15.ピアノを弾く少女
その後の警察の捜査で、計良美祢子が死亡した十月十三日の深夜の直前となる、十二日の宵の口のことであるが、美祢子の白いセダンが自宅の駐車場に停められていなかったことが、近所の住民からの証言で明らかとなった。駐車場は美祢子の家から、羽茂の中心街を貫く道路を挟んだ真向かいの空き地にあって、数台が停められるようになっていた。住民の証言によれば、十二日の午後七時頃に車を停めた時には、美祢子の車は間違いなくそこに駐車していなかった、ということで、さらに、翌朝の十時に駐車場へ行ってみると、その時には、美祢子の白いセダンが駐車場に停められてあった、というのであった。
ところで、車内には計良美祢子以外の指紋は残っていなかったのだが、仮に美祢子以外の人物が車を使用したとしても、その人物が手袋をしていれば、指紋が付かなくても不思議はない、とのことだった。
さて、ここでこの事実をどのように解釈したら良いのであろうか。まず考えられるのが、美祢子は午後七時頃に車で外出をしており、その後いったんは自宅へ戻り、今度は車を駐車場へ停めたまま、何らかの手段で、犯行現場となった沢崎鼻灯台まで移動したという可能性だ。しかしこの場合、美祢子がどうやって沢崎まで移動したのかが疑問に残る。もしその際にも美祢子が自分の車を使ったというのなら、その車がどのような手段で翌朝に美祢子の駐車場まで戻されたというのだ。当の美祢子自身は沢崎で死んでいるというのに。だから、美祢子は、自分の車では沢崎へ行かなかったことになる。しかし、佐渡に鉄道はないし、バスも午後七時以降にはすべての運航便が途絶えてしまう。もちろん、タクシーを利用した可能性は考えられるが、鴇松は十二日の夜に関して佐渡島内のすべてのタクシー会社にどんな客を乗せたかを調べ尽くしており、それをかいくぐって美祢子がタクシーを使用できたとは到底考えられない。すると、残る可能性は、美祢子が何者かに車に乗せてもらって、沢崎へ行ったこととなるが、そうなると、移動した時刻は犯行時刻に近いはずだから、すなわち十二時前後のこととなる。こんな深夜に美祢子は、誰が運転する車に、危険も顧みず、のこのこと同乗していったというのだろうか。
もう一つ考えうるのが、美祢子以外の何者かが、午後七時に美祢子のセダンを使用していて、翌朝までに駐車場へ戻した、という可能性だ。しかし、そうだとすれば、どうやって持ち主の美祢子から車のキーをゆずり受けたのか。なぜ、運転する時に指紋を残さないようにしたのか、などの事実が説明されなければならない。そもそも、何のために美祢子の車を使用していたというのか。いちおう美祢子の親戚にはひととおり訊ねてみたが、その時刻に美祢子の車を使用したと申し出た者は、誰もいなかった。
さらに、鴇松には気になることがあった。それは、殺された計良美祢子の服装が普段着であり、さらには、履いていた靴が運動靴であったことだ。美祢子の自宅の下足箱には、革靴もいくらかあり、老いているとはいえ、女性が夜間にスニーカーを履いて外出するというのも、少なからず違和感があった。もっとも、革靴を美祢子が嫌いだった可能性もあるし、車を運転するというのなら、スニーカーが適しているといえないこともないのだが。
計良美祢子の自宅を調べていた鴇松は、ふと仏壇に目をやった。美祢子の夫と思われる男性の遺影が飾られてあったが、美祢子の写真は置いてなかった。それもそのはずで、美祢子が亡くなって以来、親族は美祢子の家にはいっさい手を触れていないみたいで、冷蔵庫の中には少々の食品が、亡くなった当時そのままに残っていた。
羽茂の町から県道81号線を北上すると、やがて十六年前に静かに閉校した川茂小学校があった跡地へたどり着くのだが、その少し手前に川茂の浄化センターがある。今から十七年前に川茂小学校で謎の自殺を遂げたという神楽澪の叔父夫婦の家が、そこの交差点を曲がった先にあった。
「澪はおとなしい子だったっちゃ。親もおらんし、何かと不満もあったと思うっちゃが、愚痴の一つもいわせん。表情をいつもおもてに出さねえんだな」
澪の叔父と称する神楽茂芳は、六十は間違いなく超えているのであろう、よぼよぼの老人であった。髪はすっかり禿げ上がっていて、顔じゅうしわだらけ。めくった袖の下から見えているしみだらけの腕は、すっかり痩せこけていて、今にもポキリと折れてしまいそうだった。
仏壇の間の壁に、まだ若い女性と、眼鏡を掛けた少女の、ふたりの写真が掛かっていた。若い女性は、まだ少しだけあどけなさを残した二十代といった感じで、スナックのような店のカウンターに立っていた。水商売風のピンクのワンピースを着こなしたそこそこの美人で、臼杵梢といい、本間桃佳といい、佐渡には美人が多いな、と鴇松はひそかに考えていた。少女の方は、ライトミントの半袖Tシャツにチェックのスカートを着ており、おしゃれに着飾っている割には、表情がほとんどなく、うつろにこちらを向いていた。長い黒髪が印象的で、落ち着いた雰囲気のある美少女だが、どことなく普通の子供とはかけ離れた、なんというか、大人っぽい印象を受ける。
「失礼な質問ですが、お嬢さんには日本人以外の血が流れてはいませんかね」
少女の写真を指差しながら、鴇松が訊ねた。
「やっぱり分かるっちゃね。澪の父親は、たしか……、ギリシャ人だな。澪には半分、西欧人の血が流れ取るっちゃ」
なるほど、髪の色こそ黒いものの、鼻が高くて、カラーコンタクトをしているかのごとき鼠色の瞳が、澄んだように透き通っている。
「こちらの女性は」
鴇松がカウンターに立つ女性の写真を指差した。
「澪の母親だっちゃ」
茂芳は何かを思い出しているかのように、じっと写真の女性を見つめた。
「母親はどんな方ですか」
「澪の母親は神楽日奈子という名で、わしの妹じゃが、年は十五も違うっちゃな。末っ子で可愛がられて育てられたから、何かとわがままなやつじゃったな。
わしの実家は宮津でな。京都府の日本海側にある町で、昔の丹後の国の中心地だったらしいがの。わしは次男じゃが、兄貴が澪を引き取るのが嫌じゃといいおってなあ。仕方なく、わしらが澪を引き取ったというわけっちゃ。じゃが、こげんなんもねえ島へ来ちまって、澪もえろう寂しかったじゃろがのう」
「すみません、話が飛んでしまってよく分からないのですが、澪さんのご両親は、今どうなさっているのですか」
「日奈子は高校を卒業すると、逃げるように実家を出て、東京へ行ったんちゃ。田舎にあきあきしとって、都会の煌びやかな生活にあこがれとったんじゃろなあ。そこであてどもなく暮らしとるうちに、ひょんなことからギリシャ人と出会って、すんなり結婚をしちまった。相手のギリシャ人の男は、えらいハンサムじゃったそうでな、今でいうイケメンっていうやつっちゃ。日奈子は借金をして小さな夜の店を開き、そこでほそぼそと銭を工面しとったらしいが、旦那のギリシャ人は全く働かんやつだったらしく、せっかく稼いだわずかな銭も、力づくですっかり持っていかれるっちゅう生活だったと、話には聞いとる。
それでも澪が八つになった頃、ためしに店でピアノを弾かせたらしいんじゃが、ジャズピアノってやつっちゃかな。澪は小せえ時から、店に置いてあったピアノを、昼間に、遊びで弾いとったそうじゃて。ところが、そいつが客たちに大受けしらしたらしく、それから澪は、花形スターとして、夜の十時過ぎまで店でピアノを弾かされとったそうじゃな。ほんに哀れなもんだっちゃ」
茂芳はたんすの引き出しから煙草を一本取り出すと、手を震わせながらそれに火を付けた。
「すまんちゃな。医者からは止められとるっちゃが、しゃべっとるうちに、我慢できんくなってしもたでな。家内にはくれぐれも内緒にしておいてくれっちゃ」
煙草を美味しそうにくゆらせながら、茂芳は話を続けた。
「ところがなあ、澪の働きで店が軌道に乗り始めた時に、あれが起こっちまった」
「あれとは……?」
「何気ない口論から始まったらしいっちゃが、日奈子は刺されちまったんじゃ」
「誰に?」
「もちろん、旦那のギリシャ人にちゃ」
「それで、日奈子さんは?」
「即死だったそうじゃ。旦那も間もなく逮捕されたから、途端に、澪は身寄りがなくなってしもたんちゃ」
「それで、あなたが引き取ることになったのですね」
「無理もなかろうが、勝手に家を飛び出していった日奈子など、本家からしてみれば勘当も同然じゃったからのう」
「ところで、父親のギリシャ人は、今はどうしているのですか」
「さあな。刑務所からはもう出とるじゃろが、それからはさっぱり音無しっちゃ」
「そうですか。澪さんはこちらへ来てからは、どんな感じでしたか」
「悪いことはいっさいせん子じゃったな。まあ、あんまり笑いもせんかったがのう。まだ小学生だったのになあ」
「川茂小学校に通われていたのですね」
「そうちゃな。ここから歩いて通っとったわ」
「澪さんが自殺をされた理由に、なにか心当たりはありませんかねえ」
「いや。恥ずかしながら、なんもねえっちゃ。澪はあんまり自分のことを話さんかったし。
なあ、刑事さん。澪は本当にわしらが引き取って、良かったんかのう?」
その後、神楽茂芳と話を続けたが、めぼしい情報は得られなかった。ほどなく茂芳の妻が帰ってきたので、同じように話を振ってみたが、こちらも特に気をひく話はなかった。ただ、自殺を遂げる数日前から、澪がふさぎ込んでいたようだったと、最後に申し訳なさそうに妻がポツリとつぶやいた。