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あの音を、もう一度。  作者: 真崎将生
春の音
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第7話 ふたりのはじまり

 





 翌朝は気持ち悪いくらいによく晴れていた。朝食を終え、想とふたり母に見送られて玄関を出る。想は新品の黒いランドセルを背負って、手を振る母に小さく頭を下げた。


「学校、こっち」

「あ……、はい」


 きょろきょろと辺りを見回す想を顎で促すと、遠慮がちに後をついてくる。

 胸のあたりにとりつけた名札には『大内想(おおうちそう)』と書いてある。今しがたダイニングで顔を合わせた父は、今年中には想を水本家の籍に入れる予定だと話した。

 本来なら今月中には籍を入れるつもりだったみたいだけど、想が複雑な顔をしたんだそうだ。たかが名前、だとは思うけれど、想にとっては生まれてから十年、ずっと『大内想』という名前で生きてきたのだ。それが突然変わってしまうというのは、心の整理が追いつかないんだということは理解できる。


「道、単純だからすぐ覚えられるよ、多分」

「はい」


 俺の革靴と、想のスニーカーの靴底がたてる足音だけが響く。この辺りは学校に通うような歳の子どもがあまり住んでいないらしく、早朝はいつも静かだ。

 俺たちふたりの足音が近づくと、小さな鳥が羽音をたてて慌てた様子で飛んでいく。

 ひとつめの角、ふたつめの角、と説明しながら進んで、学校近くの土手沿いの道まで出た。新緑の葉桜が並び、斜面を覆い尽くす菜の花の黄色と一緒に、まだ少し肌寒い風に揺れる。


「こないだまで桜咲いてたんだけどな。ここ、すげえ綺麗なんだぞ」

「見てみたかったです。綺麗なんでしょうね」


 葉桜を見上げて想が目を細める。想の故郷にも、桜はあったんだろうか。


「雨さえ降らなきゃまだ残ってたんだろうけど。まぁ、来年また見れるだろ」

「花散らしの雨」

「え?」


 不意に想がぽつりと口にした単語の意味が理解できなくて、聞き返す。想は俺を見上げ、真っ直ぐに目を見る。名札が朝のやわらかい光に照らされてきらきらと光った。


「花散らしの雨って言うんです。桜がちょうど満開になった頃に降る雨」

「お前、よく知ってるな、そんなこと」

「母が……、ええと、僕の母が、言ってたんです」


 そう言って想は困ったように眉を下げる。そうか、想にとっては、俺の母さんは母さんじゃない。それは、そうだ。


「ごめんなさい」

「謝ることねえよ。謝るなよ。いいんだよ、そんなことは……それより、想」

「はい、お兄ちゃん」


 昨日の夕食の席で言いそびれたことを、昨日思い浮かべたままに口に出してみる。


「あのさ、お兄ちゃん、っての、やめない?」


 言った途端、想はほんの少し目を見開いて、俺の目を見た。強くて真っ直ぐな、視線。そうだ、思い出した。この目。


「でも」

「陸斗でいいよ」


 あの日あの公園で。そうだ、俺はこいつを見たんだ。

 小さな雨の降るあの公園で、想は歌っていたんだ。まるでなにかの儀式のように。


「えっ……」

「いいから!  はい、呼んでみ?  りーくーと! 」


 復唱を促して、はい、と手を差し出すと、戸惑うように俺の手と顔を見比べて眉を下げる。口元がもぞもぞと動いて、ゆっくりと「い」のかたちになる。


「り、りく、と」

「もっかい!」


 初めて俺の名前を呼んだ想はなんだかぎこちなくて、想が初めて呼んだ俺の名前はなんだかくすぐったかった。あの歌を歌ったときと同じように、優しい声で。


「り、陸斗」

「うし、それでいこ!」


 こんどはちゃんと呼べたから、嬉しくなって思わず頭を撫でた。やわらかな髪が、てのひらから指の間を流れる。想は驚いたように目を丸くして、ぽかんと口を開けた。そのままの顔で固まったから、なにやってんの、行くよ、と声をかける。想は慌てて口を一文字に結んで大股で歩き出した。


「そんな急ぐとコケるぞ」

「コケません」


 大股のままどかどかと先を歩き出した想の背中に、思わず笑ってしまう。想は不本意だと言わんばかりの声でそう言い捨てて先を急ぐ。


「可愛くねぇなお前」


 可愛くない、と言いながら可愛いと思ってしまうのは、きっとこいつが図らずも俺の弟という立場だからで、薄手のシャツを着た細い肩と、ハーフパンツから覗く頼りないくらいに細い足が妙に擁護欲をかきたてる気がするからで、それでもって俺の中の父性本能のようなものが見え隠れしているからであって。

 自分に訳のわからない言い訳をしながら、想の後ろを歩く。想は時々俺を振り返り、時々蹴躓きそうになりながら頼りなく歩く。


「あの、陸斗」

「なに」


 不意に立ち止まった想にぶつかりそうになって、よろける。何とか体勢を整えて振り返った想を見ると、腑に落ちない、と顔に書いてあった。なにがだろう。


「僕のこと、嫌いじゃないんですか」

「……は? なんで?」


 想はその顔のまま、少し俯く。おでこが見えるくらい短い前髪が、木の葉を揺らす風の音と同じリズムで揺れる。

 少し逡巡したあと想は、自分のシャツの襟元をぎゅっと掴んで、口を開いた。


「だって……、お父さんの、あ、愛人の子どもだし」


 愛人。想の口からそんな単語が出てきたことに違和感しかなくて、頭の中で変換に時間がかかった。誰かにそう言われたのか。


「愛人って……、まぁそーゆー事情はさ、別に想にも俺にも、言っちゃあなんだけど関係ねぇし」


 誰がどこでどんなふうに想を産み、育てたとしても想は想で、俺は俺でしかない。そして俺たちは間違いなく、兄弟で。


「関係、ない」

「そう。あ、でもあれだぞ? 想のお母さんは想のお母さんだし、俺にとっても母さんは母さんだし。なんかもう俺、考えるの疲れたから、とりあえず俺らは兄弟なんだし、いいんじゃね?」


 葉桜を見上げながら一息にそう言って想を見下ろすと、想はまた困ったように眉を下げ、眉間にシワをよせた。


「……ええと、つまり、気にするなって事ですか?」

「そゆこと。俺、脳みそ使うの得意じゃないの。バカだし。お前頭良さそうだから考えちゃうんだろうけど、俺らは兄弟。もう、それで良くねぇ?」


 こてん、と首を傾げた想にそう言って笑いかけると、想に一瞬視線をうろうろさせてから、二度、頷いた。


「良く……、良い、いいと、思います」

「な? そゆことで改めて、よろしくな? 想」


 こんどは俺のほうから、手を差し出した。想は躊躇いがちに俺の手を取り、細い指に少しだけ力を込めた。


「ついでにあれだな、敬語もナシね!」

「ええっ」


 土手沿いの道はそのまま行けば中学の裏門にぶつかる。そこを左に折れてすこし行けば、小学校の正門が見えてくるはずだ。

 想の小学校まで送るつもりだったけど、校舎に取り付けられた時計を見上げたら、のんびりもしていられない時間で。


「じゃあ俺こっちだから! お前の学校、そっちね! わかる?」

「わかりま……、わかる!」


 自分の学校と想の学校を交互に指差すと、想はぶんぶんと首を縦に振る。にやっ、と笑って見せると、想も笑った。まだ、ぎこちないけれど。


「おっけ! じゃね!」

「あの……、陸斗!」


 正門を潜って手を振ると、想は門と道路を隔てる線を律儀に守って立ち止まる。その様子が微笑ましくて思わず笑ってしまいそうになった。


「なにー?」

「……また、またあとでね!」


 想は躊躇うようにそう言って、照れたように笑った。そうして片手をあげ手を振って、ランドセルを揺らして駆けていく。


「おー、また後でな!」


 長いフェンス越しにそう返したけど、想は振り返らず走る。あの雨の公園を走って出ていった背中と重なる。けれど今は少し違う。想があのときなにを思っていたのかはわからないけど、なにかが違うんだということは、わかる。

 そして、俺のなかの何かが少しずつ変わっていくのも感じていた。それが何なのかはまだ、見えないけれど。





 

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