12.訊き込み捜査
南無妙法蓮華経と、お題目を唱える僧侶の声が、屋敷の中から外へ漏れてくる。計良美祢子は、数年前に夫から死別され、子供もいなかったから、直系の親族はもう誰も残っていなかった。そこで、真野町に住んでいる美祢子の弟が、急きょ、姉の喪主を務めることとなったのだが、お金がかからなくて済む家族葬で、場所も美祢子の住居で手短に行ってしまおうということに、最終的に決まってしまい、ごくわずかの身内にしか連絡もされなかったため、長年小学校の校長を務めてきた計良美祢子の葬儀なのに、教え子はおろか、教育関係者も誰一人として、参列をしなかったのであった。
十月十六日の葬儀の日は、朝からずっと小雨が降りしきる物寂しい一日だった。遺体が見つかったのが十三日だから、それから三日が経過していることになる。葬儀の日程が遅れた理由は、本間柊人の場合と同じだ。計良美祢子の不審死についても、警察は解剖検査を要求し、遺族の誰もがそれを拒まなかったから、ことはスムーズに運んだ。鴇松と烏丸の二人の刑事は、事件捜査に関わることのない範囲で、解剖結果の報告を親族にするとともに、計良美祢子の人物像を訊き取るために、葬儀に顔を出したのだ。
すでに親族の焼香が終わったタイミングで、鴇松と烏丸は家の中へ入れてもらい、美祢子の遺影が飾ってある仏壇の前に座った。焼香を済ませて、計良美祢子の弟である計良拓也に、鴇松はいくつかの質問をしてみたのだが、姉は誰からも慕われる優しい人物だったと、ありきたりの返事が返ってきただけであった。
「おおまかな感触ですが、計良美祢子は温厚な気質で、他人から恨みを買うような人物ではなかったみたいですね」
軒下で傘を差そうとしていた鴇松に、烏丸がうしろから声を掛けてきた。
「それでも、彼女は殺されてしまった。なぜ……」鴇松が嘆くようにつぶやく。
「検死によれば、右の側頭部に打撲痕があったそうですが、どうやらそれが直接の死因ではないみたいです」烏丸が経緯を説明した。
「では、死因はなんだったのですか?」
「溺死です――」
「溺死?」
「はい、肺の中に海水が入っていました」
「右側頭部の傷ですが、崖から転落した際に付いたものですかね?」鴇松が確認を求めた。
「そうかもしれませんが、鈍器で殴られた可能性もあるそうです」
「鈍器ですか。仮に犯人が右利きだとすると、背後から被害者を殴ったことになりますね。
でも、それが真実だとすれば、犯人はわざわざ崖下まで下りていって、そこで仏さんを殴ったことになってしまいます。やはり、突き落されて生じた傷だと考える方が、自然でしょうね」鴇松はあっさりと結論を決め付けた。「ところで、美祢子の死亡推定時刻はどうなりましたか?」
「鑑識の報告によれば、計良美祢子の死亡推定時刻は、十月十三日の深夜、零時から午前二時のあいだだそうです」烏丸が答えた。
「まさに草木も眠る真夜中ということですか。うーむ……」鴇松が再度考え込んだ。
「翌朝になって、あのおしゃべりな如月青年が遺体を発見したのが、たしか十時でした。それ以前に誰も発見者がいないことになってしまいますが、まあ、観光シーズンでもなく、所詮はさびれた田舎ですからねえ。十時まで遺体が見つからなくたって、ちっとも不思議ではありませんよ」烏丸がみずからを納得させるような口ぶり意見を述べた。
「ましてや、真夜中となると、犯行を直接見た目撃者が現れることなど、とうてい期待できそうもありませんな」鴇松もあきらめたようにうなずいた。
「そういえば、ちょっと気になる目撃情報がありましたよ」
突然思い出したように、烏丸が付け足した。
「ほう、何ですか?」
「それがですね……。事件前日である十二日の午後八時の頃ですが、沢崎鼻灯台前の県道を車で走っていた若い男女のカップルが、灯台近くの道路わきで不審な人物を目撃したそうです」
「不審な人物……?」
「鬼ですよ――。鬼の面をかぶった人物です!」
いつも冷静を装っているのが売りの鴇松だったが、この時ばかりは少なからず狼狽をした表情を隠し切れなかった。
「鬼の面というと、本間柊人の事件で目撃された、あの鬼のことですか?」
「おそらく、そういうことで間違いないでしょう。もっとも、双方の目撃者が見たという鬼の写真があるわけではないので、絶対に同一人物であると断定するまでにはいきませんが、いずれも、目撃者の口から直に『鬼』という言葉が出てきていますしね」烏丸が自身の見解を述べた。
本間柊人の事件は、自殺かもしれないということで、マスコミの関心度も低く、事件直後に鬼の面をかぶった不審者が目撃されたという情報は、世間一般にはいっさい出まわっていなかった。すなわち、沢崎で目撃された鬼が、弾崎で目撃された鬼とは別の人物であり、単なる模倣犯であった可能性は、完全否定されてしまうわけである。
「鬼が目撃された道路ですけど、大きくカーブを描く地点がありまして、カーブの外側にあたる路側帯に、コンクリートをちょいと固めただけの、手すりが付いた簡易歩道が設置されています。それが北から南へ向かう方向に県道を車で走行していますと、ちょうどフロントガラスの真正面に見えるのですよ。午後の八時ですから辺りはすっかり暗くなっていましたけど、ヘッドライトが照らす先に、歩道の手すりに両手を伸ばしながら、きょろきょろと左右を見回している鬼が、こちらへ顔を向けた状態で立っていました。ライトがまぶしかったのか、鬼はとっさに目を覆う素振りを見せましたが、その後は車が通り過ぎるのをじっと睨んでいたそうです。
目撃者ですが、近々結婚をする予定の、ともに二十歳の男女のカップルでして、男の方が運転をしていたそうです。まず助手席に座っていた女が、カーブ先に立っている鬼を見つけて、正面に鬼がいる、と男に告げました。男は、そんなものがこの世にいるはずがないと、笑い飛ばしましたが、近づいてみると、本当に鬼がいたので、大いに肝を冷やしたそうです。現場を通り過ぎてから、少し冷静になってみると、あれは鬼の面をかぶった人間だったのだろうと、二人は気付きました。なにかのイベントかと考えてみましたが、あんな人通りの少ない田舎道で、特に祭りでもなかったみたいだし、ちょっと気になったので、笑われてしまうかもしれないけど、おとといになって小木駐在所へ出向いて、こんなことがあったと事の次第を申し出たそうです。そこで応対したのが、この前の渡辺巡査であったというわけです」
「なるほど、あっぱれです。実に貴重な目撃情報となりそうですね」鴇松が満足げにうなずいた。
「それにしても、犯人は……、あっ、鬼の面をかぶった人物のことですけども、八時から一時まで、あんな辺鄙なところでいったい何をしていたのでしょうかねえ」烏丸が腕組みをした。
「午後八時に男女から目撃された時には、鬼は何かを探している素振りをしていたそうですね」鴇松がさりげなく指摘をした。
「そうですよ。鬼はたしかに何かを探していたようですけど、何か大事なものでも落としたんですかねえ。
それから鬼は、犯行を行うまでの少なくとも四時間以上をそこで滞在していたことになります。私だったら手持ちぶさたで困ってしまいますけどね」烏丸は両手を上へ向けた。
「そういうことになりますかね?」
「さらには、真夜中の一時頃に、犯人は計良美祢子を、まんまと犯行現場まで呼び寄せたことになりますけど、どうやって彼女をその時刻に、あんな寂しいところまで呼び出せたのでしょうか。全く分かりません」烏丸は依然として納得しかねた顔をしている。
「なにか相当に深い弱みを、犯人に握られていたのかもしれませんよ。計良美祢子は……」鴇松が軽くあしらうように答えた。
「それで、鴇松警部補。これからどうされますか?」
「そうですね。ここはやはりド本命から、まずは当たってみますか」
鴇松と烏丸の二人は、再び『若林酒造』の看板の下までやって来た。社長の若林航太は、訪問を告げるとすぐに姿をあらわした。
「計良先生がお亡くなりになった……?
ええ、先生には川茂小学校の時にお世話になっていますよ。葬儀はもう済んでしまったのですか。そうですか、残念だなあ。焼香くらいはあげてやりたかったです。
ところで、先生はどちらでお亡くなりになったのですか?」
社員の目を気にしたのか、話は外でしましょうと持ち掛けた若林であったが、彼がふとこぼした一言に、鴇松の目がきらりと光った。
「ほう、いつではなくて、どちらでとね……。
場所でしたら、まあ、このような場合、病院とかご自宅で亡くなられたと考えるのが、普通ですけどね」
鴇松が放った手裏剣に、若林は少しも動じる様子を見せなかった。
「やだなあ、刑事さん。時間の無駄遣いは止めましょう。新潟県警の刑事さんが僕のところへじきじきにやって来て、恩師の死を告げてくれたのですよ。病死や老衰で亡くなったのではないことくらい、おおよその察しが付きますよ」
「計良美祢子さんの遺体は、沢崎で発見されました。どうやら、崖から突き落されたみたいです」
「沢崎ですか。それはまた……。
すみません、刑事さん。不謹慎ながらも、川茂小学校でいっしょだった柊人と計良先生の二人が立て続けに亡くなったのですからね。いくら僕だって、少しくらいは感傷的になってしまいますよ。
それにしても、よりによって弾崎と沢崎とは……」
若林は余情にひたるように少しのあいだ考え込んでいたが、鴇松が心配そうにのぞき込んだのに気付いて、慌てて付け足した。
「いやね、佐渡に住んでいる人間にとっては、弾崎と沢崎といえば、この世の果てともいうべき両極端、いわば、北極と南極って場所なんですよ。それでちょっとね……。
まあ、本土から来られた方には分からない感覚かもしれませんが」
「ところで、若林さん。去る十月十二日のことですけど、あなたが何をされていたか、少しばかりお伺いしたいのですが……」
鴇松がさっそく本題を持ち掛けた。若林はちらりとあどけない目を鴇松へ向けると、逆に問い返してきた。
「十月十二日ですって……。どうして、刑事さんが僕に?」
「いえね。計良さんが亡くなった日が、十二日でして。ええと、正確に申せば、十二日から十三日にまたがる深夜ということになりますけども、いちおう、本署へ報告をせねばならんのですよ」もはやありきたりとなった決まり文句を、ここぞとばかりに、鴇松は平然と唱えた。
「でも、刑事さん。柊人の不審死と、今回の事件との関連性が、何かあるとでもいうのですか?」
「それが……、どちらの事件にも鬼が出没しておりましてね」鴇松が答えた。
「鬼……、ですか?」若林が首を傾げた。
「ええ。正しくは、鬼の面をかぶった謎の人物と申したほうがよろしいですかな。おそらく、事件を引き起こしている犯人と考えるのが自然ですね」
「なるほど。二つの事件が鬼でつながったわけですね」
「そういうことですな」
「それで、この僕こそが、その残虐非道なる真犯人だと思われているわけだ。はははっ、刑事さん。隠さずとも良いですよ。僕は、柊人と計良先生の二人にゆかりのある人物ですし、柊人とは、亡くなる直前にこっそりと会って、話も交わしていましたしね。
ああ、そういえば、計良先生とのつながりもありましたよ。ちょっと待っていてください。こんな些細なことで、僕への疑いが増長されてもらっては困りますからね」
そう告げると、若林航太は事務所へ走っていき、すぐに戻ってきた。手には一枚の紙を携えている。
「刑事さん。実はおとといのことですが、計良先生から手紙が来ましてね。最近は忙しかったから、ちょっとだけ目を通して、あまり重要な手紙でもなさそうなので、机の引き出しにポイ投げしておいたのですが、こうして読んでみると、ちょっと気になる文章になっていますね」
若林から受け取った手紙に、鴇松と烏丸は目を通した。なるほど、たしかに気味が悪い内容の手紙であった。
「それで、計良先生は、あなたのもとへ訪問はされたのですか?」
「いえ、別に……。なにしろ、この手紙だって届いたばかりですからね。僕が、文章で指摘されている『良い子』と『悪い子』のどちらに分類されているのかは知りませんが、先生は、これから僕を訪問するつもりだったかもしれませんし、少なくとも、『良い子』たち全員を訪問することはできなかったのではないでしょうか」
「手紙に書かれている十七年前の、時計塔で起こった事件とは、いったい何のことだか分かりませんかねえ?」
「それは……」
若林は一瞬口ごもった。
「すみません。十七年前の事件というのは、おそらく、音楽室で自殺をした女の子のことだと思います」
「音楽室で女の子が自殺をね……。その少女のお名前は分かりませんか?」
「彼女は川茂小学校の卒業生で、僕より一つ年上でしたから、自殺をした時は中学一年生でした。名前はなんていったかなあ……。
僕が四年生の時に、たしか東京から転校をしてきたんだけど、髪が長くて、ピアノが上手な、いかにもお金持ちのお嬢さんといった雰囲気の女の子でしたね。ああ、思い出した。
神楽澪――って名前でしたよ」
若林は少し考え込んでから答えた。
「卒業を済ませた女の子が、どうしてわざわざ川茂小学校までやって来て、自殺をしたんでしょうかねえ」
鴇松が訊ねたけど、若林はゆっくりと首を振った。
「さあ、分かりません。そう考えると、たしかに不思議ですよね。自殺をするだけなら、場所を川小に選ぶ必要もないですしね」
「その子は誰かから個人的に恨まれたりはしていませんでしたかねえ」
「さあね。彼女の同級生に小杉悠二という男子がいましたけど、僕と柊人の一つ上の先輩になりますね、小杉君も含めて僕たちは、みんな田舎者ですから、東京から転校してきた可憐な少女に、恥ずかしくて声をかけることすら、ままなりませんでしたよ。まあ、柊人がまれに声を掛けたり、あとは一つ下の臼杵梢が、ときどき彼女の話し相手になっていたように思います。女の子同士だったし、いくぶん話しやすかったこともあるでしょうね」
「すると、小学校時には誰からも恨まれてはいない、絶世の美少女は、卒業した小学校へ舞い戻って来て、音楽室で謎めいた自殺を遂げたわけですね。
実に興味深い……。ああ、すみません。今の発言は実に不謹慎なものでした。どうか、お忘れください」
鴇松が苦笑いをした。「まあ、そういう事情で、計良美祢子先生がお亡くなりになった十月十二日から十三日にかけての深夜ですけども、ずばりお伺いをいたします。
若林航太さん、その時刻にあなたにアリバイがあるというのなら、ぜひともお聞かせ願いたい」
鴇松の鋭い視線が、若林の身体を貫く。しかし、それにも動じず、若林は静かに口を動かした。
「十月十二日の夜ですね。さあて、何をしていたかな?」
若林はポケットから手帳を取り出して、しばらくながめていたが、すぐに高笑いを始めた。
「あっはっは……。いや、すみません。刑事さん。あんまりおかしかったものだから、つい大きな声を上げてしまいました。
十月十二日の夜ですけどね、あの日は土曜日でした。僕はかつて新潟の県立高校へ通っていましたけど、その時の友人たちと集まって、新潟市内の万代橋近くの繁華街で、いっしょに飲み会をしていましたよ。
飲み会は八時前には終わりましたが、もうその時刻には佐渡へ行く船が残っていなくてね。その日のうちに佐渡へ帰るすべを失った僕は、やむなく新潟市のホテルで泊まったというわけです。
どうです、刑事さん……。最有力容疑者とされている僕ですが、こいつはまさに、青天の霹靂、いや、鉄壁のアリバイ、と申せはしませんかねえ」
そういって、若林航太は鼻歌を歌いながら、新潟市のとある居酒屋チェーン店と、宿泊したホテルの名前を、右手に持った万年筆でさらさらと手帳に書き記し、そのままビリっと破いて、鴇松へ手渡した。