第45話 お父さんのせい
俺たちの座ったすぐ側の砂利道に、大きな水たまりができていた。流れて行く雲を映して、雨上がりの湿った風にゆらゆらと揺れる。
雨の音が止んだかわりに、川がさらさらと流れて行く音が辺りを包んだ。
「雨、止んじゃったね」
想は名残惜しそうに呟いて、空を見上げる。その横顔が少しだけ大人びて見えた。
これから別々の時間を過ごして、そのなかで想はどんどん大人になって行く。背も伸びるだろうし、肩幅だって広くなる。それはたぶん、俺も同じことで。そんな当たり前のことが、今はすごく寂しい。
「これから、どうする?」
想はそう言って俺を見上げる。擦りむいた頬の絆創膏の端がすこし、捲れていた。きっと泣いた時に擦ってしまったせいだろう。そこを指でつついたら、想は片目を瞑ってくすぐったそうに笑った。
「どうするかな。自転車も使い物にならねえし、金もねえし。ここで野宿か?」
「ここで? うーん、僕野宿ってしたことないからなあ。なんか面白そうだけど、虫に刺されそうだね。どこか泊まれそうな場所探したほうがいいかも」
言いながら想像して痒くなったのか、想は背中をぽりぽりと掻いた。
「ごめんな、想」
「え、なにが」
「出てくなんて言って。俺、勝手だったよな。お前の気持ちも知らないで」
想は俺が想の気持ちを知っていると思い込んでいた。それなのに俺は想を置いて家を出ようとしていた。あのときの俺は想の目にはどう映っていたんだろう。どうして俺はもっと早く想の気持ちに気付いてやれなかったんだろう。
俺はすぐ側で想を守りたかったけれど、だけど近付きすぎていたのかもしれない。俺が想をちゃんと弟として見ていることが出来たら、傷つけてしまうこともなかったのかもしれない。
そんな今更なことを思って、今更なことに変わりはないのに口から出てきたのは、どうしようもない謝罪の言葉だった。
「……ほんとに知ってたって、結果は変わらなかったと思うよ」
想はゆっくりと立ち上がって、服の皺を伸ばすようにぱたぱたとシャツを叩いた。それから首元で揺れていたリングをそっと指先でつまんだ。想とふたりで歩いたあの海の、桜貝を思い出した。
「どういうこと」
「だって陸斗は優しいから」
想はそう言って、俺に手を伸ばす。細い腕だ。やわらかな産毛が雨上がりの風にふわふわと揺れる。その手の小さな爪が桜貝のようで、思わずじっと見つめた。
「離れたほうがお互いのためになる、とかなんとか言って」
「そりゃ、そうかもしれないけど。だけど母さんとふたりきりはお前だって」
「うん。だから、今のこの状況ってラッキーなのかもしれない」
想の手を右手で掴んで、自分の左手ではずみをつけて立ち上がるつもりだった。けれど思っていたより想の力は強くて、軽々と引っ張りあげられてしまった。
「ラッキーって、なんで」
強がりを言っている訳でもなさそうな清々しさをも感じられる表情で、想は笑う。湿り気を含んだ風が耳元で小さな音を響かせた。想にも同じ音が聴こえているだろうか。
「だって、僕たちどちらかのせいにしなくてもいい。僕たちは取り敢えず、お父さんのせいにして文句を言えば少しは気が収まるでしょ。例えば陸斗が自分で決めて家を出ていく状況だったとしたら、僕はきっと陸斗を少しは恨んだだろうし」
「まあ、それはそうなんだけど」
「それにもし」
想は、もし、と言ってから俯き、少しの間口を閉ざす。心配になって覗き込んだら、顔を上げた想は目を丸くして、苦笑いを浮かべた。
「もし本当に陸斗に他に好きな人ができたりしても、この状況なら少しはお父さんのせいにもできるでしょ。憎まれ役を買って出てくれたんだって思えば、可愛いものかも」
「憎まれ役、ねえ。まあ親ってのは少なからずそういう役割も担ってんだろうとは、常々思ってたけど」
少なくとも父は。
父は、想を家に連れてきて俺や母に憎まれないはずがないことはわかっていたはずだった。それでも父はあえて憎まれ役を選んだんだ。
別々に暮らすことを決めて押し切ることは出来たのに、それでもあえて想の希望通りに一緒に暮らすことに決めたのは、俺や母が想を憎んだりはしないと解っていたからなんだと思った。
それは信頼かもしれないし、甘えなのかもしれない。どちらにしてもその判断が想を守ったことにはかわりがなかった。月のうちに数日しか家には居なかったけれど、それでもそれが父なりの精一杯の罪滅ぼしだったのかもしれない。
そう思ったら、心の底にあったなにか重苦しいものがすうっと溶けていったような気がした。やっぱりどこか、悔しさは残るけれど。
「へえ、常々思ってたんだ」
そう言っておどけた顔をつくって感心したように声を高くした想を軽くひと睨みして、立てかけていた自転車のハンドルを握る。切り返しに失敗して橋桁にペダルがぶつかった。自転車にくっついていた水滴が、ばらばらと音をたてて落ちた。
「陸斗、かばん忘れてる」
想がそう言って、橋桁に立てかけてあったかばんを持って自転車のカゴに押し込む。濡れた革が、きゅっ、と小さな音をたてた。
「さんきゅ。そういやお前、携帯すぐわかった?」
「うん。なにか行き先がわかるもの入ってないかと思って開けちゃった。ごめんね」
「謝んなよ。そういう距離じゃねえだろ」
家族だから。そういう意味で言ったつもりだったけれど、どこか自分でも違和感を感じた。想は一瞬だけ押し黙って、少し俯いて短く息を吸い込んだ。
「……どういう距離なんだろうね」
思わず、想の顔を見つめる。想は言ったことを後悔したのか、困ったような顔をして、いまのなし、と小さく呟いた。




