13.離婚訴訟
佐渡島の中で警察組織の中心地といえば、いわずと知れた佐渡警察署である。旧真野町の吉岡という場所にあり、位置的には佐渡島のほぼ中央を制していることになる。烏丸巡査部長にとっては、まさにホームグラウンドとも呼ぶべき詰め所である。
「沢崎で鬼を目撃したカップルが乗っていた車には、ドライブレコーダーが設置されてありまして、目撃された鬼が映っている動画が、手に入りましたよ」
佐渡警察署の刑事課の一室に新潟県警所属の鴇松を招き入れ、烏丸が説明を始めた。
「夜ですから、画質はあまり鮮明ではありません。でも、たしかに、鬼の面をかぶった人物が、手すり付きの歩道の向こう側に立っていますよね」
烏丸から手渡されたタブレットに、ドライブレコーダーに録画された動画が映し出された。沢崎鼻灯台前の真っ暗な県道を、ヘッドライトを灯した車が走行していた。たわいもない二人の会話もついでに録音されている。少しだけ下っているように見える道路の先は、左側へ大きくカーブを切っていた。ガードレールはなかったが、代わりに数個の反射鏡が道路の両側に等間隔で設置されてあるから、まだ距離が十分にある場所からでも、カーブの形状がはっきりと確認できた。カーブ地点の右側の路側帯が、灯台へ向かう小径となっていて、コンクリートで入り口が固められてある。コンクリートには手すりが付いていて、それに両手を伸ばしながら、鬼が上半身を突き出していた。鬼は、朱色の着物のようなものを羽織っており、その下には黒いTシャツのようなものを着ていた。
「これって法被じゃないですかね」
「はっぴ?」
「ええ、お祭りの時に着る特別な着物です。でも、ここに写っているのは無地ですから、おそらく個人所有の品物でしょうけど」
「時刻は八時七分となっていますね」
画面の下枠に、動画が映された時刻が表示されていた。
カップルの証言どおり、ヘッドライトがまぶしかったのか、鬼は一瞬、右手をかざして目を覆ったが、すぐに手をおろすと、それからは、車がカーブを通り過ぎるあいだ、ずっとこちらを睨み付けていた。一方で、鬼の下半身は、手すりの下にぼうぼうと生えた草むらにすっかり隠れてしまい、よく見えなかった。だから身長もはっきりと特定できず、この映像から鬼の身体的な特徴が示されることは、あまり期待が持てなかった。
「本間柊人の車にもドライブレコーダーが付いていれば、事件は一気に解決していたことでしょうにね」
烏丸がこぼした皮肉を、鴇松が軽くなだめる。
「実際のところ、佐渡では、ドライブレコーダーをわざわざ装着する必要もないということなのでしょうね」
「ところで、警部補。これからどちらへ行かれますか」
「ひとり会ってみたい人物がいます。なあに、すぐ近くですよ……」
佐渡島の西側の中心地といえば、佐和田町ということになろう。町の正式名称は『さわた』であるが、地元島民のほとんどが『さわだ』と濁らせて発音をしている。江戸時代には、金や銀の輸出ルートとして交通の重要拠点を担いながら発展を遂げた、かつての河原田城の城下町である。そこに、今や佐渡を代表する企業に発展した『若林酒造』の経営者である、若林航太の自宅があった。
呼び鈴を鳴らすと、三十前後の女性が現れた。若林航太の妻、若林愛梨である。やや小太り気味の体型で、肌はまだ若いのに、付いた脂肪で皮膚が弛み始めている。近寄ると、洋服に染み付いた煙草のにおいがかすかに漂ってきた。
「警察の方ですか……。夫でしたらここへは来ませんよ。忙しいとか、しょうもない言い訳を取り繕って、ずっと会社の社宅で寝泊まりをしています。もう一年は帰っていません」
若林愛梨は、無愛想な口ぶりで、訪ねて来た鴇松と烏丸の二人に応対した。
「ぶしつけですが、お子さんは……?」
「いません」
鴇松の踏み込んだ質問に、愛梨は素っ気なく答えた。
「弁護士の本間柊人さんをご存知ですね」
「ええ、二ツ亀の近くで自殺をしたと聞きましたけど」
「そうですか。あまり新聞でも大きく取り上げられなかった事件でしたけど、よくご存じですね」
鴇松の切り込みに、若林愛梨はフッと含み笑いで返した。
「実はね、離婚訴訟を有利に進めるために、夫の浮気調査を依頼していたのよ。でも、優秀な弁護士と聞いていたけど、お金は取るだけ取っておいて、報告は何もなし。とんだ食わせ者だったわ……」
逆に有能だったからこそ、もっとお金がぶんだくれそうな旦那の方に、交換条件を提示したのであろう。おそらく本間柊人は、若林航太の浮気相手も突き止めていたはずだ。
「ご主人への愛情は、もう残っていませんか」
「ええ、全然……。向こうも同じだと思うわ」
「でしたら相手の弱みなど画策せずとも、お互いに話し合って、円満に離婚をされてはいかがでしょうか」
「どうせだったら、それなりの慰謝料はもらいたいじゃない。若林酒造って、最近は結構繁盛しているらしいのよ」
愛梨は、体裁を取り繕うでもなく、平然と答えた。
「ですが、ご主人の方から一方的に離婚を申し出られたら、あなたの目論見は外れてしまいませんかねえ」
「ふふふっ、刑事さん。それがあり得ないのよ」
愛梨がうれしそうに答えた。
「どういうことですか」
「彼はクリスチャンなの。それも、カトリックのね……」
そういって、愛梨は口元に不敵な笑みを浮かべた。
「夫の両親は、もとは相川町のどこかに住んでいたという話だけど、火事で家が全焼してしまい、やむなく赤泊村に家を新築したと聞いているわ。両親がふたりともキリスト教を信仰していたから、夫も自然にクリスチャンになったそうよ。
佐渡には、少数派だけど、熱心なキリスト教信者がいるわ。江戸時代には、島国だから、隠れキリシタンも住みやすかったのでしょうね。すぐそこの裏山にも『キリシタン塚』って名所があるんだから」
「そのことが離婚と、何か関係があるのですか」鴇松が首を傾げた。
「やだわ、刑事さん。プロテスタントと違って、厳格なカトリックは離婚が禁止されているのよ。夫はね、あたしと離婚はしたいのだけど、宗教上それが許されない、というわけなの。悲しいさだめよね」
そういって、愛梨はカラカラと笑い出した。
「そうですか。いやはや、なんとも、やっかいなものですなあ、宗教というものは……」
「でも、夫にも手段がないわけじゃないのよ。それは、あたしが仏教徒だから、あたしの方から離婚を申し出れば、離婚は成立するというわけ。いくらカトリック信者だって、相手から一方的に離婚を要望されれば、どうしても断り切れなかったという大義名分の下、離婚が可能となるらしいわ。まさに、今の時代ならではの、身勝手な拡大解釈といえるわね。ねえ、面白くない?」
「ということは、ご主人からしてみれば、奥さんの方から離婚を申し出てもらいたい、というわけですね。でも、奥さんにその気がなければ、絶望的な提案ですよね」
「大丈夫よ。あたしに結婚を継続する気持ちなんか、とっくの昔に消え失せちゃったんだから。でも、こうなったら、刑事さん。誰だって、もらえるだけのお金をもらってから円満に別れたい、と考えるのが人情というものじゃないかしら」
そういって、愛梨は口元に意地悪気な笑みを浮かべた。
「ご主人が浮気をされている可能性について、何か心当たりがあるのですか」
「なんとなくよ、刑事さん。さしずめ、女の感ってやつかしら……」
「ほう。女の感ですか」期待に身を乗り出した鴇松であったが、この答えにはさすがに少々の落胆をせざるを得なかった。それを察したのかどうかは分からないが、愛梨はふんと意気込んでから、話を続けた。
「私だって一年前まではそこそこの美人でまかり通っていたのよ。まあ今じゃ、お菓子食べ過ぎの激太りで、見る影もないけどね。
夫は間違いなく浮気をしていると思うわ。だって、別居するまでは典型的な夫婦として、あたしたちはわりとうまくやっていたのよ。
でもね、急にやってきちゃったの、それが……。本当に信じられなかったわ」
「ええと、なにが急にやって来たのですか?」
「ある日を境にね、ベッドに入っても、夫が全然勃たなくなっちゃってさ。おかしいでしょう? それからは何をしてもぜんぜん駄目。そのうちに拒まれるようになっちゃってね。あたしとしては、以前と同じようにふるまっているだけなのにね」
「ええと、申し上げにくいことですが、そのお、ご主人はそのような行為自体をそもそも苦手とされている方なのではないでしょうか」
「そんなことはないわ。それまでは、むしろ性欲は異常過ぎるくらいだったのよ。いつまでも求め続けるから、しまいにはあたしの方から夜の営みを強制終了させていたくらいよ。
でも、あれは本当に突然だった……。あれ以降、夫の大きくなった状態すら見られなくなっちゃったんだから」
いい終えると、若林愛梨は大きくため息をついた。
「ご主人がお変わりになられたきっかけが何だったのかは、心当たりありませんかねえ」
「さあ。少なくともあたし自身に問題があったとは思えないし、だとしたら、ほかに愛人ができたくらいしか、考えようがないじゃない」
「もしかしたら、何か病気をなされたのではありませんか。ご主人は……」
「それっていったい何の病気かしら? あれだけ精力絶倫な男を一瞬にしてインポに変えちゃうすごい病気があるのなら、ぜひ教えてもらいたいわね」
最後は聞くのもはばかられるような下品な言葉で、若林愛梨はしめくくった。
佐渡警察署の刑事課に戻って長椅子で休んでいた鴇松の頭上から、烏丸の大きな声が降ってきた。
「若林のメモに書かれてあった居酒屋とホテルを洗ってみたところ、いずれも確固としたウラが取れたと、たった今、新潟県警より連絡がありました」
どうやら、若林航太から受け通ったメモに関する捜査を、本土の県警へ手配しておいた報告が、その日の夕刻なのに、もう返ってきたようである。
「計良美祢子が死亡したのが十三日の深夜一時頃ということでしたが、その前日の十二日の晩に新潟市内にある『なじらね』という居酒屋で、若林航太は高校時代の同級生五人といっしょに飲み会を開いており、それを裏付ける、参加した同級生や複数の店員たちからの証言が得られました。若林航太は八時前に解散するまで、間違いなく、その店にいたそうです。そして、新潟港を出る佐渡汽船の最終便は、午後七時三十分だそうで、もちろん、この時刻になると、航空便も一切ありません」
「いい換えれば、若林航太は十三日の深夜に佐渡島へ戻ることができなかった、ということですね」
鴇松が落ち着いた声で答えた。
「そうなります」
「その日、若林は新潟市内のホテルに泊まっているはずですが、それについてはどうなっていますか」
鴇松の質問に、烏丸がメモを手にしながら答えた。
「はい、若林がホテルに到着したのが、八時十五分でした。ホテル名は『スノウ・イリュージョン』といいまして、ホテルとは名ばかりで、実際は、ラブホテルです」
「最近の若者は、ラブホテルに一人で泊まることに対して、あまり抵抗感がないみたいです。むしろ、値段が安くて済みますからね、ラブホテルは……」
鴇松が笑いながら返した。
「一人でチェックインをして、翌朝にチェックアウトしたみたいですね。フロントにいたホテルの従業員が、若林の写真を見せたところ、たしかに十二日の八時十五分に写真の人物がチェックインしたことを、はっきりと覚えていました。というのも、ラブホテルなのに一人でやって来て、身分証明だと告げてから、わざわざ免許証を店員へ見せたそうです。免許証の写真と同一人物であることは間違いなかったし、そもそもラブホテルで身分証明書を提示するなんて珍しかったので、ちょっと印象に残ったみたいですね。もっとも、そのときの当の本人はぐでんぐでんの酔っ払いだったそうですが。そして、ホテルの帳簿に書かれてあった署名が、若林からもらったメモに書かれた文字と、筆跡鑑定で一致したそうです」
「つまり、八時十五分に若林が新潟市内のホテルのロビーにいたことも、ウラが取れたということですね。
それで、チェックアウトは?」
「チャックアウトした時刻は、はっきりとは分からないそうです。というのも、このホテルでは、フロントに用意したボックスにルームキーを入れて立ち去れば、フロントとコンタクトを取らずにチェックアウトできるシステムになっておりまして、翌朝の十時になってから、従業員がボックスを調べたところ、若林航太が泊まった部屋のルームキーは、きちんとボックスの中へ入っていたそうです」
「チャックアウトした時刻が、前日の午後八時十五分から、当日の十時までの間のいつなのかは、結局、分からずじまいということですね」
「そうなります。いずれにせよ、若林航太が計良美祢子を殺害することは不可能だという結論になってしまいました」
烏丸ががっくりと肩を落とした。
「まさに偉大なる日本海という結界に保護された完璧なるアリバイと申して、過言ではありませんね……」
逆に、鴇松は涼しげな顔で、窓の外を静かに見つめていた。