10.沢崎鼻灯台
十月十三日の朝十一時きっかりに、新潟県警捜査一課のデスクに座って、のんびりとくつろいでいた鴇松のスマホの呼び出し音が、不意を突いて鳴り出した。レッド・ツェッペリンの『天国への階段』に設定している呼び出し音が、突如、流れ出すのだから、室内にいる全職員の冷めた視線を、鴇松は一斉に浴びる羽目となってしまった。電話を掛けてきた主は、烏丸巡査部長であった。
「もしもし、鴇松警部補ですか? 佐渡警察の烏丸巡査部長であります」
「ああ、烏丸巡査部長。おはようございます」動揺していた鴇松は、突発的にナンセンスな言葉を返した。
「ところで、警部補は、今、どちらにお見えですか?」
「ああ。新潟県警の捜査一課室におりますよ。何かありましたかね」
反射的に鴇松は、壁に掛かったカレンダーに目をやった。十月十三日の今日は、日曜日である。
「県警にいらっしゃるのですね。なら、好都合です。
実は、さきほど外部から通報がありまして。例の本間柊人の不審死と関連するかと思われる、あらたなる事件が勃発したみたいなのです」
「殺人ですか?」
「おそらく、そうでしょう。発見者の話によれば、断崖絶壁から蹴落とされた遺体が、見つかったそうです」
「場所はどこですか?」
「沢崎です。沢崎海岸――」
「さわさき?」
「ええ。佐渡島の最南端にある岬です。
沢崎鼻という名前の灯台があって、付近は荒波に浸食された断崖絶壁が続く、佐渡でも屈指の景勝地ですよ」
「今度は、南端の岬ですか……」鴇松は妙な胸騒ぎを覚えた。
「ちょうど今、私も現場へ向かうパトカーの中から電話を掛けておりまして、警部補が県警にいらっしゃるのなら、タブレットも近くにありますよね。さっそくZOOMを立ち上げてください!」
「ZOOM……、ですか?」鴇松はギクッとした。
ZOOMとは、回線を利用して、各自が手にするタブレット端末を通じて、互いの映像や音声を交換し合いながら、会話のやり取りができる、インターネット上のサービスである。
しかし、その設定方法は、かつて一度は教えてもらったものの、そんなことはすでに忘却の彼方となってしまい、誰かに設定を手助けしてもらわなければ、鴇松はZOOMを使うことができなかったのだ。
「はい。これから発見者に会って、聞き取り聴取を行います。警部補も色々と直接訊いてみたいでしょう」
「でも私は、ドが付くほどの機械音痴でして……」
「そんなの、近くにいる若手の手を借りて、どうにか立ち上げさせてください。いいですか。もうあと十五分で現場へ到着しますからね。急いでくださいよ」
さすがに、昭和生まれの機械アレルギーを告白したところで、平成生まれに理解できようはずもない。幸いにも、署内にいた若手たちの協力により、約束の十五分後には、晴れて、鴇松はZOOMを通して、現場での事情聴取にリアルタイムで参加することができたのであった。
鴇松のタブレット端末に、沢崎海岸でパトカーから降りて、灯台へ向かってひたすら走っている様子の映像が映し出された。かすかに「はあはあ」と、烏丸が発する息切れ音が漏れてくる。
「遺体のポケットから出てきた免許証から、遺体の身元は計良美祢子という人物だと分かりました。なんでも、本間柊人も在籍していた川茂小学校で、かつて、校長を務めていた女性らしいです」
川茂小学校……。今回の事件でなんとなく、よく出てくる言葉だな、と鴇松は思った。
「遺体の第一発見者は『ヒイラギ』とみずからを名乗っておりまして、灯台の下で待っていると、電話で告げたそうです。ああ、あそこにいるのが、おそらくそうでしょう」
烏丸の声とともに、画面が大きく傾いて、遠くに見える灯台の映像が、ZOOMに映し出された。
灯台の下に、一人の男の姿があった。こいつが発見者だろうか? 烏丸の姿に気付いたのか、男の方から右手を振り始めた。
「あなたが遺体の発見者ですか?」
ゼイゼイと息を切らしながら訊ねる烏丸の声が、ZOOMを通して、聞こえてくる。
「ああ、そうなっちゃったみたいだね。まいったよ。これからドライブで佐渡を一周しようと思っていた矢先だったからねえ」
妙に馴れ馴れしい語り口だった。画面にちらりと映った顔から推定するに、まだ学生のようだが、これといった特徴はないものの、いかにも現代風といった雰囲気を醸し出している青年である。
「それでは、ヒイラギさんが遺体を発見された時刻と状況を、詳しく説明してください」烏丸が青年に向かって、さっそく聴取を開始したようだ。
「えっ、ヒイラギって誰さ?」
「ええと、あなたのお名前がヒイラギさんだと、我々は伺っておりますが……」
「違うよ。ヒイラギじゃなくて、キサラギ――。俺は如月恭助っていうんだ。
たぶん、オペレーターが訊き損ねたんだろうけど、くれぐれも間違えないようにしてよね」
すでに会話の主導権を取ったかのような、得意げな第一発見者の声が、ZOOMを通して聞こえてくる。
「如月さんでしたか。これは申し訳ありませんでした。それでは、遺体の発見時刻と、状況説明を……」
「ちょっと待ってよ、刑事さん。タブレットの向こうにいるのは、いったい誰なのさ?」
青年が、鴇松の映像に気付いたみたいだ。
「ああ、これは、紹介が遅れました。新潟県警捜査一課の鴇松警部補です。少し前に起こりましたある事件を担当していらして、今回の出来事が、その事件と関連している可能性があるのです。
しかしながら、鴇松警部補は事情がありまして、今はこの場に立ち合うことができません。やむなく、ZOOMを通して事情聴取に参加されるので、どうぞよろしくお願いします」
烏丸がたどたどしく鴇松を紹介した。
「まあ、ともかく、そういう大事なことはさあ、事の前にはっきり説明してもらわないとね。
でも、事情は分かったよ。そりゃあ、こんなさびれた絶海の孤島で事件が起こったところで、県警のお偉いさんが、そうそう簡単に、やって来られるはずもないもんね。
ところでさ、刑事さんの話だと、今回のばあさん転落死の背後に、何かの事件がからんでいるってことだけど、それってどんな事件なのさ?」
「それは……、民間の方々に軽々にお話しするわけには……」
烏丸の口ごもる声が、ZOOMを通して聞こえてきた。
「ちえっ、地方公務員法第三十四条、警察官の守秘義務ってやつだな。まあ、いいや。
ええと、俺がばあさんの遺体を発見したのは、十時十五分頃だったな。それからすぐに通報したから、その時刻を調べてもらえば、はっきりするけど……」
「はい、たしかに佐渡警察署に通報が入った時刻は、十時十七分でした」烏丸が即座に答えた。
「そうだよね。大事なことだから大丈夫とは思うけど、くれぐれも間違いないよね? 刑事さん」如月青年がしつこく念を押した。
「ええ、間違いありません」
「なら、よろしい……。
その時の俺は、八時半にフェリーで両津へ着いてから、レンタカーで佐渡を周回しようという壮大な計画を立てていたんだよ。ああ、なんで新潟にいたのかってことだったら、新潟大学で昨日まで数学の研究会があってね。そんでもって、今朝の第一便で佐渡までやって来たってわけ。本当はジェットフォイルに乗った方が早いし、楽ちんなんだけど、それだと両津へ到着する時刻が、早いので九時二分だったんだよ。だから、佐渡にいられる三十分という時間を惜しんで、泣く泣く俺はフェリーを選択したってわけ。
ところでさ、佐渡を制覇する……、いや、ちょっと違うな。佐渡を周回するっていったら、その定義はいったいなんだろうね。こいつは俺独自の考えだけど、佐渡島の東西南北の四端を担う、弾崎灯台、台ヶ鼻灯台、沢崎鼻灯台、それに姫崎灯台、のすべてを踏破することが、佐渡を一周回ったって証しになると思うのさ。そこでその第一弾として、沢崎鼻灯台にやってきたってわけ。だけどさあ、よりによって、そこで殺人事件と出くわすなんてねえ。あはは、俺ってやっぱ持っているよねえ」
如月と名乗った青年は、聞かれてもいないことを、次から次へとまくし立てた。
「ほう、学生さんでしたか。どちらから見えたので?」
とりとめのない如月青年の話を、一刻も早く止めなければと、ZOOMを通して、鴇松が質問をはさみ込んだ。
「ごめん。あんた、誰だったっけ?」
「ええと、新潟県警捜査一課の鴇松です」
「ああ、そうそう。じゃあさ、トッキーって呼んでもいいかな?」
「えっ……。はははっ。どうぞご自由に」見知らぬ若者の無礼な暴言に対して、鴇松はじっと堪えた。
「俺は名古屋大学の院生でね。数学を専攻しているんだ。物理とどっちに進むか、かなり迷ったんだけど、まあ、運命の決断ってやつかな」
「ああ、そうですか。愛知県の方ですね。実は、私も五年前までは愛知県警に勤めておりまして、いやあ、懐かしいですなあ」思わず、鴇松もそれた話題に付き合わされていた。
「へえ、トッキーは愛知県警にいたんだ。だったらさ、親父のことを知っていないかな? 如月惣次郎っていうんだけど」
「如月惣次郎警部……? もしかして、あなたは、如月惣次郎警部のご子息であらせられるのですか?」
「いかにも……」
「そうでしたか。如月警部には、愛知県警にいる時に本当にお世話になりまして……」
「ああ、そうだったんだ。やれやれ、親父もたいしたもんだな」
「それで、ご子息さん。現場の様子をもう少し詳しくご説明ください」今度は烏丸が焦れて、横からうながした。
「ああ、そうだったね。すっかりトッキーと話がはずんじゃってさ。
俺が灯台の駐車場に車を停めたのが、逆算して十時過ぎ。一〇分ほど散策をしてから、崖の下を眺めると、偶然にも、ばあさんの遺体を発見しちゃったってわけ。現場はこっちだよ」
如月恭助は、烏丸巡査部長たちを引き連れて、現場へ誘導した。現場は、沢崎鼻灯台から五分ほど北へ進んだところにある高台だった。防護柵もなく、いきなり地面が途絶えて、スパッと切り立った断崖絶壁となっており、その向こうには雄大な日本海が広がっている。崖の先端まで進んで下を見下ろすと、あまりの高さに思わず足がすくんだ。崖下の浅瀬には、溶岩が冷え固まった硬い赤岩の岩盤が広がっていて、もしも落ちて頭をぶつけてしまえば、ひとたまりもなさそうだ。
そして、その岩盤の上に、顔を横へ向けたままうつ伏せ状態で横たわる、老婦人の遺体があった。遺体のそばには警官が一人立っていて、崖の上の一向に気付いて、手を振っている。
「彼、小木駐在所の渡辺巡査だってさ」
如月恭助が、崖下にいる警官を指差す。「潮がだいぶ満ちて来たみたいだね。俺が遺体を見つけた時には、岩盤はまだ乾いていたんだけどなあ……」と、さらに恭助は付け足した。
あらためてよく見ると、下にいる渡辺巡査は長靴を履いていて、巡査の長靴の足の甲の高さくらいまで、海水面が上昇している。
「おーい、そっちまで行くには、どこから下りればいい?」烏丸が渡辺巡査に大声で呼びかけると、
「そちらでお待ちください。今、上がっていきますから」と、崖の下の若い巡査が、烏丸に返答した。
巡査が上がって来るまでにたっぷり五分くらいはかかりそうだと、烏丸が思ったちょうどその時、背後から如月青年の声がする。
「おーい、刑事さん。ちょっとこっちへ来てよ」
烏丸がいる断崖からちょっとわきにそれた地面に、何か棒のようなものが、突き刺さるように立っていた。
「ほら、いかにも人為的に放置されたと思しきアイテムだよ」
烏丸がそばに寄ってのぞき込むと、それはリコーダーであった。地面に細長い穴が開けられており、そこに先端部が四分の一ほど差し込まれて、リコーダーは斜めになってそそり立っていた。
「こいつは……」思わず烏丸巡査部長が絶句した。
「小学校で使うような、ごく普通のアルトリコーダーだね」恭助が代わって説明した。「ものは新品のようだけど……。実は、刑事さんが来る前に俺、興味本位でこのリコーダーを地面から抜いて、調べてみちゃってさ。ああ、もちろん触る時にはハンカチで覆って、指紋は付けないようにしたよ。それから、あった状態そのままに、地面へ戻しておいたんだ。これでも一応、警部の息子だからね。もっとも、今回の犯人が、指紋が期待できるほどお粗末な野郎だとは、とうてい思えないけどさ」
ZOOMの向こうで映像を見ていた鴇松が、うつむいて頭を抱え込んだ。それに気付く由もない如月恭助は、青天の大海原を見下ろしながら、ボソッと独り言をつぶやいた。
「犯行現場のとなりに、わざと目立つよう地面へ埋められたアルトリコーダーか……。まさに、これ見よがしってやつだね」
如月恭助はその後、少々の尋問を受けてから、十二時頃に解放された。
「ばいばーい、刑事さん。事件が無事解決するよう祈っているよ。それから、新潟のトッキーにもよろぴくね」
「捜査にご協力ありがとうございました。良い佐渡の旅をお楽しみください」
呑気にこちらへ向かって手を振る恭助を見送りながら、会話のバズーカ攻撃からようやく解放された烏丸巡査部長は、ふーっと大きくため息を吐いた。