に見える床の間には、故人の遺影が、花瓶に生けられた菊の花とともに飾られていて、その真上に『本間法律事務所代表弁護士、本間柊人』と、故人の肩書きと名前が大きく毛筆で記されてあった。真ん中に白い棺桶が横向きに置かれていて、喪服に包まれた柊人の母親と妹が、そばに置かれた椅子に座って待機をしていた。先客の老婦人が帰ろうと、部屋を出たすれ違いざまに、祖母が呼びかけた。
「あらまあ、美祢子ちゃんじゃねえの」
名前を呼ばれた老婦人が、驚いて立ち止まる。「おや、里子さん。それに、梢ちゃんよね。まあ、久しぶりだこと……」
老婦人の名前は計良美祢子。川茂小学校が閉校した当時の校長先生であった。
「覚えているわよね」美祢子が念を押すように見つめてきたから、「もちろんです。校長先生……」と、梢は答えた。もっとも会ったのは、小学校の閉校時以来であったから、かれこれ十五年くらいは経っていようか。
「柊人君は本当にお利口な子だったわねえ……」計良美祢子が感慨深げに独り言をつぶやく。
「先に対面を済ませてから、また来ますね」と、にっこり笑って、梢は家の中へ進んで行った。
祖母に続いて棺に納められている柊人の顔を拝む。ドライアイスが解けて出た白い煙がかすかに漂ってくる。死化粧がきついせいなのか、まるで作り物の蝋人形のようで、小学校の時の面影はほとんど残っていなかった。
「臼杵さんね。よう来てくれたわ。ありがとね」そう告げると、柊人の母親は手にしたハンカチにまた顔をうずめた。梢は横に座っている妹の桃佳へそっと目を向ける。桃佳はなにもいわず、梢をきっとにらみ返すと、形式的に頭を下げた。優秀な兄にブラコンであった本間桃佳は、閉校当時の一年生で、梢の四つ年下に当たる。兄が好きだった梢のことを、桃佳がこころ良く思っていない可能性も、充分に想定された。
「いつ、お亡くなりになったのですか」梢の質問に、柊人の母親は「九日の未明ですっちゃ」と簡潔に答えた。
だとすると、今日が八月十二日なので、まる三日が経っていることになる。どうしてすぐに通夜をしなかったのかなと、梢は一瞬考えたが口には出さなかった。
「こげえ若えのに、もったいねえっちゃ。死因はなんだったんかのう」と、なにげなくこぼされた祖母の疑問にも、「そげんこつ、どうか勘弁してくだせえ」と、母親はあいまいな返事で濁した。
「ほんに助かったわ。美祢子ちゃんが車で来とってねえ。おらが免許返納してからいつも頼んどるけん、梢はいっこうに車を運転せんちゅうてなあ。ほんに頑固な娘だっちゃ」また同じことで、助手席に座っている祖母が愚痴を繰り返す。
「しないとはいっていないわ。したくないといっただけよ」後部座席の梢が反論した。
「昔と違って舗装道路が増えたから、みなが車を使うしね。その分、バスの本数も減っとるから、今の佐渡は車がないとなんもできんしねえ」運転している美祢子が苦笑した。
「そこさ、曲がってくれ。ちょっとカーブがきついけど、まあまあ広え道になっとるで」
里子の指示に。美祢子が左折ウィンカーを出した。竹やぶが目印のV字に曲がる脇道には『山田』と行き先が表記された標識が立っていた。里子は広い道と表現したけど、部落へ通ずるための、所詮はかろうじて車がすれ違える程度の舗装道路に過ぎなかった。少し進んだところにY字路があり、里子が右へ進むよう指示を出した。
「昔ここは砂利道だったんちゃ。今じゃあ、きちんと舗装されて便利になったがのう」祖母の独り言に、梢は黙ってうなずいた。
梢が小学校に通っていた時分、今でもそうなのだが、この道は最寄りの停車場である鍛冶屋バス停へ通じる大事な道だった。川茂小学校は、そこから山のほうへ六キロ進んだ下川茂バス停を降りたところにあった。ゆえに、梢は毎日この道を歩いて小学校へ通っていたわけだが、小学三年生までこの道は、車が通れない、人が歩いて通るだけの、竹やぶの合間を貫く、うっかり道の途中で立ち止まってしまうと緑色の尺取り虫が靴の横から這いあがってくるような、踏み固められただけの酷いぬかるみ道だった。
だから、車で家まで行こうとすると、南側の道路を大回りするか、さきほどのY字路をそのまま左へ進み、少し行ったところのわき道を右へ折れ、急激なカーブを描いた砂利道の下り坂をすり抜けて、味噌舐め地蔵の前へ出くわす小径を使うしかなかったのだが、今では、こちらの道路が舗装されて充実したので、梢たちがかつてのあのカーブ坂の小径を通行することは、全くなくなった。
もっとも、味噌舐め地蔵の小さな祠を横目に見ながら、突っ切った先に横たわる『カーブ坂の小径』は、たとえ大切な用件があったところで、梢は二度と通るつもりはなかったが……。
「ああ、ありがとうな。おかげで、あっという間についてしもうたわ」家の前の路側帯に車を付けてもらい、祖母が礼をいった。
「梢ちゃん、久しぶりで懐かしかったわ」美祢子が名残惜しそうに梢に話しかけた。
「先生。こちらこそ、うれしかったです」梢は車から降りる時に、美祢子に軽く頭を下げた。
「そうだ、梢ちゃん。古い名刺があるから渡しとくわ。退職する前のだけど、ずっと車に入れっぱなしなのよ」
そういって、梢はダッシュボードの中から縁が日焼けしかている名刺を取り出し、梢に手渡した。そこには、当時の校長の肩書きと、計良美祢子の名前、住所と連絡先までも記されてあった。個人情報保護を重視する今のご時世には、ちょっと不釣り合いな名刺だった。
「梢ちゃん、いつでもいいから、遊びにいらっしゃいな。私はそこに書いてある住所に、今でも住んでいるから。主人が五年前に亡くなって、子供もいないから、もうひとりだし、なにかとさみしくてねえ。羽茂の街中だから、来ればすぐに分ると思うわ」
「ありがとうございます、先生。きっとお伺いしますわ」
そう軽く答えた梢だが、それからしばらくして思いもかけぬ悲報を受けることになるとは、この時の彼女に予測できるはずもなかった……。
沢崎の海岸で計良美祢子の遺体が見つかったのは、それからわずか二か月後の日曜日、十月十三日のことであった。