9.手紙
それが送られて来たのは、山の紅葉がまだ色付いてはいないものの、夏の暑さは全く感じられなくなった、十月十四日のことであった。
この日は月曜日だったが、体育の日の祝日となっていて、郵便局の仕事は休みであった。梢が庭で洗濯物を干していると、郵便配達員が石段を下りてきた。
「采女さん、郵便です」梢に気付いた若い配達員が、さっそく声をかけてきた。
「あら、ご苦労さま」
梢が振り向いて微笑むと、途端に配達員は緊張をした表情になって、郵便物を梢に手渡すと、ぎこちなく頭を一回下げてから、照れ隠しをするように、足早にまた石段をかけ上っていった。
受け取った郵便物の束の中に、梢宛ての封書が一通あった。差出人は、計良美祢子となっている。ダイヤ貼りされた西洋風の黒い封筒で、ちょっとおしゃれな感じがした。白地に宛名が活字で印字されたシールが、おもての面に貼ってある。梢は家の中へ入ると、たんすの引き出しからハサミを取り出して、封筒の端を丁寧に切り取った。中には、便箋が二通入っていた。
近くに里子がいないことを確認して、梢は便箋に目を通す。便箋に記された文字も、宛名と同じように、手書きではなく、ワードプロセッサで作成された活字体の印字である。
臼杵梢さん。覚えていらっしゃるかしら……。川茂小学校が閉校する時に校長を務めていた、計良美祢子です。
積もる話はさておき、先日、私は懐かしい川小の跡地を訪れてきました。どうして急にそんなことをしたのかって? さあ、どうしてでしょう。もしかしたら、神様に導かれたのかもしれませんね。
真向かいにあったAコープはもうなくなっていましたけど、川茂小学校と書かれた正門のあのかわいらしい表札は、いまだ健在でした。正門を通り抜けると、もう誰にも乗ってもらえなくなったブランコとすべり台が、寂しげにグランドでたたずんでいます。
それでも、西洋瓦が美しく敷き詰められた、赤い屋根のモダンな校舎は、本当に壮観です。いつまでも見ていたくなってしまいますね。そして、縦長のガラス窓がなんとなく教会みたいな雰囲気を漂わせる、学校のシンボルでもあった時計塔。そうそう、まだありましたよ。波のようにどこまでも滑らかな曲線を描く個性的なベランダ。創立記念碑の大きな赤岩。そういえば、こっそりと岩によじ登って、叱られた子がいたかしら? それから、秋になると毎年、きれいな紅色を見せてくれた楓の老木も、まだまだ元気でしたね。
たとえ子供たちが去っても、いつまでも静かに待ち続けているなごりの備品たちが、そこにはありました。その瞬間、懐かしかった昔の思い出が、私の脳裏をすーっと通り過ぎていったのです。
思えば、川小の子供たちは、みんな良い子たちばかりでした。
でもね、川小の思い出って、楽しいものばかりだったかしら? そう。決して、楽しいものばかりではなかったわね。
みんなは、覚えているかしら。川小が廃校を間近に控えた、平成十四年の六月十日――。校舎の一番高いところにあった時計塔の音楽室で起こった、あの忌まわしい出来事を……。
あの日は月曜日だったわね。雨が斜めに強く降りしきっていて、窓ガラスに当たってパタパタと音をたてていたのよ。そして、みんなが朝、下川茂のバス停でバスから降りてくる姿を、私は玄関口に立ちながら、風で傘が飛ばされないかしらと、はらはらしながら見守っていたのを覚えています。
やがて、始業の鐘が鳴り、私は担任をしていた低学年クラスの教壇に立って、朝の連絡をしていました。すると、突然のことでした。高学年クラスを担任していた斗馬先生が、蒼白な顔をして飛び込んで来たのです。その時の光景は、今でも私ははっきりと覚えています。
それはとても悲しい出来事でした。でも同時に、どうしようもないことでもあったの。そうよ。当時の私は、そう考えることで、無理やりに自分を納得させていました。あってはならないことだったけれど、誰もそれを止められるはずがなかった……。
でも、本当にそうだったのかしら……?
私は、あの日以来行ったことがなかった時計塔のあの部屋へ行ってみました。みんなも知っているとおり、あの出来事依頼、あの部屋、――音楽室のことですよ、は立ち入り禁止になってしまいましたよね。だから、本音をいうと、とっても怖かったの。でも、あれからもう十七年も経っていますしね。
あの部屋は誰からも掃除をされないから、ほこりも溜まり積もっていました。でも、大きなグランドピアノは、あれから誰も弾く人はいなかったでしょうに、あの時のまま、そこに置いてありました。カーテンを開けると、暖かな日差しが入って来て、部屋はもう一度生命を取り戻したかのようでした。
そして、私はそこで思いも掛けなかったものを見つけたのです。最初見た時は、それがなにを意味するのかは分からなかったけれど、今でははっきりとそれが持つ重大な意味を認識しています。そして、十七年前に起こった出来事の真実を、私ははっきりと思い浮かべることができるのです。
そうなの。時計塔で起こったあの出来事は、実は、防ぐことができたのよ!
そして、みんなは良い子たちばかりではなかった……。
みんなの中に、邪悪な心を持った悪い子が、まるで健康な身体をむしばむ癌細胞のように、こっそりと紛れ込んでいたのです。
教員という聖職者の立場に立つ私ですが、正直に告白をいたしましょう。私はその子をどうしても許すことができません。悪い子には罪をつぐなってもらわなければなりません。良い子のみんなもそう思うでしょう?
そこで私は行動を起こすことにしました。だけど、十七年前に起こった悪事をあばき出すことなんて、そんなに簡単にできることじゃないのかもしれません。それでも、私は絶対にあきらめません。悪い子の逃げる場所は、いつかどこにもなくなることでしょう。良い子のみんなも、ぜひ私に協力をしてくださいね。
私はこれから良い子のみんなのひとり一人に会いに行きます。そこで、昔のことをいろいろ語り合ってみたいのです。みんなのちょっとした記憶が、悪い子を必ず奈落の底へ追い詰めていくことでしょう。
私は考えた末に、この手紙を、当時、川小にいたみんなに送ることにしました。もちろん、その中には悪い子も混じっています。
だけど、私が訪問をさせてもらうのは、良い子たちばかりよ。だから、私が訪れた時には、良い子のみんなは、きっと私をやさしく受け入れてくれるわね。みんなに会えることを、とても楽しみにしています。
金木犀の香りただよう小さな庭の縁側にて――。
川茂小学校元学校長、 計良美祢子。
手紙を読み終えた梢は、背筋になにか冷たいものが走るのを感じた。なんだろう、この異様な感覚は……。とにかく、里子には見せない方がいいだろう。そう判断した梢は、美祢子からの手紙を、そっと箪笥の引き出しへしまうことにした。
ふと消印に目を向けると、手紙が差し出された日付が十月十二日になっていた。