17.港の喫茶店にて
「それじゃあ、マスター。今日はこれで、切り上げますねえ」
仕事を終えて、急ぎ足で店から出ていくバイトの女子高校生のあどけない声が響く。今日はどうしても早く帰りたい用事があるといっていたけど、デートでもするのかな。まあともかく、これで店にいるのは、客が一人と自分だけになったわけだが……。
赤泊港からほど遠くない敷地に喫茶店『マジョルカ』をオープンしてから、はや五年が経つ。赤泊港といえば、かつては本土の寺泊と佐渡の赤泊とを結ぶカーフェリーの定期便が運航していたのだが、いまではそれもなくなってしまい、単に漁船が行き交う船着き場となっている。それでも旧赤泊村地区の中心地であることは間違いなく、赤泊郵便局や赤泊小学校、赤泊中学校などのさまざまな施設が、ここには集まっている。
マジョルカの経営者である小杉悠二は、店の外へ掲げてある『営業中』の表札を、『準備中』へと、そっとひっくり返した。
今、店にいる客は、かつて同じ小学校に通っていた幼なじみの女性である。彼女の名前は、臼杵梢。小学校の時でも十分にかわいかったけど、大人に成長した今は、もはやとびきりの美人というしかない。普段は赤泊郵便局に勤めていて、最近は仕事帰りにマジョルカへちょくちょく立ち寄ることが多くなっている。もっとも今日は土曜日だから、彼女も仕事は休みのはずだけど……。
そうこう想いを巡らせていると、新潟市の繁華街の裏通りを歩いていた時に見つけた骨董品店で購入した、今や店の自慢の調度品となっているドイツ製の鳩時計が、午後四時の時刻を告げた。
「バイトの子なんだけどさあ。今日は用事があるらしくて、早々に切り上げちゃったよ。まあ、客もいないから、こっちはかまわないんだけどね。デートでもするのかなあ」
カウンターにいる客に、さりげないネタをきっかけに会話を切り出したのだが、彼女は安易には乗ってこない。ファッションセンスはまあまあで、今日は淡い紫色のブラウスに、カジュアルなグレーのロング丈パンツを履いている。
「あの子はハモ高の生徒なんだよ」
「ああ、そうなんですか……」
ようやく、梢が反応してきた。苦し紛れの身内ネタが功を奏したといったところか。
「最近のハモ高はだいぶ落ち着いているみたいだね。僕たちの頃はかなりやばかったしなあ」
ハモ高とは、旧羽茂町地区にあり、小佐渡地域では唯一の高校である羽茂高校のことだ。小杉悠二と臼杵梢は、ふたりともこの高校の卒業生である。
「マスターの学年って、結構大変でしたよね。私の学年はみんなおとなしくて、居心地よかったけど」
そういって、臼杵梢がくすりと微笑みを返した。今日彼女が見せる最初の笑顔だ。
「その通りだよ。なにしろ、最初四十人もいた生徒が、卒業時には二十九人になっていたからね。みんな学校が嫌になってやめちゃったんだ」
「私の学年ははじめから二十五人で少なかったから、かえってみんな仲良くやっていたのかもしれませんね」
「そうだね。最近のハモ高は、生徒も落ち着いていて、結構評判もいいみたいだよ。でも、生徒数はだいぶ少なくなっているらしく、バイトの子の学年は全部で十七人しかいないってさ」
「少子化が進んでいるから、仕方ありませんね」
「そうだよねえ。かといってさ、高校くらいは卒業しとかないと、なにかと将来がきびしくなってしまうこのご時世だからね。
あな、うとましきかな。この世はどうしようもない闇と矛盾をかかえてしまっている……」
小杉悠二と臼杵梢は、学年は二つ違いで、小学校と高校は同じだったが、中学は行政区の違いで別々だった。小杉は、川茂小学校、羽茂中学校、羽茂高校を卒業しているが、梢は五年生までは川茂小学校で、一年だけ赤泊小学校で過ごし、その後は赤泊中学校、羽茂高校という学歴だ。
臼杵梢は、小学校の時はどちらかといえばやんちゃであどけないかわいらしさがあったが、高校に入ってきた時の制服姿には、本当に驚いた。背丈もすらりと高くなっていて、見た感じ、淑女たるべく品格がすっかり出来上がっていた。とはいっても、まだ高校生であるから、同級生たちとにこやかに談笑を交わしているのだが、当然のごとく、まわりの男どもが梢という美少女の存在を見過ごすはずはないわけで、当時三年生だった小杉は、それが気になってしまい、勉強も全く手つかず状態のまま、もんもんと毎日を送っていた。とはいっても、みずから梢に声を掛けられるほどの度胸もなく、遠くからじっと見守るしか手立てはなかった。
さいわいなことに、小杉が観察していた限りでは、梢は男子から近寄られてもさりげなく受け流していたし、いつも仲の良い女子同士で集まって輪を作りながら学校生活を送っていたから、ふしだらな男女関係までにとうてい及んでいないことは、まず間違いなさそうに思われた。
そんな高校生活もあっという間に過ぎ去り、小杉は大学への進学はあきらめ、しかもいったんは就職をしたものの、一年も持たずにその会社を辞めてしまい、フリーターとして安定した収入も得られず、路頭に迷っていたところを、赤泊港近くの喫茶店の経営者が高齢のためにやむを得ず店をたたむとの丸秘情報を得て、微々たる借金をしてはじめた喫茶店業であったが、この仕事はわりかし小杉の性格にも合っていて、一生懸命やっているうちに、いまでは黒字経営に変わり、バイトも一人だけなら雇えるまでになっていた。
そんなおり、あれはたしか去年の秋頃からだろうか。臼杵梢がときどきマジョルカに姿を見せるようになった。高校時代にも増して、気品がただよう素敵なお嬢さんになっていて、小杉は彼女が店へやってくるたびに、いつも心がときめくのだ。
「そういえば、計良先生が亡くなってしまったね」
話すネタに困った時は、やはり身内ネタに限る。
「校長先生とは柊人君の通夜でお会いしたのよ。その時には、うちの祖母と同じ年齢だとは思えないくらいに元気だったのに」
「なんでも、夜遅くになってから沢崎鼻の岬へ出向いて、崖から落ちてしまったらしいね。自殺でもしたのかな?」
「まさか。先生は自殺をなさるような人ではないと思うけど……」
「そうかな。案外、人間の本質なんて分からないものさ。先生には先生なりの生きていく苦しみがあったのかもしれない」
「マスターのところへは、計良先生からの手紙は届いたの?」
「ああ、届いているよ。先生が亡くなる直前に書いた手紙だよね」
「その手紙を読んで、何か気にならなかった?」
「ううん、別に。少々、気味が悪い表現があったけどね」
小杉は、会話を途切らせないようにと必死になっていたが、次の瞬間、梢から意外な発言が飛び出した。
「あれは先生が書いた手紙じゃないわ――」
一瞬、小杉悠二の思考は閉ざされてしまう。
「先生が書いたんじゃなかったら、いったい誰が書いたのさ」
「さあ。犯人が書いたとか……」
「じゃあ、先生は自殺じゃなくて、殺されたって、梢ちゃんはいうんだね?」
「ううん、それもどうなのかしら……」
「でも、先生が書いたのではないと主張するのなら、なんらかの根拠があるのかな」
「だって、私、先生とちょっと前にお会いしているのよ。でもあの手紙は、まるで初対面であるかのような文章だったし……」
「でも、先生だってお歳を召されている。ついこの前会ったことさえも忘れていたのかもしれないよ」
梢は首を軽く横に振った。
「それになんとなくだけど、先生が書いた文章とは思えないのよ」
「どうして?」
「先生なら、『川小の子供たち』という言葉は使わない。代わりに、『川茂っ子たち』と書くはずよ。それに、『悪い子に罪を償ってもらわなければなりません』という言葉もちょっとひっかかるし……」
「なるほど。川茂っ子たちって言葉を使わなかったのは、たしかに変だ。でも、悪い子に罪を償ってもらわなければなりません、って、何かおかしいかな?」
「うーん。なんとなく、先生がいっている感じがしないのよね」
そういって、梢も首を傾げた。
「でも、手紙に書かれた『悪い子』というのは、いったいどんな子をさしているんだい。川茂っ子に悪い子なんて、いるはずないよね」
「もし、いるとすれば……」
「いるとすれば?」
「マスターは当然、澪さんのことは覚えているわよね。しかも、私たちよりもはっきりと」
「まあね。神楽澪は、川小ではたった一人だけの同級生だったからね」
「澪さんが自殺をした理由を、もしかしてマスターは知っているのかしら?」
「いや。神楽さんは僕には本音を一切しゃべらなかったからね。同級生というだけで、別に信用されていたわけでもないし。むしろ、梢ちゃんの方が、神楽さんは話しやすかったんじゃないのかな」
「でも、澪さんは私にはなにも不満とか話してはくれなかったし」
「彼女は誰にも悩みなんか打ち明けないよ。一人で心に留めておいて、それに耐えることができる強い意志を持った子だったから」
「それは違うと思うわ。もしそんなだったら、自殺なんかするはずないし」
「たしかにそうだね。結局、僕は神楽とはじっくりと本音の話ができていなかったということなのかな……。
でも、まさか……、梢ちゃん?」
口髭がトレードマークになっている小杉悠二の顔が、瞬時に蒼ざめた。
「そう。澪さんの自殺に、なんらかの関与をした人物が、川茂っ子たちの中にいたのかなって、ちょっとだけ思ったの」
「たしかに手紙には、平成十四年の六月十日と、日付まで記して、神楽の自殺との関連をほのめかしていたね。でも、十年以上も昔に起こった出来事の真相が、今になって明らかになるなんて、現実にあり得るのかなあ」
「手紙にはそうつづられている」
「だとしたら、先生は何を見つけたんだろう?」
「でも、手紙を書いたのが先生じゃなかったら……」
「ああ、なんだか、なにもかもが分かんなくなっちゃったよ」
小杉が頭を抱え込んだ。
「私は思うの。先生以外の誰かが、澪さんの自殺に関して、最近になって、なんらかの情報を得た。その人物が澪さんに好意を寄せていたのかどうかは分からないけど、とにかくその人物は、澪さんを自殺へ追い込んだ人物に対して復讐を遂げようと考えた。だから、先生の名前を語って、当時の川茂っ子たちへ手紙を送ったのよ」
「その動機は?」
「澪さんを追い込んだ人物をあぶりだすため……?」
「でもそれじゃあ、説明になっていないんじゃないかな。まず、手紙を書いた人物が先生でなかったとして、仮にこの人物をAとしよう。そして、神楽を自殺に追い込んだ人物がBだ。
これまでの経緯をかんがみると、AはBが誰なのかを特定している……」
「待って。特定できていないかもしれないわ」
「どういうこと?」
「Aはなんらかの手掛かりから、澪さんの自殺がなにものかによって誘導されたことに気付いた。でも、肝心の誘導した人物はまだ特定できていないけど、間違いなく当時の川茂っ子たちの中にいたことを確信した。だから、あんな手紙を書いたかもしれない」
「なるほど。AはまだBを特定できていないかもしれないというのだね。
たしかに、その可能性もあり得る。そして、糾弾されるべき人物Bは、当時の川茂っ子たちの中に確実にいるんだ。君と僕をも含めたね……」
「でも、Aはいったい何を見つけたというのかしら」
「さあね。なにしろ、十七年前の事件だからね。
とにかく、Aという人物は並外れた分析能力を有していることになる。そんなことができる人物といえば、本間柊人しか僕には思い浮かばないなあ。彼は川小が始まって以来の神童だからね」
「柊人君……。そうね、彼ならそれができたかもしれない。
でも、彼は……、殺されてしまった……」
「そして、計良先生も殺された。
警察の発表によれば、二人とも自殺した可能性があるとはいえ、状況証拠から見れば、やはり殺されたと考えるのが妥当だ。
となると、手紙が書かれた時には本間柊人はこの世にいなかったのだから、手紙を書いた人物Aが本間柊人でないことは明らかだ。それに、人物Aから出しに使われた計良先生は、どうして手紙投函の直後になって殺されてしまったのだろう。Aには計良先生を殺さなければならない動機があったのだろうか?」
「そうね。そこまで考えると、手紙を書いたのは計良先生で、彼女は手紙を投函してから、なんらかの変化が生じて、やむを得ず自殺を遂げたのかもしれない、という考えも、あながち捨てられないわね」
わずかにうなだれる梢の黒髪が、彼女の横顔を覆い隠す。その様子を垣間見ていた小杉は、ようやく意を決する。
「梢ちゃん。いつもだとすぐに帰っちゃうのに、今日はやけに長くいてくれるねえ」
「ご迷惑ですか?」
「いや、ありがたいよ」
さりげない素振りで切り返してから、落ち着け。さあいくぞ……。
「梢ちゃん……、結婚しないか?」
すると意外だったのか、臼杵梢はかなり動揺した表情になって、手の平をぐっとこちらへ向けてきた。
「いいえ、私なんかとても……、マスターにふさわしい女じゃありませんから……」
その言葉を耳にした時、瞬殺でふられたなと、小杉悠二は冷静に現状を把握した。